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その後、どんな顔をして屋敷へ戻ってきたのか覚えていない。何と言って公爵夫人に暇を告げたのだろうか。機嫌を損ねたと思っていた公爵夫人にずいぶんと心配をされたので、酷い顔色をしていたようだ。
レイラの言葉がぐるぐるとクローディアの頭の中で回っていた。アーロンに自分以外に婚約者がいたことも衝撃的だったし、第一王妃という身分のシンシアへ思慕していたということも然りだ。
(あの年齢まで一人でいた、と言うことは女性と何もなかったというわけではなかったのだわ)
自分とは違う、とクローディアは思った。女性の貞操は守るべきもので、娘たちは社交界へ出るまで家の中で過ごし、外のことは知らないという者が多い。社交界デビューをして二年。きらびやかな世界を知ったつもりでいたが、例に漏れずクローディアも箱入り娘だったと言うわけだ。
(ソマーズ家……聞いたことのない名前。儚い雰囲気の美しい女性だった)
子供のようと家族から言われているクローディアとは正反対のしっとりとした大人の女性。いまはアーロンはどう思っているのだろうか。シンシアのことは……? クローディアのことはどう思っているのだろうか。
愛情よりも信頼で結ばれていると思っていた自分たち。どう思われているかなんて考えたこともなかった。クローディアもアーロンに焦がれるような思いを持っていないはずなのに。
(どうして、こんなに気になるのかしら?)
もし、いまでもシンシアを思っていたとしたら……。自分はどうするのだろうか、とクローディアはシンシアの美貌を思い浮かべる。光り輝く白金髪に人形のように完璧な配置をされた顔立ち。しかし、人形のような怜悧な印象を与えないのは、透き通る肌に桃のような赤みが差しているからだろうか。美しさと愛らしさが同居するような人。微笑まれれば女性のクローディアもうっとりとしてしまう。なのに、いまは胸が痛むのはなぜだろう。
「……奥様?」
「え?」
「これでよろしかったでしょうか?」
老執事のジーンの心配したような瞳がこちらを見つめていた。手に持っている用紙は、今日の夕食の献立表だ。屋敷の一室でジーンと今夜の打ち合わせをしていたのだ。
いけない。自分の考えに入り込んでしまっていた、とクローディアは慌てて用紙を覗き込む。
「ええ、これでいいわ」
いまになって変更はない。料理長やジーンの意見を聞いてメニューは決めてある。スープから始まるフルコースだ。もう下ごしらえはされているはずで、ジーンの確認も形式だけ。今晩の夕食はアーロンの友人のサイラスを招いている。それなのに、公爵夫人のお誘いを受けたのは庭園をじっくり見たかったからだった。
「それにしても、旦那さまは遅いわね」
窓から空を眺めると、日が沈み薄暗くなっている。今日はアーロンも早めに帰ってくると言っていたのに。
(もしかして、王宮へ毎日通いながら……)
自分で思い浮かべた無粋な想像にクローディアは慌てて首を横に振った。それは、毎日忙しく仕事をしているアーロンに失礼だし王妃であるシンシアに対しても不敬だ、と思い直した。
薄暗い空に黒いものが上階で旋回しているのが見えた。薄暗くてはっきりしないが、おそらく鴉だろう。ニーナたちの苦労はなかなか報われないようだ。
(あら……)
また別の鴉が、その旋回している鴉の方へ飛んでくる。屋敷へ鴉が集まってくるのかと思うとそれは気味が悪い。
しかし、鴉かと思ったそれは、屋敷へ近づいてくると違うことに気がつく。鴉なんかよりもっと大きい物体。
(鷹……、蝙蝠、ふくろう? いや、そんな大きさじゃないわ。……もっと大きい)
「では、料理長にも伝えて参りますね」
ジーンが部屋を出て行くが、クローディアは窓から目が離せない。その黒い物体はどんどん近づいてくる。
鳥の大きさではありえない。まるで人間ほどあるような。旋回していた鴉は道を開けるようにはためいている。そして、あろうことかその物体は屋敷の窓へ降り立ったのだ。
部屋を確認するとクローディアは走り出した。無意識でその物体が降り立った部屋へ向かう。それが何か確かめることしか考えていなかった。もう少し冷静ならば、人を呼んだだろうが。
好奇心が勝っている状態なので、恐ろしさも感じず扉を勢いよく開けた。廊下とは違ってシャンデリアは灯っていないが、薄暗い程度で見えないわけではない。
しかし、部屋の中にいたのは意外な人物だった。さっきからずっとクローディアの頭の中にいた人物。
「……アーロンさま」
薄暗い部屋に外出着を着たアーロンが立っていた。勢いよく飛び込んできたクローディアを見て目を丸くしている。
「どうしたというんだ?」
部屋を見渡してもアーロンしかいない。おかしい。この部屋だと思ったのに、とクローディアは首を捻る。窓を開けると旋回していた鴉もいない。
(私がいたのはあの部屋よね。ということはやっぱり間違っていないわ)
部屋の明かりと角度を考えて確認する。クローディアは驚いている様子のアーロンに向き直った。
「アーロンさまこそ。いつ帰って見えたのですか?」
「つい、いましがただ」
なぜ、そんなことを聞くんだ、というように訝しげに眉を顰めている。
(あら、なんだか瞳が……)
アーロンの青い瞳がいつもと違うことに気づく。澄んだ湖のような青い瞳。それがいつもより、薄い。いや、むしろ。
「……光ってるような」
クローディアが呟くと、アーロンが顔を背けるようにさっと横へ向けた。