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目の前に座るクローディアの旦那様は今日も厳しい顔をして、眉間に皺を寄せながら食事をしている。
そんなにお嫌いなものが出ているのかしら、と新妻であるクローディアは思っていたが、日々の生活を送る上で理解した。これが彼の普通の顔なのだと。
焼きたてのロールパンに野菜スープ、牡蠣の酢漬けに子牛のグリル、新鮮なラディッシュのサラダ。二人では食べきれないほどだ。
慣れというのは生活をしやすくさせるとクローディアは思う。どれくらい慣れたのかと言えば、その不機嫌顏を目の前に美味しく食事を取れるようになったくらいには。嫁いできた最初の頃は、夫の顔を見て、自分が何か気に触ることをしたのかしらと、気を揉んだものだ。
「ニーナ、今日の朝食もとっても美味しいわ」
クローディアはにっこりと微笑んで、給仕をしている年若い女中のニーナに声をかけた。
「クローディア様がそうおっしゃられていたと料理長に伝えますね。きっと喜びますよ」
にっこりとニーナが微笑む。目の前の夫は眉間に皺を寄せたまま、無言で立ち上がった。自分たちの会話が何か気に障ったのかと思ったが、そうではないらしい。夫の様子を見てクローディアも慌てて立ち上がる。いつの間にか夫の皿はテーブルからなくなっており、代わりにコーヒーカップが置かれていた。
「いい」
夫はクローディアを静止するように手で合図する。食事を続けたらよい、ということなのだろうと理解する。夫は無口なのだ。しかし、王宮に出仕するという夫を妻が見送らないわけにはいかない。
そう、クローディアの夫である伯爵アーロン・マクシミリアンは国王陛下の覚えもめでたい人物でもある。
毎日、帰りも遅く忙しそうなので、心配をしていると夫に伝えたことがある。すると、子供の頃から同じ年である若き陛下の遊び相手として仕えていたので、陛下に取り入って寵を得ていると心無い噂をしている者がいる。だからこそ、しっかりと勤めねばならないと夫に返されてしまった。真面目な人なのだ。
「今日のおかえりも遅いのですか?」
「おそらく。貴方は先に休んでいてくれてかまわない」
「そ、そういうわけには参りませんわ」
昨夜も帰りの遅い夫を待っていた。待っている間にうとうととして、欠伸を噛み殺していたのはもちろん内緒だ。夫にはそんな様子などバレていないと思うがどきりとクローディアの胸が鳴った。
慌てるクローディアなど目に入らない様子のアーロンは、胸元から懐中時計を取り出し時間を確認すると、パチンと片手で閉じる。
「私は陛下にとっては犬のようなものだからね。では、行ってくる」
大股で出て行こうとするアーロンをクローディアは慌てて追いかける。
(い、犬? 忠犬のように従っているってことかしら?)
犬のように可愛いものだとは到底思えない体躯をしている、長身のアーロンの歩幅は大きい。小柄なクローディアは小走りにならないと付いていけないほどに。本当に見送りなどいらないと思っているようだ。いつもは気をつけて食事もアーロンに合わせて手早く済ませているというのに。今日は失敗をしてしまった。
クローディアが追いついた時には、シャンデリアが下がる豪奢な玄関ホールで、アーロンは老執事のジーンから上着を受け取っていた。追いかけてきたクローディアを一瞥したが、眉間に皺を寄せたままだ。
(美しいお顔が台無しだわ)
アーロンは人目をひく容姿をしている。見上げるほどの長身に、整った精悍な顔立ち。そして何よりも澄んだ湖を思わせるような青い瞳を持っていた。
もう少し愛想を良くすれば素敵だろうに。サロンのご婦人たちからも人気になるに違いない。マクシミリアン伯爵は気難しくて近寄りがたいと不名誉な認識をされているのだ。もちろん、それが正しい認識だとクローディアも思う。あの気難しそうに刻まれた眉間の皺を指で伸ばしてあげたらどうだろうか。少しはご婦人たちからも好かれるかも知れない。しかし、そんなことをしたらアーロンはどんな顔をするだろう。クローディアは想像してみる。もしかしたら、あの不機嫌顏も目を丸くしたりするかも知れないわと。驚いた顔を想像すればクローディアは笑いが込み上げてきた。
「……というわけで、気をつけるように」
「は、はい?」
クローディアが顔を上げると、アーロンの不機嫌そうな青い瞳とぶつかった。
しまった。
何か言われていたようだが、自分が想像をした目を丸くしているアーロンで頭の中がいっぱいになっていた。
「聞いていなかったのか?」
呆れたような声にクローディアは頷くしかない。ため息が頭上から聞こえて、さらに小さくなる。そんな様子のクローディアを見かねたように、老執事が横からささやいてくれる。
「奥様、最近巷では物騒な事件が多いので、旦那様がご心配なさっておいでですよ」
「物騒な事件?」
サロンでは聞いたことがない。クローディアが会うご婦人たちは皆、噂好きなのに。サロンに集まるご婦人方はクローディアより年上の三十代から四十代の暇を持て余したマダムたちだ。退屈とお金を持て余している軽薄な方々。噂好きな分、それを仕入れてくるのも早いのだ。もっぱらの話題は恋愛ばかりなのだが。誰と誰が恋仲というのをどうやって知るのだろうか、とクローディアは不思議でしょうがない。
「何でも誘拐事件が多発しているとか」
誘拐!
「まあ! なんて恐ろしい!」
なんて物騒な話だろうか。どこのご婦人が攫われてしまったのだろう。
クローディアは恐ろしさに身体を竦ませて両腕を抱いた。
「大丈夫ですよ、奥様。旦那様も、微力ですが我々もおりますゆえ」
「どちらのご婦人がいなくなってしまわれたのですか?」
「ご婦人ではなく、市井の幼児たちだ」
「……幼児。まあ、てっきりご婦人が攫われたのかと思いましたわ」
「子どもばかり狙われているようだ。報告を受けただけで、すでに五人」
「なんて物騒なんでしょう。親はどれほど心配しているでしょうね。早く犯人が捕まって子どもたちが親の元へ戻れるといいのですが……。あ、そうだわ。私たちも見回りなどしたらどうかしら?」
いい案が思いついたと、クローディアは手を叩いた。
子供を守るのは大人の役目だ。犯人を捕まえるのは無理でも予防するのはクローディアでもできる気がする。人目があれば、子どもを攫うのも難しいだろう。
すると、頭上から先ほどよりも深いため息が吐かれた。まるで呆れたような。
「旦那様は、奥様もお気をつけるようにとおっしゃっておいでです」
慌てたジーンの言葉を聞いて、クローディアはころころと笑ってしまう。
「いやだわ、アーロン様ったら。犯人が狙っているのは子どもなのでしょう。私は子どもではありませんわ」
十八になるクローディアは人妻になったばかりの立派な大人だ。両親からはちっとも落ち着きがないと言われていようとも。
「今のところ子どもばかりが攫われているが、いつ女性が狙われるとも限らない。貴方も十分気をつけておくれ」
諭すようなアーロンの声音に、笑っていたクローディアも素直に頷いた。旦那様は心配もしてくれる。過剰ではないかと思うのだが。
「では、行ってくる」
颯爽と出かけるアーロンの後ろ姿を見送った。
「では、奥様はお食事に戻られますか?」
執事の言葉にクローディアは頷く。そうだった。スープを味わっている途中だったのだ。
食事の後は伯爵邸の広い庭を運動がてら散策し、午後からは手紙を書くのに費やす。夜会を催したり、招待されたり。若き伯爵夫人の毎日は忙しく過ぎていく。
結婚をして半年。
慣れ始めた伯爵夫人という地位。気難しそうで、いつも不機嫌そうで、無口な旦那様。近寄りがたい雰囲気をいつも纏わせているが、クローディアを丁寧には扱ってくれる。
甘い言葉を言ってくれたことはないし、身を焦がすようなときめきがあるわけではない。でも、不満もない。これが結婚というものなのか、とクローディアは思い始めていた。