第一話 『ベビー・デーモン』(前編)
鼻と口が同時に詰まったように、息苦しかった。目を開けると薄い緑色の液体が目に入る。
自分がどこにいるか、全然わからなかった。緑色の視界の先には石畳で一辺が十mの部屋があった。
部屋と液体の入った空間は、ガラスの板で仕切られていた。
息苦しさはどんどん増してくる。
早くここから出なければ死ぬ。ガラスの壁を叩いた。肘から先が毛むくじゃらの腕が動いた。
(腕、これが僕の腕)
手に意識を持って行くと、手が握ったり開いたりできた。
自分の手に、背筋が寒くなる。だが、苦しさが、嫌悪感を吹き飛ばす。
(出る、出るんだ。生きて、ここから出るんだ)
ガラスの壁を叩くと、大きなヒビが入った、二撃目、三撃目と入れると、ガラスが割れた。
中の液体と共に体が外に出た。肺に液体が詰まった嫌な感触を覚えた、肺に詰まった液体を吐き出す。
液体を吐き出して、体を見る。子供のように小さな体をしていた。身長にして百四十㎝。肘から先と膝から先には獣のような毛が生えており、それ以外は赤い肌をしていた。
顔を触ってみるが、顔は毛で覆われていた。ただ、頭髪の代わりに小さな角が二本、生えていた。
顔がむずむずした。顔の肉が引っ張られるような感覚がする。犬のような鼻を伴った口が、前に突き出てきた。
何でこうなったか、全く思い出せなかった。ただ、自分の名前が「ユウタ」とだけ思い出せた。
(何だ? 何が起きているんだ)
よく訳がわからない。後ろを振り返ると、自分が今しがた入っていたガラス管のような装置がある。ガラス管の固定部に人間の骸骨があった。
ピピピピ、と音がする。部屋の中心に墨から真っ黒な煤玉のような存在が集まり、直径一mの塊になる。塊に大きな赤い口が現れると、そいつは不気味に笑った。
「サラマン」と黒い塊が機械的な声で叫ぶと、黒い塊の前に直径三十㎝の火の塊が現れる。
危険を感じて横に飛びのく。さっきいた場所に炎の塊が飛んできて、激しい蒸気を上げる。
(何だ、こりゃ? 魔法か? そんなことは、どうでもいい。目の前の黒い塊を殺さねば殺される)
黒い塊が距離をとったので、落ちていたガラス片を手に取って投げつけた。
黒い塊はガラス片をひょいひょいと避ける。
「痛い」と、ガラス片で手を切った。手からは青い血が流れた。
黒い塊は距離を取ると、再び「サラマン」と唱える。火球が出現する。
火球は先ほどより速いスピードで飛んできた。でも、どうにか避けた。
(武器になりそうなものは、ないか)
ガラス管の中にある骨が見えた。だが、骨を拾いに行けば、黒い塊に背を向ける。
背を向ける行為は危険だった。ぎゅっと拳を握ると、拳が硬く感じた。
(これ、人間の拳じゃないから、殴ってもかなり痛いはず)
ユウタは走ってガラス器具の前に行く。骨を拾うように装う。
「サラマン」と再び機械的な声が聞こえた。すぐに飛びのいて体勢を変える。黒い塊に走り込んでいって、殴った。柔らかい枕を殴ったような間隔がした。
黒い塊が悲鳴を上げ、距離を開けようとした。黒い塊を片手で掴んで、無茶苦茶に殴りつけた。ユウタの攻撃が当る度に、黒い塊はぼろぼろと崩れる。黒い塊はそれでも口を動かして魔法を唱えようとした。
危険を感じたユウタは、思いっきり右拳で黒い塊を打ち抜いた。ユウタの腕が黒い塊の中にめり込む。
すぐに左手も突っ込み、黒い塊を左右に引き裂いた。黒い塊はバラバラになり、動かなくなった。
「勝ったのか」
無我夢中の勝利だった。部屋の光が一度、消えた。
次に点いた時には、ピンクの長い服を着て黒いブーツを履いた女性が立っていた。女性の身長は百八十㎝と高く、青い髪を肩まで伸ばしていた。
女性の頭には羊のような角があった。女性の肌は白いが、瞳はオレンジ色をしていた。女性が冷たい顔で簡単な自己紹介をする。
「とりあえず、合格ね。私の名はラーシャ。悪魔神殿の神官よ」
ラーシャは何もない空間から、手品のように一枚の黒い布の半ズボンを取り出した。
「生き残った褒美に、それをあげるわ。裸よりマシでしょう」
ラーシャに裸だと指摘され、多少は恥ずかしくもあったのでズボンを穿く。
「ここ、どこなんですかね? それに僕は、いったいどうしたんでしょうね?」
ラーシャが興味のない態度で告げる。
「ここは悪魔王ゴーサンダインの城で、貴方は生まれたてのベビー・デーモン」
(僕が悪魔? ベビー・デーモン?)
「嘘だ。僕は――」と言いかけて、適当な言葉が出てこなかった。
ラーシャが冷たい顔で告げる。
「何か問題が?」
(僕はベビー・デーモンなんかじゃない。僕はユウタだ。だが、ユウタって、誰だ? どんな奴だ?)
ラーシャが険しい瞳でユウタを見ていた。危険な空気を感じたので、とりあえず話を合わせる。
「そうです。僕はベビー・デーモンのユウタです」
「ユウタ」の単語を聞くと、ラーシャ瞳が一層、険しくなった。
ユウタはおそるおそる尋ねる。
「あの、何か、ユウタにまずい意味が……」
ラーシャは、つんとした顔で告げる。
「別にないわよ。悪魔王様が直々にユウタにお話をしてくれるから、有り難く聞きなさい」
ラーシャが軽く手を上げると、直径二mの、黒い鏡のようなものが出現した。
鏡は真っ黒で、音声だけが聞こえてくる。
「まずは、誕生おめでとう。お前はこれから『シャンナム』での悪魔生が始まる。今のところ使命はない。好き勝手に生きろ。詳しい話は、ラーシャから聞け。以上だ」
鏡からの音声が途絶えると、鏡は煙のように消えた。
ラーシャが素っ気ない態度で告げる。
「そういうわけだから、勝手に生きなさい」
「勝手に生きろと命じられてもですね。僕はまだベビー、赤ん坊ですよ」
ラーシャが険しい顔で、突き放すように発言する。
「だから何? 小鹿だって、生まれたその日から、厳しい生存競争があるのよ、甘えないで」
「でも、こう何か、初期装備みたいのを貰えませんかね」
ラーシャが部屋の隅を指差すと、蜜柑箱ほどの大きさの宝箱があった。
(あれ? あんな箱は、さっきは、なかったぞ)
「じゃあ、あれ、あげるわ」
宝箱を開けると、木製の棍棒が入っていた。
「ないよりは、いいけど。初期装備は棍棒か。これ、もっと、グレード・アップとか、できませんかね?」
ラーシャが冷たい顔で指示する。
「いいわよ。なら、貸しなさい」
ラーシャに棍棒を渡す。ラーシャは何もない空間からペンを取り出すと、サインをする。
「はい、これで棍棒がサイン入り棍棒になったわよ」
「サイン入りだと、攻撃力あがったり、します?」
ラーシャは蔑む顔でくさした。
「馬鹿でしょう。そんなんで、攻撃力が上がるわけないでしょう」
「そうですよねえ。あと、この世界レベルとか、あります?」
「あるわよ」と当然のようにラーシャは話す。
「僕から聞いておいてなんですけど――え、あるの?」
「お金を貯めて悪魔神殿に金を寄進すると、強くなれるわよ。ちなみに今のユウタのレベルは一よ」
「レベルニになるのに、経験値は、いくら必要なんですか?」
ラーシャがむっとした顔で説明する。
「ユウタは人の話を、よく聞いてないでしょう。そんな、わけのわからない経験値なんてものは、この世界には、ないわよ。世の中、金よ、金。五百枚の銀貨を持ってきたら、レベルを二にしてあげるわ」
レベルが存在するとなると、気に情報もある。
「レベルが上がると、やはり、派生進化とかあるんですかね?」
ラーシャがつんとした顔で、呆れた口調で意見する。
「あのね。質問は銀貨五百枚貯めてからにして。ベビー・デーモンなんて、レベル二になる前に、たいてい死ぬのよ。そんな説明、するだけ無駄よ」
「わかりました。レベルが二になったら教えてください」
視界が一瞬、暗くなる。
視界が戻ったときには昼下がりの大きな広場の真ん中に棍棒を持って立っていた。