ニッポンロックヒストリーその3『黒船 襲来!サディスティック・ミカ・バンド』
「サディスティック・ミカ・バンド」は67年「東芝EMI」からリリースされた「帰って来たヨッパライ」でミリオンを売上げ大成功した「フォーク・クルセダーズ」の加藤和彦がバンド解散後、当時の妻「福井ミカ」とともに始めたバンドだ。
メンバーは他に、高中正義、高橋ユキヒロ、小原礼、今井裕、後に後藤次利など、そうそうたるメンバーが参加している。
名前の由来はジョン・レノンの「プラスティック・オノ・バンド」のもじりで、サディスティックはミカの包丁さばきがサディスティックなところから来ているらしい。
ちなみに「フォークル」の「帰って来たヨッパライ」は当時でミリオンだからスゴイことだ。
「オラは死んじまっただ~。天国よいとこ一度はおいで。酒はうまいし、ネーチャンはキレイだぞ~♪」という歌を、再生の回転数を早めて流すアイディアが斬新であった。
ミリオンセールスはその後、大瀧詠一の「ロンバケ」やYMOが出てくるまではJ-POPSの中では無かったのではないか…!?
さて、ミカバンドに話を戻そう。
トノバンこと加藤がフォークル解散後、次なる何かを求めてアメリカはサンフランシスコへ渡る。
そこでヒッピーに触れ合うがあまり面白くなかったので、次にイギリスのロンドンへ渡り、デビット・ボウイや、T・REXのグラムロックに触れ、その後、加藤はロンドン一辺倒にハマル事となる。
ほとんどロンドンで生活してるくらい通った加藤は、ソロでの表現の限界を感じ、バンドを作ろうと決心する。
加藤は最初、自身のソロ「スーパー・ガス」でドラムスを叩いてもらった「フライド・エッグ」の「つのだ☆ひろ」に接触し、その流れで、同じくフライドに在籍していた高中正義もミカバンドへ参加する事となる。
ファーストシングル「サイクリング・ブギ」のレコーディング後、つのだは、自らのバンド「キャプテンヒロ&スペースバンド」を結成すべく脱退。
その後、一時的に「PYG」の大口広司がドラムスを担当するが、すぐに当時「ガロ」のサポートで叩いていた高橋ユキヒロに変わる。
ベースの小原礼も「ガロ」のサポートをしていたので、ユキヒロの紹介でミカバンドに加入した。
余談だが「つのだ☆ひろ」は3人兄弟の長男で、弟が「恐怖新聞」でおなじみの漫画家「つのだじろう」氏である。
私は一時、その下の末っ子、実妹○○さんと、新創刊するサーフィン雑誌の仕事でお世話になっていたことがある。
話は反れた。^^;
ミカバンドはその後、73年セルフプロデュースでファーストアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」を発表。
この作品はファッショナブルでダンサブルな、今までの日本にない新しいスタイルのロックンロール・アルバムだったが、メディアはさほど取り上げなかった。
ミカバンドは、73~74年は、72年に革ジャン・リーゼントで衝撃デビューをした「矢沢永吉」ひきいる「キャロル」とジョイントでライヴを行う事が多くなる。
当初はキャロルがミカバンドの前座であったが、後に立場は逆転する。
そんな中、ミカバンドに転機が訪れる。
ロンドンへ充電休暇中に音楽評論家「今野雄二」を介して、イギリスの人気グループ「ロキシー・ミュージック」の広報担当と知り合い、ロキシーのメンバー「ブライアン・フェリー」とも親交を深めるかたちとなる。
「こんなのを作った日本人がいる」とファーストアルバムをあちこちに配ってくれた関係で、名プロデューサー「クリス・トーマス」から「次は私にプロデュースさせてくれ」と直接声がかかった。
クリスはロキシーのプロデュースの他、ビートルズの「ホワイトアルバム」やプログレの大御所「ピンク・フロイド」、のちに「セックス・ピストルズ」もプロデュースした大物だ。
クリスは当時、デビューが決まっていた「クィーン」のプロデュースを断って、ミカバンドのプロデュースを志願したので相当な熱の入れようだったに違いない。
74年。
ここでついに、日本のロック至上「名盤」とうたわれるアルバム「黒船」が出来上がる。
スライ・ストーン系のR&Bをイギリス風、プラス「プログレ」にアレンジされたサウンドともいうべきか!?
他にも当時の日本としては珍しい「スカ・レゲエ」のリズムも取り入れたりと、ミカバンドは時代の最先端を走っていたのではないか!?
このアルバムは日本のメディアでも高い評価を得て、当時日本ではロックのアルバムがチャートインすることが珍しかった時代、30位台に入り3~4万枚売れ、そこそこ国内で成功する。
日本ではそこそこだったが、海外での評価は違かった。
海外版「Black ship」はイギリスでは10万枚以上も売れ、最高位6位まで上がった。
ニューミュージックマガジン誌にも特集を組まれたり、「ロキシー・ミュージック」と英国ツアーを回り、逆に喰ってしまう勢いであった。
当時ミカバンドはTVや雑誌のインタビューは全部英語でこなしていたが、歌詞は全部日本語。「何か違ったバンドが出てきたぞ!」と海外でミカバンドはカルトな人気を博すのだった。
英国ツアーの時にはベースの小原は脱退しており、代わりに後藤次利が新メンバーに加入。
白いシャツで派手なチョッパーベースを奏でる後藤は、人気を博す。
当時スラッピング奏法が浸透していなかったイギリスで、多大な影響を与えた。
彼のベースプレイから「パワー・ステーション」を始めとしたチョッパープレイヤーが、続々誕生してきたとも云われている。
ツアー中、「ピンク・フロイド」のロジャー・ウォーターズが彼らの楽屋に訪ねて来て、「次は僕にプロデュースさせて欲しい」ときたりと、当時のミカバンド人気がどれほどのものだったか分かる。
その後、アルバム「ホット・メニュー」をリリース後、加藤夫妻の離婚と同時に解散。
加藤はソロへ。ミカは黒船のプロデューサーであったクリス・トーマスとデキちゃってイギリスに残ることに…。
他、メンバーは「サディスティックス」と名乗り、フュージョン・インスト系のバンドとして活動をする。
その後の各メンバーの活躍振りはご存知の通りだ。
今でもミカバンドの伝説はしっかりと残っているようだ。
「ポリス」初来日の時、楽屋を訪ねた加藤に「あのとき観たよ~」と、あのスティングから逆にサインを求められたそうな…。
ミカバンドは日本よりロンドンでの方が断然人気があったようだ。
ロック創世記のニッポンでのファクターといえるバンド。
ひとつはアメリカンロック的なアプローチの「はっぴえんど」であり、もうひとつはいうまでもなく、ブリティシュロックティスト溢れる「サディスティック・ミカ・バンド」だ。