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1-1

 ふと、水を打ったようなぱしゃんという音が聞こえたような気がして、台所で林檎の皮を剥いていたアリアンテは手を止めた。家の中には自分と今年5歳になる息子しかいないはずだが、その息子、ロアンツは自らの手で物を食べることは愚か、言葉を発することも出来ない「寵愛者(ちょうあいしゃ)」。座らせていた場所の近くに果実の絞り汁が入ったコップを置いてはいたが、まさかそれを自発的に掴もうとするはずがない。


 寵愛者とは、神様のお気に入り。

 神に愛されたが故に、生まれてくる時に魂を込めて貰えなかった可哀想で幸福な子供。

 

 その寵愛者達は総じて寿命が短く、平均すると大体皆15歳頃にその生涯を終えるが、そのうえ一日に20時間近く眠るので昔は寵愛者を里子に出す者もいた。しかしその里子先がどの種族よりも寵愛者を大事に育てると言われているエルフの森であったため、やはり愛情はみなあったのだろう。

ただ、様々な理由で育てられなかっただけで……。


 そのエルフの森に住むアリアンテは、まさかここに、「この家に」悪意ある侵入者などいるわけがないと思いながらも自然と足が急いだ。




 エルフの寵愛者は代々神のお膝元である「核木(かくぎ)」の中で暮らす。

 核木とはエルフの森の最深部に位置する大きな大きな、樹齢はや10000年とも言われている、所謂ご神木である。

 しかし核木と言われている理由は、名前の通りエルフの森の核であるゆえのもの。その木が死ぬとき、エルフ達の故郷である森も息絶える。


 もちろん一番大事なそれが簡単に死ぬわけもない。むしろヒューマンの街の城よりも丈夫なそれは、戦争が始まるとシェルター代わりとなる。女子供、特に寵愛者は常にそこで守られる。


 寵愛者の……ロアンツの母であるアリアンテも今はそこで暮らしている。もともとはただのエルフの若者だったが、子供を産んでからはずっとここで軟禁とも言えるような生活を送っていた。しかし子供の為を思えば苦しいということもない。

 神に愛された子供は極端に体が弱い。水でも浴びようものならその日の内に熱を出し、膝をすりむけばすぐに化膿し、下手をすれば切断せざるを得なくなるほど細菌に対して免疫がない。


 彼女はひらひらと舞うエルフ特有の透けた蝶の翅のような服をもどかしく思いながら廊下を駆けた。現在この森にいる寵愛者はロアンツ一人。核木は長老でさえ仕来り通りの手続きを踏まなければ入れない神聖な場所。

 つまりここには息子と自分しかいないはず。


「ロア!」


 リビングの入り口にかかったドア代わりの布をばさりと派手に翻すと、部屋の中で子供サイズの椅子に座っていたロアンツがびくりと体を揺らした。魂を、自我を持たない寵愛者としては明らかに異常な動作。


「あなた……どうしたの、それ……」


 アリアンテは自分の息子であるエルフの子供をそっと抱き上げた。


 さらりとした、自分のそれによく似た金髪。輪郭は子供にしてはしゅっとしていて、どこまでも綺麗に澄んだ青の瞳……。



そのどちらもが闇を思わせるほどの深い黒に染まっていた。


「あぁ……」


 いつもならくたりと自分に寄り掛かるロアがまるで恥じらうかのように体を蠢かす。

 そこから感じられるものは恐怖。または嫌悪。間違っても息子から向けられるべき感情ではない。


 アリアンテは控えめにもぞもぞと動くロアを落とさないように気を付けながら核木を出た。入り口で門番をしていた若い男のエルフが驚いた顔をしたが会釈だけをするとそのまま長老の元へ急ぐ。本来ならば森の中であろうと護衛無しでは歩いてはいけないのだが、アリアンテの慌てた様子から空気を読んで門番の男は何も言わなかった。



 久しぶりに核木の外へ出たというのに、その開放感を彼女はじっくりと味わうこともなく走った。長いスカートの裾が足に絡みつくのが鬱陶しい。長い耳に絡む髪もいっそちぎってしまいたいと思った。


「まぁ、どうしたの、アリア?」


 わずかに肩から浮いた金色の髪を内側に巻いた背の高い女性が驚いた顔でアリアンテを見た。その傍らには同じように驚いた顔のツインテールの少女もいる。背の高い女性に顔がよく似ていた。おそらくは女性の子供だろう。もちろんどちらもエルフで、背の高い女性はアリアンテの知り合いだ。


「あぁ、リウリーゼ……長老様はどこ? ロアが大変なの」

「えぇ? ……多分、今の時間ならご自宅かしら」


 アリアンテはリウリーゼの言葉を最後まで聞く前に足を動かしていた。ツインテールの少女が小さな声で「ロアくん?」と呟いたのは耳に届いていたが、そうだよ、仲良くしてねと声を返せるほどアリアンテの心には余裕がない。

 変わらずにアリアンテの腕の中小さな抵抗を続けるロアを、悲しげな表情をして彼女はきゅっと抱きしめた。


「長老様……!」


 花柄の可愛らしい柄の布を乱暴に捲りあわただしく入ってきたアリアンテに、齢500年程のエルフの老人が長くたゆんだ白い髭を撫でつけながら驚いたように目を見開きそのまま見つめた。


「その子供は……まさか、そうか……呼び魂か」


 エルフにはいないはずの黒い髪に、同色の瞳。一目見ただけでそう判断した長老はこれまでに何人の寵愛者を見てきたのか。息を荒らげるアリアンテに落ち着くよう椅子を勧め世話役のエルフに二人分のお茶を頼むと、この間までとろんとした目で自分を見つめてきた子供の頭をそっと撫でた。


「安心しなさい、焦ることはない……そう、焦ることは。この子はもう、15歳までに死ぬこともないだろうて」


 長老の言葉にアリアンテはほっと息をつくも、すぐにその胸は締め付けられた。

 15歳以降の生きることが出来る……呼び魂。寵愛者となり神に愛されたものの中で、さらに神に気に入られた者がなる、世界で一番神に近づける存在。


 読んで字の如く魂を呼び、空っぽの肉体に火を灯すその行為は、なかったはずの自我、意識を生み、さらにその体は普通に生まれた者の何倍も優れたものとなる。

 エルフの森の掟では、呼び魂となった者は核木に匿われる必要がないと判断されるが、それは普通の子供と同じように自分で判断し歩けるからという理由だけではない。むしろ、そういった力ある者を無理に抑圧しようとするとある日突然大量の火薬に火を点けたように爆発してしまうのを長い歴史の中で知っているからゆえの「対処」だった。


 森に住む者、寵愛者を産んだ者として知識だけは頭の片隅にあったアリアンテは、胸に抱く幼いわが子にほんの少しだけ恐怖を覚えた。

 ……もしかしたら先ほどからのこの抵抗もそういった爆発の一部なのでは?

 ……もしかしたら今までの自分の育て方に嫌気がさしているのかも。

 ……もしかして、もしかしたら……。


「アリア」


 ロアの頭を撫でていた長老が疲れたようにため息を混じらせアリアンテを呼んだ。


「自分がすべて悪いだなんて考えるのは、お主の昔からの悪い癖だ」

「す、すみません」


 指摘されて改めて思う。自分は確かに良い母親ではないだろう。

 ……だって息子は、ロアは、エルフの自分と人間の男との間に出来てしまった、ある意味では忌子であるのだから。

 何十年、何百年後かに自分が死んだあと、ロアに味方が誰もいないなんて可能性はそう低くもない。


 自分は良い母親ではないだろう。

 しかしそう悪い母親でもない気がする。


「……これから、どうすれば良いのでしょうか」


 本来ならば人間との間に子供を身ごもった時点で追放されるはずだった自分を助けてくれたのは目の前のこの老人だ。それは「アリアの子供が寵愛者だったら誰がどう責任をとる?」という、長老という立場を揺るがしてしまうかもしれないほどに重い言葉であったが、それがどうして自分の子供は神に愛されて生まれてきた。

 今ではみな、手のひらを返したように自分を敬う。

 もちろんリウリーゼのように自分が何をしても心から信じてくれるような仲間もいたが、それでも……。


「普通はエルフは10歳になるまでは森を出られん。精霊たちが心配してついて行ってしまうからな。しかし10歳までこの子の力がこの体の中で治まるのか……」


 アリアンテは長老の言わんとしていることがなんとなく分かって、疲れたのか昨日までと同じようにくてんと力なく自分に寄り掛かるロアを見た。


 要は精霊をなんとか抑えられるか賭けに出てロアを外に出すか、あるいはロアの力が爆発しないように祈りながらここで育てるか。

 どちらも失敗すれば森の壊滅は免れない。特に後者は精霊も巻き込んでしまうので、その後復興出来るかどうかも心配なところ。


「……私は出来れば森でこの子を育てたいです。10歳までは」

「ふむ……」


 普通のエルフは一生をここで過ごすか、あるいは外の学校に行くにしてもそれは12歳から。

 ロアの場合10歳まで持つかもわからないのに、それからあと二年もだなんて悠長なことは言っていられない。


「……保険として、もしも力が溢れてしまった場合に備え、お主らは今日から泉の辺りで暮らせ。そしてなんとかロアが心穏やかに過ごせるようにするのだ」


 長老の言葉にはいと答えてアリアンテは静かに席を立った。もし爆発しても泉の近くならばもっとも出口に近い場所なので森も損傷が少ないだろう。


 先ほどとは打って変わって……それこそ別人のように大人しくなったロアを抱えると、会釈をしてアリアンテは長老の家を出た。来るときは気が付かなかったが、久しぶりに吸った外の空気はなんて綺麗で美味しいのだろうか。思わずほう、と息をついて核木の方を見やる。


 清々しいまでに伸びに伸びた大木。それをくりぬいて作られた寵愛者達の家。

 それは落ち着いたシックな茶色の気にくすんだ緑の葉が生い茂る、見様によっては怪物のようにも見えるものだった。


 自分たちはあの家からは吐き出されたのだ。もういらない、必要ない、と。

 それはお世辞にも嬉しいと言えるような表現ではないが、しかし実際そうなのだ。


 今までアリアンテを敬ってくれた人たちもそれは彼女が寵愛者の母親だからであり、呼び魂と呼ばれる魂のはいった忌子となったロアの母親になんてきっと見向きもしないだろう。

 寵愛者とはたしかに神に祝福を受けし者の証で、それは呼び魂も同じことだが、彼らに必要なのは「15歳程で死んでしまう可哀想な神に愛された子供」である。特にロアのようにどこの誰とも自分たちが知らない種族の男との間に生まれた爆弾を可愛がれるはずがない。


 長老が泉の近くの家を指定してくれたのはむしろ良かったのかもしれない。あそこには自分たちが住む予定の一軒以外に家はないはずだ。


「さぁ、行きましょうか私たちの家に」


 エルフはほとんど娯楽というものを知らない。核木の中には私物と言えるようなものはあまりないはずだ。

 長老の家を出たその足で新しい我が家へと足を進めると、思い出したようにロアが身じろぎしだすのだった。

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