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午前8時前。人が賑わう通学路から逸れて、立ち入り禁止の札がぶら下がった入り口を制服姿の四人の男子学生が跨いだ。高校生くらいだろうか。一人は黒髪に死んだような目をした線の細い少年。いや、丁度少年から青年へと移り変わろうという年頃だろうか。他の三人の学生も皆似たような年代だろう。
しかし黒髪の少年よりも体つきはよく、そしてなにより赤茶色に染められた短く立った髪が黒髪の少年とは一線違った世界に住むことを否応無しに語っていた。
学生達はぞろぞろと立ち入り禁止の区域の奥へと進んでいく。
「どこまで行くの」
他の三人がにやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべる中、一人表情のない顔で、頭一つ分背が低い少年がぽつりとそう呟いた。他の三人に問いかけたのだろうがその声には抑揚というものがない。
赤茶色の髪の少年達もそれが独り言なのかどうか一瞬迷ったようで、数秒三人で顔を見合わせたあとにやっと「うるせぇ、黙って歩け」と一言乱暴に返した。それに対し黒髪の少年からは何も反応がない。ただただ面倒臭そうに、たまに急かすように小突かれながらのろのろとついて行く。三人の男に囲まれながら進む姿はさながら囚人か何かのようだ。
「……この辺りでいいか」
立ち入り禁止区域ではあるが、ひと気がないどころかいっそ生き物の気配すらしない、薄っすらと霧が立つ暗い池の畔で赤茶色の髪の少年は足を止めた。その声に従って他の二人が無駄のない動きで黒髪の少年の腕を後ろ手に縛り上げる。ギリギリとロープが手首に食い込むのもお構いなしの乱暴な手つきだったが、黒髪の少年は涼しい顔でそれを受け入れた。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
むしろ黙っていた方が苦しみは軽いと早くも悟ったような表情だった。
「よし、こっちに来て膝をつけ」
赤茶色の髪の少年達のうちもっとも楽しそうに嫌らしく笑う、星のピアスをした少年が黒髪の少年を手招きした。それに無表情で従う彼をどう見ているのか。自分に従順であるとでも思っているのだろうか?ましてや猛獣を扱う調教師のごとく上手く黒髪の少年を操っているとでも思っているのだとすればそれは酷い自惚れというものだ。学生服の中に未だ消えぬ傷を蓄えたライオンの目の少年が喜んで下愚の元へ跪く理由など一つしかありはしないのだから。
「よし、お前らしっかり押さえておけよ」
言うや否や星のピアスをした少年は黒髪の少年の後頭部を鷲掴みにした。あぁやはり。黒髪の少年の死んだ目に一瞬だけ侮蔑と嘲笑、落胆の色が現れた。それは立ち入り禁止の札を跨いだ時から想像していた「今日の儀式」の内容がその通りだったことによる、赤茶色の少年達の想像力の無さに対する哀れみでもあった。
しかし他の三人はその暗い瞳に混じった色に気づくこともなく、自分達はこの青白い肌をした小柄な少年よりも肉体的にも、精神的にも強者であると誤解したまま儀式という名のいじめを進める。
赤茶色の髪の少年のうち、前髪が左右非対称な少年が黒髪の少年のふくらはぎの辺りに座り、もう一人の眉毛が薄い少年は後ろ手に縛り上げた少年の手をしっかりと掴んだ。短い草の生えた地面に膝をつけた少年はじっとりと感じる微妙な水気に眉根を寄せながら黙っていた。
星のピアスをした少年はそれを確認すると黒髪の少年の顔を池の中に深く沈めた。少年はばたばたばたばたと手足を可能な限り暴れさせてはみるが、三人がかりとあってはそうそう抜け出せるようなこともない。
「(まあ、想定の範囲内だけど)」
手足をバタつかせるのは三人の少年達に対する一種のリップサービスだ。あらかじめ今日の儀式に察しがついていた黒髪の少年は頭を押し付けられる前に深く息を吸っていたから、我慢すれば一分程度なら息を止めていられた。
しかしただ黙ってされるがままになってはこのいじめっ子達は満足しないだろう事も理解して、少年はわざと苦しんでいるかのような演技をしているのだ。
もちろん体を動かせばその分酸素を消費するので自分の首を絞めることにもなるが、何の準備もしないでされるがままでいるよりは楽だし、精神衛生上もさして悪くない。
……中学時代にまた別な少年達に初めていじめられた時に比べれば、ずっと良い。
「なぁ、そろそろ上げないとやばくねぇ?」
体力のない少年が四肢を蠢かせるのに疲れてきたのを良い方向に勘違いした左右非対称の前髪をした少年がそう言うと、星のピアスをした少年が池に沈んだ黒髪を鷲掴み、引き上げた。最後のサービスにゲホゲホと咳き込んでやると明らかに優越感に浸ったような顔をして笑みを零した。そしてまた少年の頭を池に押し込む。今度は先ほどよりも強く押されたために派手な音がして、少年の肩までが水に浸かった。
「……おい、そこに誰かいるのか?」
笑い声と派手な水の音が悪かったのだろうか。人気のない池の畔だからと油断していたためにゆっくりと忍び寄ってくる懐中電灯の灯りに誰も気がつかなかった。赤茶色の髪の少年達の緊張と焦りが水の中で耳を澄ます少年にも伝わってきた。これを逃す手はない。ここぞとばかりに少年は体を蠢かせた。
「うわ、おいお前っ」
ふくらはぎに座っていた左右非対称の前髪の少年が上ずった声を上げた。しめた、と池の中で思う。
「逃げるぞ!」
星のピアスをした少年が水から手を引き、濡れたままのそれで放っておいた学生鞄を掴むと我先にと一人で駆け出した。黒髪の少年は重みのなくなった頭を腹筋を使い持ち上げて深く息を吸った。
「助けて!!」
誰かが来なくても時間がたてば儀式はいつも通り終わったが、もちろん早いに越したことはない。ここで反抗しようがしまいが明日にはまた同じような事をされるのだ。ならば多少ここで抗ってみても良いだろう。
授業中に当てられた時位にしか使わない声帯を思い切り震わせた少年の声に、置いていかれた赤茶色の髪の少年二人が驚き立ち上がった。懐中電灯の灯りは左右に揺れながらこっちに向かってきている。
「う、うわぁ!」
小心者なのだろうか。眉毛の薄い少年が悲鳴を上げながら池の畔から逃げ去って行った。それを追うように懐中電灯の灯り、左右非対称の前髪の少年が続く。
黒髪の少年の目はそれを横目に見送った後、また水底に沈んだ。
「っ!」
ふくらはぎにあった重りがなくなった為に踏ん張りがきかなくなった。手は後ろで縛られているため泳ぐ事はもちろん、もがくことすら出来ない。学生服が池の水を吸い込んでどんどん地面が遠くなって行く。
あ、死んだな。
少年はほんの数秒だけ顔も知らない誰かに助けを求めたのを後悔したが、それだけだった。死に対する恐怖はなく、おそらく警備員だろう懐中電灯の持ち主にも罪はない。恨むべきは自らの不運だけ……。
ごぼりと口から空気が漏れた。段々と視界が暗くなり、少年の気持ちとは関係なしに池の中で体が跳ねた。
苦しい。いじめっ子共に強いられたどんな事よりも大分辛い。
体が空気を必要として、苦しくなるだけだと頭では分かっているのに口や鼻で呼吸をした。そして肺に水が入ってしまって平気なわけがないので噎せたように吐き出す。吐いたらまた吸ってしまう。その繰り返し。
なんとなく涙が溜まる時のような熱を目の周りに感じたが、すぐに水に混じり消え去り分からなくなった。少年の意識もいつの間にか黒い霧が立ち込めたように霞んで行く。
許さない。
自分を馬鹿にした者、いたぶり遊んだ者。またそれらを知り笑った者の全てを俺は許さない。
水底に着く頃には少年は既に息を引き取っていた。力の限り暴れたせいで縛られていた手首は皮膚がボロボロになり、辺りには千切れたそれらが所在な下げにたゆたっている。その顔に苦悶の色は浮かんでいなかったが、死してなお変わらずに無表情な彼の瞳の中にはどこか死神的な不気味さを感じ取らずにはいられない。
その証拠のように、池の中に住むどんな種類の生き物も少年には近寄らなかった。何日も、何ヶ月も。少年の体が人の形とどめる内はずっと……。
そうして少年の体が人知れず朽ち、世間でも可哀想な一人の行方不明者の存在などとうに忘れられた頃、こことは違う異世界で物語は始まる。