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どうしてこの愛しさは消えてくれないのだろう

作者: 朱月夷緒

【どうしてこの愛しさは消えてくれないのだろう】




 たった一回のあの時が、世界に逆らってでも戻りたい瞬間。


 ブランカ国、宮廷。

 公務や勉学に追われるアーサーにはお気に入りの場所があった。何十枚もの巨大なガラスを円形に立てかけた植物園のような庭園である。

 入り口は蔦が絡まり合ったアーチを正面にした目の前、密やかなのに質実な蝶番のガラス戸。

 目印の蝶番は重いそれをこじ開けるように歩を進め、石畳は入り口から一本道に続きドーナツ状に設置されている。コツンと小気味良い音が革靴から響く。芝生は基本的に踏まない。

 高さ約三メートルの木々がガラスを目隠しするようにぐるりと円形に囲んでいる。

 アーチをくぐれば、劣化が顕著に見え始めた水瓶を抱えた乙女の噴水が庭園の真ん中を陣取っている。

 幼少期は涼やかに水が循環しており、靴下さえも脱いで足を浸けて遊んでいた。

 もう何年もここで涼を取っていないにも関わらず、循環は絶えることなく続いている。使い続けるからこそ長持ちするのだと聞いたことがあった。人に使われなくなった建物の劣化の速さは恐るべきだ。

 左右を見渡せば、木製のベンチは一つずつ設置されている。その後ろには花壇があり、色とりどりのパンジーが植えてある。

 変わらない。宮廷庭園と呼ばれるこの植物園は、永遠を閉じこめるように、世界から切り取られたように、あの一瞬から変わらずにいた。

 アーサーは向かって右側のベンチに腰掛け、足下に咲く一輪のシロツメクサを一瞥した。柔らかく小さく白い手で、彼女が作ってくれた花冠はもう手元にない。鮮やかに残る彼女の笑顔が瞼の裏に焼き付いている。

「オフィーリア……」

 名前を口にするだけで、何かがぐっとこみ上げてくる。座っているのすら気だるくなってしまい、ベンチに仰向けになった。

 左手を目の上に乗せ、強制的に視界を潰す。ダークグレイの髪が散らばった。ワイシャツが皺になることもスラックスに木屑がつくことも気にせず、アーサーは横たわったままでいた。

 初めて出会ったのは私室だった。今思えば一目惚れだったとアーサーはぼんやりと思考する。髪と同じ色をした瞳をゆっくり開き、天井を見つめる。

 現実でこんなにも想い続けているからか、彼女の存在は夢にまで侵食している。

 妄想で固められた劣情が迷路のように入り組んで抜け出せなくなり、彼女を汚していくようにも感じる。

 あの時に戻れればと何万回考えたか分からない。戻って純粋な感情のままでいられたらどんなに気が楽なのにと。

 そのたびに過去への不可能を思い知らされ、打ちひしがれても、それでも彼女が好きだった。

「こんな姿……オフィーリアには見せられないな……」

 心の奥底に隠し込んで、劣情など微塵も感じさせることなく、自分のできる最大限の演技で作り上げた自分しか見せない。

 アーサーは閉じられた世界であるこの庭園を楽園として、アダムとイヴを演じていたかった。


 揺さぶられる感覚に、乗せていた左手をずらし閉じていた目を開けた。

 誰かが庭園内に入ってくる気配はなかった。うたた寝していても気付くはずなのにと内心舌打ちをしながら、瞳だけを動かし人物を視認する。

 いないはずの人間がそこにいた。オフィーリアだ。

「オ、フィーリア……?」

「ご無沙汰しております」

 アーサーさま、と語尾が甘くなる癖は直っていない。明るめの茶髪もルビーの瞳もそのままに愛らしく成長していた。

 服装は国内でも有名な女学校の制服だ。彼女の可憐さにとても合っていた。

「ずっと、」

 だらりと下がったままになっていたはずの右手は、なぜか痺れてすらいなかった。そのまま彼女の柔らかな頬を撫でると、目を細め笑む表情に、心臓が高鳴り指が震える。

「何でしょう?」

 頬に添えた手に自身の手を重ね、小首を傾げる。

 彼女への想いが決壊したダムのようにどんどん溢れ出し、腹筋だけで途中まで上体を持ち上げ、左腕で支えた。

「会いたかった」

 添えた手を動かし、親指で唇をなぞる。そのまま呼吸が混じり合い、唇を重ねた。

 舌も絡まない遊びのような口づけでも、二人にとっては充分すぎる。

 オフィーリアは抵抗しない。このまま呼吸を諦めて、死に絶えても幸せと思えた。

「……ごめん」

「なぜ謝るのです?」

 離れた唇が紡いだ謝罪にオフィーリアは再度首を傾げた。

 肩を掴んで引き寄せて、彼女の言葉のように甘い身体を腕の中に閉じこめる。抵抗はない。

「キスをした。君の意見も聞かずに」

「私だって」

 君だって?

 アーサーは言葉を続けることはできなかった。彼女の美貌が眼前を越え、さらに近づき、細く白い左手がゆっくりとアーサーの目を覆い隠すように迫る。

 目を閉じた。


 もう一度目を開けたときには、彼女はいなかった。

 スラックスに着けている懐中時計で時刻を確認すると、庭園に入ってからちょうど三十分経過していた。

 彼女はただの夢だったのだろうか。微睡んだ瞳で足下を見る。


 シロツメクサがなくなっていた。




 end.


*******

夢うつつの乙女。

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