不可逆
建物の影、その隣に人の形をした灰色が二つ、光と風で揺れていた。
「俺は君が好きだ」
男が振り返ると空の色が変わり始めていた。荒れ果てた建物の窓から覗く景色は二人には眩しく映りすぎた。
影が暴れていた、首にかかった縄を払い取ろうと必死だ、死にたいと願っていても、苦しさには逆らえず、勝手に体が動いてしまう。また今回も駄目か、死ねないのか、との思いが女の頭の中を巡る。
握り締めていた縄からそっと手を離す。
女の喉から鶏の鳴き声のような声が漏れた。
「今度こそ死ななきゃ、早く、早くして」
「必要無くなったんだ」
「ずっと一緒に計画して来ていたじゃない」
「こんな結果を望んでいたわけじゃない」
「なんで、私だけ望んでいた訳じゃなかったでしょう」
「違うんだ、まだやっていける可能性があると思わないか」
「なんで今更躊躇するのよ」
男の震える手が縄に触れて、離れてを繰り返している。時間だけが悪戯に過ぎてゆく。
「私の死ぬ姿が見たいんでしょう、命が終わる瞬間が見たいんでしょう、そう言っていたじゃない、いつかはあなたも死ぬのよ、同じことでしょう」
「待ってくれ、別の方法があるんじゃないか」
「私は死にたいのよ。そのためにここまで来たの」
女は縄目の痣が幾重にも付いた喉をさすった。それは何度も繰り返してきた失敗の証だった。今度こそ、今度こそと言い続け、悪戯に痣ばかりを増やしていた。男に頼んだのは確実に死ぬためだった。
「これまで何度も頼んできたのに、できないならはっきり言いなさいよ」
「違うんだ、僕は君と生きていきたい、それだけなんだよ」
「気持ちが悪くなること言わないで」
「止めにしないか」
男は縄を手に説得に必死だ。部屋は暗く、外に光はなかった。蝋燭の光が不気味な陰影を部屋の中につけていた。
「どうしてこんな事したがるんだ」
「一人じゃできないの、死ねないのよ。貴方はただ縄を引いて括りつけるだけで良いの。外れないようにしてそこで見ていてくれるだけで、だって貴方そういうのが好きなんでしょう、だから私に付き合ってくれているんでしょう」
「俺は確かに死愛好家だ。けど、知り合いを死なせることなんて好まないそれに、もっと君のことを知りたいんだ」
「そう、会ったばかりでしょう、他人だと思って気にしなくていいのよ」
「以前から君の事は知っている、けどこうして顔を合わせるのは今日が初めてだろう」
「そうよ、それなら私の事はわかっているでしょう。早く、早く死なせて」
「君は自分を苦しめているだけだ、死にとりつかれているだけじゃないか」
「もうたくさんなの、疲れてしまったのよ。擦り切れた心と体は戻らない、壊れて死ねなくなる前になんとかしたいの」
「俺のために、こんな事止めてくれないか」
「これ以上私を苦しめるというの」
「君のためを思って言っているんだ」
「私があなたを殺してから死んでもいいのよ」
「君の手で楽になれるのなら、本望だよ」
脚立の脇に立ち、女は男の正面に向かい合う。男の声は震えていた。
女の手が男の首にふれ、指が喉に食い込んでゆく。顔と指の筋肉が強ばり、やがて力が抜けていった。
廃屋に二人が訪れてから三時間が経とうとしていた。蝋燭の明かりも心もとない。
「もう、何も思い残す事はないわ」
やがては全てを闇が飲み込んでしまう。
終わりから逆に読み進めると結末が変わる、と言うギミックを使用したつもりですが、難しいですね、失礼しました。