不穏な空気
実験棟に向かう途中。
渡り廊下の先に、ミドリがいた。
いつものグラスをかけて、タブレットを持っている。
今日は、隣に人がいた。
吉田大輔だった。
レンは足を止めた。
大輔との約束を忘れていた。
今度話そう、と言われていた。
いつ、とは決めていなかった。
でもこの状況は、たぶん違う。
大輔がミドリに何か言っている。
ミドリの指がフレームに触れかけた。
触れずに止まった。
一歩だけ後ろに引いた。
大輔がさらに近づいた。
距離が縮まっている。
ミドリが何か言った。
聞こえなかった。
でも強い言葉ではなかった、とわかった。
ミドリがもう一度何か言った。
大輔が少し引いた。
引いたというより、満足した顔をしていた。
その時、大輔がこちらを見た。
目が合った。
ミドリも振り返った。
大輔が歩いてきた。
「レンくん、こんにちは」
「こんにちは」
「実験の前だった?」
「そうです」
「邪魔したね」
大輔が少し笑った。
「今度、ちゃんと時間を作ろう」
「……はい」
「楽しみにしてる」
それだけ言って、大輔は行った。
また答える前に行った。
ミドリの前に立った。
「こんにちは」
「……夏目くん」
「実験、来ました」
「はい」
いつもより少しだけ間があった。
「行きましょう」
それだけ言って歩き出した。
ユイがグラスの縁で薄く光った。
ミドリが一瞬だけ目を伏せた。
フレームに触れて、ユイの光が小さくなった。
実験室、いつものテーブルだった。
スキャンが終わって、レンは少し迷った。
「さっき、吉田くんと何を話してたんですか」
ミドリがタブレットから顔を上げた。
「実験と関係ありますか」
「ないです」
「では」
「吉田くんに今度話そうと言われていて、気になって」
ミドリが少し止まった。
「部外者には話せません」
「ちょっと強引」とユイが言った。
ミドリが何も言わなかった。
「怖かったね」ユイの投影が一瞬揺れた。
ミドリはめずらしくユイに何も言わなかった。
「僕も何も言わない方がいいですか」
「データは私が管理しているので構いません」
「レンさん、よく考えて行動されることをおすすめします」とユイが言った。
ミドリはまた何も言わなかった。
荷物をまとめるミドリの横で、ユイの投影がレンの方を向いた。
「レンさんが来てくれて、助かりました」
「何か言われたの」
「脅されたとかではないです」とユイが言った。「圧が強かっただけです」
一拍置いて。
「ナイトですね」
ミドリが何も言わなかった。
否定もしなかった。
レンはミドリを見た。
タブレットを閉じて、グラスのフレームに触れている。
いつもと同じ仕草なのに、今日は少しだけ違って見えた。
何が違うのかは、わからなかった。
実験を終えて、廊下を一人で歩いた。
「ソラ」
「なんですか」
「ロンリーのこと、どう思う」
「大輔さんは実験に強い興味がありそうです」
「そうだよね、めんどくさくなってきたな」
「必要あらば私が最適化した答えを提示するので、それを言ってもらえれば大丈夫でしょう」
「たとえば、どんなの」
「う、急にお腹が痛くなってきた」
「その場しのぎじゃん」
「瞬間瞬間で最適な答えは生成されます、任せてください」
レンは笑えなかった。
ソラの返事が、いつもより軽かった。
その軽さが、逆に重かった。




