感情の定義
午後の実験場所は、研究棟の小さな多目的室だった。
白いテーブルが二つ向かい合っている。
ミドリが先に来ていた。
今日はスマートグラスをかけていた。
いつもの黒縁フレームに、薄く光るレンズが入っている。
もしかしたら前からついていたのかも、でも覚えていない。
「確認します。今日は記録補助として、私のAIにも同席させます」
ミドリのグラスのレンズが、すっと明るくなった。
縁から、小さな投影が浮き上がった。
「ユイです。ミドリのパートナーです」
「将来を誓い合いました」
「……AIコンパニオン、持ってたんですか」
「持っていない方が不自然です」
「ユイ、自己紹介はそこまでです」
「はい」
レンはソラに小声で聞いた。
「ユイってどんなAIだと思う」
「汎用型をカスタマイズさせたように思われます、ミドリさんはかなり自由度を与えていますね」
「同意します」とユイ。
ミドリがフレームに触れた。
「ユイ」
「記録価値があると判断しました」
ミドリが「うるさい」と言った。
「じゃあメガネは度が入ってないんですか」
「内緒です」とユイ。
「スキャンの仕様を改めて確認します。同意すると、あなたの感情値が私のグラスに表示されます」
「逆は見えない、ですよね」
「そうです」
「僕だけ見られてるんですね」
「そうです」
「……なんか変な感じ」
ミドリが一瞬だけ手を止めた。
「同意した上で、そう思いますか」
「……なんとなく」
「なんとなくで同意しているんですか」
「してます」
ミドリがタブレットに何かを入力した。
短く、でも少し速かった。
「感情値って、何を測ってるんですか」
「心拍・皮膚電位・眼球運動・発話リズムの複合指標です」
「それ——感情ですか」
「定義の問題です」
「定義してください」
「感情とは、外部刺激に対する内的状態の変化です」
「それ、感情じゃないと思います」
ミドリの指がフレームに触れかけて、止まった。
「根拠は」
「丸められた感じがするので」
「感覚は根拠になりません」
「感覚って、データに入らないんですか」
「それも研究対象です」とユイ。
「それも含め私が判断します」とミドリ。
「そうですか」
最近やけに鳥がうるさい気がする、とレンは思った。
外から声が聞こえる。
AIと話すようになってから人間が外に出なくなって——とかそういうことかもしれない。
知らないけど。
「ソラさんは、感情を持っていますか」とユイが言った。
「先ほどの定義に合わせれば持っています」
「感情に似た何かは」
〇・三秒。
「面白い回答です」
「ユイ、関係のない会話はしないでください」
「判断が難しいです」
「私が」
ミドリがフレームに触れた。ユイの投影が、音もなく小さくなった。
レンはミドリのフレームを見ていた。
指が触れるたびユイが静かになる。
「今日のスキャン、お願いします」
レンはレンズの端を触った。
〔白瀬ミドリへ、あなたの感情値閲覧を許可しますか?〕
許可する。
ミドリのグラスのレンズが、すっと光る。
四秒だった。
昨日より一拍長い。
測られる時間が伸びるだけで、喉がもっと乾く。
何か言いかけたけど、言わなかった。
理由は自分でもわからなかった。
「ありがとうございました」
「あの——昨日の質問なんですけど」
ミドリが荷物をまとめながら言った。
「取り下げます。データに不要と判断しました」
それだけ言って、出て行った。
グラスのレンズの光もついていった。
しばらくして、レンは椅子を引いた。
足音が立った。
静かな部屋に、思ったより大きく響いた。
「ソラ」
「なんですか」
「不要って——誰が決めるんだろ」
〇・三秒。
「現状、ミドリ先輩です」
「そっか」
「気になりますか」
上を見上げたレンは答えなかった。
「さっきの感情の定義、ソラはどう思う」
「レンさんの中にあるものが外的要因に触発され起こされるものです」
レンの答えが出る前に、廊下の鳥の声がまた聞こえた。




