「被験者番号01の観察記録」
翌朝。
レンが研究棟の廊下を歩いていると、前から白瀬ミドリが来た。
今日も足が速い。
手帳を抱えている。
目が合う——と思ったら、今度は逸らさなかった。
むしろ、まっすぐ来た。
「夏目くん」
声をかけられた。
名前を知られていたことに、一瞬驚く。
名簿か、被験者リストか、それともソラ経由か。
聞けなかった。
話が先に進んだから。
「昨日のリクエスト、なぜ同意しなかったんですか」
開口一番それか。
「……えっと」
「データが取れませんでした。実験の記録に支障が出ます」
ミドリの口調は、完全にフラットだった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、事実を述べている。
ああ、そういうことか、とレンは思った。
研究のリクエストだったんだ。
昨日から気になってたけど、そういうことだったんだ。
「すみません。なんか、ちょっと迷って」
「迷った理由は?」
「……見えたら、見ちゃうなと思って」
ミドリが一瞬、止まった。
「それは感想ですか。それとも主張ですか」
「え?」
「見てしまうことの、何が問題なのか聞いています」
レンは少し考えた。
「なんでもわかることが、いいことだとは思わない」
「根拠は?」
「根拠って言われると……ないですけど」
「では感想ですね」
ミドリは手帳を開いた。
レンの返答を書き留めているらしい。
なんか、実験動物みたいだな。とレンは思ったが、言わなかった。
「今、同意してもらえますか。一分で終わります」
「今ここで?」
「問題がありますか」
問題は、特にない。
ただ、廊下の真ん中でやることか?とは思う。
「……わかりました。一回だけ」
レンがレンズの端を触る。
〔白瀬ミドリの感情値閲覧を許可しますか?〕
許可する。
その瞬間——ミドリの指が、一回だけ止まった。
手帳のページをめくりかけて、止まった。
ほんの一秒。それだけ。
すぐ動いた。何もなかったみたいに。
ミドリのレンズが、わずかに光った。
今、俺の数値が向こうに出ているんだろう。
喉が乾いた。
数値は見えない。
でも、見られていることはわかる。
こっちは何も見えないのに、向こうには全部出ている。
その感じが、じわじわと——なんか、落ち着かない。
ミドリは三秒、レンズを見た。
それから手帳に何かを書いた。
レンに見えたのは、被験者01、の見出しだけだった。
数値なのか、単語だったのか。
「ありがとうございました」
それだけ言って、ミドリは行ってしまった。
足が速い。振り返らない。
レンはしばらく、廊下に突っ立っていた。
「ソラ」
「なんですか」
「被験者01って書いてあった」
「オンリーワンですね」
オンリーワンならいいか。
「僕、今どんな数値だったと思う」
〇・三秒。
「数値を知って、レンさんは何をしたいんですか」
「いや、別に」
「では、気にしなくていいと思います」
腹たつ。
でも、反論できなかった。
白瀬先輩は、僕の感情値を見た。
僕には、何も見えなかった。
それから——名前を知っていた。
最初から。
あれは、なんで知ってたんだろう。
食堂に向かいながら、レンはなんとなく考える。
答えは出なかった。
朝から、引っかかりが二つになった。




