同意していません
「数値が、動かないんです」
ユイが「どの数値ですか」と返した。
「被験者01。スキャン開始から三週間。不安も警戒も、平均値から有意に動いていない」
「好意項目は?」
「……横ばいです」
「流し目を使いましょう」
「嫌です」
ミドリ先輩はタブレットをスクロールした。
実験室の窓から朝の光が入っていた。
「被験者が感情的に反応しない理由として考えられるのは」とユイが言った。
「1・スキャンに慣れた、2・AIで感情的欲求が満たされている、あるいは——」
「あるいは?」
「3・観察対象に関心がない」
ミドリが止まった。
「ソラが実験前に落ち着かせているかもしれませんね」とユイが続けた。
「それとなく聞いてみましょうか」
「私が聞きます」
「はい」
タブレットの画面が切り替わった。
被験者01の見出しの下に、二行だけ文字が並んでいた。
——
朝のキャンパスは静かだ。
人が少ないわけじゃない。
ただ、声は小さい。
みんなAIと話しているから。
最初は少し不思議な光景だと思っていたけど、もう慣れたし、レンもやっている。
「レンさん、今日の気温は22度まで上がるようです。」
「ちょうどいいね」
ソラの声が腕の中から聞こえる。
立体投影はしていない。
外ではたわいもない話をしながら声だけのソラと歩く。
正門を抜けたところで、聞き覚えのある声がした。
「あ、被験者くん」
涼香さんだった。
シャーロットと並んで歩いている。
シャーロットが「おはよー」と英語で言って、ソラが「グッドモーニングと言っています」と小声で訳した。
「レンです、おはようございます」
「めずらしい、こんな時間に」と涼香さんが言った。
「いつももっと遅いんじゃないの」
「どこ情報ですか」
「ミドリ」
即答だった。
僕は少し考えてから「観察されてるな」と思った。
被験者だから当然なのかもしれないけど、時間帯まで把握されているとは思っていなかった。
涼香さんが肩をすくめた。
「被験者って、大変だね。時間まで管理されて」
「管理ってほどじゃ……たぶん」
「たぶんって....ミドリに聞いてみれば」と涼香さんが言って笑った。
シャーロットが英語で何か言った。
ソラが小声で訳す。
「シャーロットさんは、管理されているなら対価を要求すれば、と言っています」
「その感じはなんか嫌だな」と僕が言うと、涼香さんが吹き出した。
「いいね、その感覚」
「I’m struggling to see where you’re coming from.」
「レンさんの感覚が理解できないみたいです」とソラ。
僕は返事に困って、空を見上げた。
「今日は気温ちょうどいいね」
「話そらした」と涼香さんが笑った。
ソラが淡々と言った。
「本日の最高気温は22度です」
「ほら、ソラも話そらすの得意だよね」と涼香さん。
「事実を述べただけです」とソラ。
「レンくんさ」
「はい」
「感情スキャンされてる時って、見られてる感じある?」
「……あー。なんとなくですが、ありますよ。これだ、とは言えないんですけど」
「どんな感じ?」
「喉が乾く、とか。あと、目の置き場がなくなる感じ」
シャーロットが首を傾けて、英語で何か言った。
ソラが小声で言った。
「シャーロットさんは『それ、監視カメラみたいなやつ?』と言っています」
「違う」と涼香さんが即答した。
「もっと、静かなやつ」
僕は少し笑ってしまった。
「静かなやつってなんですか」
「笑うのずるい」と涼香さんが言った。
「ね、真面目に」
「……真面目に」
涼香さんは一拍置いてから、僕の顔を見た。
「スキャンって、数字が出るでしょ。数値の方じゃなくて、『見られてる』って感覚だけが先に来ることある?」
「……あります」
「そうよね....」
「でも感情スキャンって、同意しないと見えないですから」
「うん、そうね」と涼香さんが言った。
「だから聞いてる。見えないのに『見られてる』って」
シャーロットが小さく「Oof」と言って笑った。
ソラが小声で訳した。
「『それ、こわいね』と言っています」
涼香さんが「そうね」と笑った。
笑い方が、いつもより一テンポ遅かった。
涼香さんとシャーロットは中庭の方向へ折れていった。
僕はそのまま講義棟へ向かった。
「ソラ」
「はい」
「今の、なんだろうね」
「どのあたりが気になりましたか」
「なんとなく」
「なんとなくを私が答えてしまうと思考誘導になります」
「どういう意味」
「私は確率が高いと思われることを言いますが、それを正解に思い込む可能性があります」
それもそうかと思って考えるのをやめた。
——
昼過ぎに、学内の情報掲示板に投稿が上がった。
最初は誰かのいたずらかと思った。
匿名の投稿で、数値の羅列と感情のラベルだけが並んでいた。
不安:15、警戒:12、好意:58、恐怖:8——そういう形式のデータが、日時のログと一緒に貼られていた。
ハジメが食堂で僕のトレーに身を乗り出してきた。
「見た? あれ」
「見た」
「スキャンデータじゃん。明らかに」
「誰のか書いてないけど」
「でもさ、ログがあるじゃん。場所と時間。特定しようと思えばできる」
イッポが「ハジメさんが言う通りだと思います」と言った。
ハジメが「だよな」と頷いた。
ソラが静かに光った。
「レンさん、あれは実験の仕様外です」
「どういうこと」
「感情スキャンの正規データは、あの形式で出力されません。ログの構造が違う」
僕はトレーの上を見た。
「じゃあ、あれは」
「同意を得ずに取得されたデータである可能性が高いです」
僕はトレーの上を見た。
ハジメが「えっ」と声を上げた。
食堂の他のテーブルが少しだけざわついた。
「それって普通にやばくない、不法スキャン罪じゃん」とハジメが言った。
「そうなります、法律があればですが現状は該当するものはありません」
「学校関係者であれば処分、あとは被害者がどうするかです」とソラが言った。
「加えて」
ソラが少し止まった。0.三秒。
「あのデータの項目数、多すぎます」
「多すぎる?」
「感情スキャンの公式仕様では取得できない項目が含まれています。非接触型の、別のデバイスを使っているようです」
テーブルの上に静けさが落ちた。
ハジメでさえ黙った。
「ソラ」と僕は言った。
「それって、使えるんですか。そういうデータ」
ソラが止まった。また0.三秒。
「何に使いたいですか」
「いや、なんとなく。こんな細かく取れたら、いろいろできるなって」
「そうですね」
ソラの声が少しだけ平坦になった。
「使えます。誰かを思い通りに動かしたい人間にとっては、非常に」
ハジメが「こわ」と小声で言った。
イッポが「大丈夫だと思います」と返した。
僕は掲示板の投稿をもう一度思い浮かべた。
数値の羅列。
日時のログ。
誰かの感情が、本人の知らないところで記録されて、貼られている。
朝の涼香さんの声が、遅れて戻ってきた。
誰かに全部見られてる感じ、したことある?
「ソラ」
「はい」
「あの投稿、誰のデータかわかる?」
「私には照合する手段がありません」
「でも、わかる人がいる?」
「ログと場所が一致する記録を持っている人間には、わかります」
僕はお茶を飲んだ。
完全に冷めていた。
あの数値は、誰かの一日の断片だ。
本人が同意していない断片。
それが今、キャンパスの全員に見えている。
見えてしまっている。
——
夕方、実験室の前を通ったら、ドアが少し開いていた。
中にミドリ先輩がいた。
タブレットを見ていた。画面には同じ投稿が映っていた。
気づいたら声をかけていた。
「先輩も見ました?」
「……ええ」
振り返らなかった。
タブレットの画面をスクロールしながら、言った。
「これ、涼香のデータです。本人から連絡が来ました」
僕は何も言えなかった。
ミドリ先輩がタブレットを伏せた。
振り返った。
いつもの顔だった、でも声は違った。
「夏目くん。涼香は同意していません」
ドアが閉まった。




