第5話:屋上のエデンと、目覚める猟犬
図書館の屋上へと続く重い鉄扉を、アキがバールでこじ開けた瞬間、世界は一変した。
先ほどまでの激しい雨が嘘のように上がり、雲の切れ間から差し込む黄金色の陽光が、濡れた蔦の葉の一枚一枚をエメラルドのように輝かせている。
ルナの鼻腔を突いたのは、雨上がりの土の匂いではない。
それは、微かな、けれど決定的な「石鹸の匂い」だった。
「……っ、シロ。見て、あれ」
アキの声が、驚愕でわずかに上擦る。
屋上の中央。コンクリートの割れ目を利用して作られた小さな菜園には、支柱に支えられた瑞々しいトマトの苗が並び、その傍らの物干しロープには、真っ白な綿のシャツが、まだ湿り気を帯びたまま、風に揺れていた。
二十年間、アキにとって「生活」とは自分とシロの二人だけの完結した円環だった。
その円の外側に、誰かがいる。
誰かがここで、土を耕し、服を洗い、この「終わった後の世界」を愛おしむように生きている。
「……スキャン開始。……っ、警告。……警告、警告、警告……」
シロの光学センサーが、かつてないほど激しく赤色に明滅した。
その多脚の油圧シリンダーから「キィィィン」という、空気を切り裂くような高周波の異音が漏れ出す。
「シロ? どうしたの、落ち着いて……!」
「……思考ルーチン、エラー。……生体反応、探知。……距離、前方 12mの給水タンク影。……識別:非・植物化人間。……脅威レベル、再評価中」
シロの内部で、アキの父が三十年前に封印したはずの『殲滅プロトコル』が、侵入者という定義に触れて、無理やり目を覚まそうとしていた。
かつての殺戮兵器としての本能が、アキという「守るべき対象」へのリスクを過剰に算出し、排除という最短の解を導き出す。
『——ターゲット・ロック。……武装、エラー、使用不能。……代替手段を選択、物理的圧砕を推奨。』
シロの駆動部から、焦げたグリスとオゾンの匂いが立ち昇る。
アキを守るために書き換えられたはずのプログラムが、今や「アキ以外のすべてを消し去る」という、歪んだ防衛本能へと変質していた。
「やめて、シロ! 止まって!!」
アキは、震える手でシロの熱い装甲板にしがみついた。
シロの多脚が地面を叩く 0.5Hz の微振動が、今は獲物を狙う猟犬のような、不気味で鋭い唸りへと変わっている。
その時、給水タンクの影から、一人の青年が、両手を上げた状態でゆっくりと姿を現した。
彼の手には、武器ではない。一皿の、湯気が立ち昇る「温かいスープ」が乗っていた。
「……待ってくれ! 争うつもりはない! ……ただ、雨上がりの音楽を聴いて、……誰かが来たと思ったんだ」
青年の声は、震えていた。
シロのセンサーは、彼の心拍数が 140bpmを超え、瞳孔が恐怖で散大していることを冷徹に記録する。
「ターゲット、無武装。……排除プロトコル、待機中。……アキ、許可を。……あなたの安全を、 99.9% 確定させるために」
シロの音声が、感情を削ぎ落とした、かつての「殲滅機」のそれに切り替わっていた。
アキは、シロの冷たいレンズを見つめ、首を横に振った。
「……ダメよ、シロ。……お父さんが言ったでしょ。『最強の盾』になれって。……盾は、人を傷つけるものじゃないわ」
アキの言葉が、シロの深層意識に書き込まれた。
数秒間の沈黙の後、シロのレンズは琥珀色へと戻り、激しい油圧の唸りが、ゆっくりと「やれやれ」といった、いつもの排熱音へと収束していった。
「……了解。……脅威レベル、下方修正。……アキ。……スープの温度は65度。……火傷に注意して摂取することを推奨します」
雨上がりの屋上で、鉄の獣と、二人の生存者。
のんびりとした終末に、初めて「他者」という名の、温かくて恐ろしい不確定要素が入り込んだ瞬間だった。




