紫陽花の葬列と、自動調理器の朝食
「世界は滅んだけど、今日のパンは上手く焼けた。」
私の朝は、隣の家のゾンビが窓を叩く音で始まる。正確には、彼の頭蓋から芽吹いた紫陽花の湿った葉が、結露したガラスを不規則に撫でる音だ。
午前七時。アキは清潔なリネンのシーツの中で、ゆっくりと四肢を伸ばした。
肌に触れる布地の 250スレッドカウントの滑らかさと、窓の隙間から流れ込む、微かな腐葉土の匂いを含んだ冷たい空気が、彼女の意識を覚醒させる。
窓の外では、かつての隣人であった「佐藤さん」が、首の付け根から見事な大輪の紫陽花を咲かせ、朝日に向かってゆらゆらと、光合成の悦びに身を委ねていた。
「……おはよう、佐藤さん。今日も、光の吸収効率が良さそうね」
アキが木枠の窓を押し開けると、蝶番が「キィ……」と、静寂を壊さない程度の控えめな悲鳴を上げた。
佐藤さんは「アガ……」と、声帯の代わりに茎を鳴らすような乾いた音を漏らし、庭の雑草を踏みしだきながら、本能に従って日当たりの良い南へと去っていく。
「アキ。バイタルチェック完了。……血圧、体温、共に正常範囲内です。……補足。昨夜、シカの群れが家庭菜園のキャベツを狙って侵入しました。
200Vの低出力放電により、物理的な損傷を与えず撃退済みです」
部屋の隅、かつては市街戦用の殺戮兵器だった多脚戦車『シロ』が、重厚な油圧シリンダーを「プしゅッ」と鳴らして起動した。
その12.7mm重機関銃の銃身は、今やコーヒー豆を均一に粉砕するための精密ミルへと改造され、軽快な回転音を立てている。
「ありがとう、シロ。……お詫びに、今日のあなたのメンテナンスには、取っておきの高級グリスを使ってあげるわ」
アキは裸足で古いフローリングを踏みしめ、キッチンのカウンタへと向かった。
足裏から伝わる木のぬくもりと、シロの内部炉が発する38.5 度の微かな排熱が、朝の冷気を心地よく中和していく。
シロが背部の多目的アームを器用に動かし、アンティークのカップに漆黒の液体を注ぐ。
立ち昇る湯気と共に広がる、酸味の強いアラビカ種の香りと、シロの駆動部から漏れるわずかなオゾンの匂い。
「アキ。本日の提案です。……駅前の旧・百貨店、地下 2階の食料品売り場において、未開封の『英国製マーマレード』が存在する確率が64%と算出されました。保存状態は良好と推測されます」
「マーマレード……いいわね。今日のパン、少し焼きすぎちゃったから、甘いのが欲しかったの」
アキは、シロの装甲板の上に置かれた自動トースターから、香ばしく焼き上がったパンを取り出した。
表面の 1.2mm だけが完璧にキャラメル化されたその感触を、アキは指先で楽しむように確かめる。
彼女は壁に立てかけられた、一本の「バール」を手にした。
それはかつて暴動や略奪に使われた暴力の象徴だったが、今のアキにとっては、固くなったジャムの蓋を抉り、錆びついたシャッターをこじ開けるための、頼もしい「魔法の杖」だった。
バールの冷たい鉄の質感が、掌の熱を奪っていく。
「シロ、武装……じゃなくて、ピクニックの準備をして。……駅前まで、散歩といきましょう」
「了解。……光学センサー清掃完了。……周囲のゾンビ(植物体)活動レベル、安定。……楽しい旅を、マスター」
二人は、蔦に覆われて緑のトンネルとなった玄関を抜け、静まり返った街へと踏み出した。
アスファルトの割れ目から伸びたタンポポが、シロの重量級の脚が地面を叩く
0.5Hz の微振動に揺れている。
人類が敗北した後の世界は、驚くほどに優しく、そして——美味しい匂いに満ちていた。
ほのぼのとした雰囲気で進みます。




