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婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


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第9話 野犬と、灯りと、背中合わせ

夜明け前、裏手で何かが倒れる音がした。


私は寝台から跳ね起き、外套を羽織りながら戸を開けた。冷たい空気が頬を刺す。春とはいえ、夜明け前の峠は冬の名残を引きずっている。


「下がってろ」


トビアスの声。低く、短い。


裏手に回ると、彼が薪を握って立っていた。その視線の先に、三頭の野犬。痩せた体、光る目。一頭が唸り、二頭が左右に散る。


トビアスが薪を振り上げ、地面を叩いた。乾いた音が闇に響く。野犬たちは一瞬怯み、やがて茂みの奥へ消えていった。


「……増えてる」


私がそう言うと、トビアスは頷いた。


「昨日は二頭だった」


柵はまだ完成していない。宿の修繕を優先したからだ。判断は間違っていなかったと思う。けれど、野犬が増えているなら、対処を後回しにはできない。


「近隣の羊飼いに話を聞きに行く」


「一人で?」


「情報を集めるだけ。危険はない」


トビアスは何か言いかけ、やめた。代わりに、荷馬車の方を見た。


「馬車を出す。途中まで送る」


私は頷いた。


羊毛の村ヴォルカへの道は、朝日に照らされて白く光っていた。霜が降りたのだろう。踏むたびに、草が軋む音がする。


村の入り口で、羊飼いの男が私を見た。警戒の目。都落ちの令嬢が何の用だ、という顔だった。


「野犬の被害について、話を聞かせてほしい」


男は黙っていた。私は続けた。


「峠の宿を預かっている。昨夜も野犬が出た。このままでは、村の羊も危ない」


沈黙。やがて、男の後ろから声がした。


「入れ」


老人だった。杖をつき、片目が白く濁っている。けれど、残った目は鋭かった。


「ヘルマンの宿を継いだのか」


私は驚いた。この老人は、ヘルマンを知っている。


「……はい。権利書を預かりました」


老人は頷いた。


「あの男は、よく村に薬草を届けてくれた。礼を言いそびれていた」


それから、老人は野犬の話をしてくれた。


ここ数週間で急に増えたこと。普通の野犬ではなく、何かに追い立てられているように見えること。羊が二頭、やられたこと。


「追い立てられている?」


「ああ。山の方から、火を使って追い出しているらしい。誰がやっているかは知らん」


私は考えた。野犬を追い立てて、宿や村に向かわせる。誰が、何のために。


答えは、一つしか思い浮かばなかった。


「共同で対策を取りませんか」


私は提案した。


「宿を拠点にして、夜の見回りを組織する。村の若い衆と、私たちで交代する。火を焚き、音を立てれば、野犬は近づかない」


老人は私を見た。長い沈黙。


「……お前、本当に都の令嬢か」


「元、です」


老人は笑った。初めて見る笑顔だった。


「いいだろう。若い連中に声をかける」


その夜、見回りが始まった。


羊飼いの若者が三人、宿に集まった。トビアスが火の焚き方を教え、私が巡回の順路を決めた。誰も文句を言わなかった。仕事があれば、人は動く。


月が昇った頃、私とトビアスは宿の裏手を歩いていた。松明を持ち、足音を立てながら。野犬の気配はなかった。


けれど、茂みの奥で、何かが光った。


「待って」


私は松明を近づけた。焚火の跡。まだ新しい。そして、鼻をつく匂い。


「……獣脂だ」


トビアスが言った。声が低い。


「野犬を誘き寄せるのに使う。猟師がやる手だ」


私は黙った。これは、自然の出来事ではない。誰かが、意図的に野犬を追い立てている。


誰が。


答えは、言うまでもなかった。


「証拠になる?」


「焚火跡だけじゃ弱い。けど、続けば——」


トビアスは言葉を切った。私は頷いた。


「記録しておく。日付、場所、匂い。全部」


行動記録帳を取り出し、私は書き込んだ。十年続けた習慣が、こんな形で役に立つとは思わなかった。


見回りを終え、宿の前に戻った。焚火が赤く燃えている。羊飼いたちはすでに帰り、私とトビアスだけが残っていた。


「交代する。先に休め」


トビアスが言った。私は首を振った。


「もう少しいる」


彼は何も言わなかった。ただ、焚火の反対側に座った。背中合わせの形になる。


月明かりが、窓枠の彫り文字を照らしていた。「ここから始めた——H・Z」。ヘルマンの言葉。


私は、火を見つめながら言った。


「ここを、守りたい」


初めて、口にした言葉だった。


トビアスは答えなかった。ただ、火に枝をくべた。乾いた音。炎が揺れる。


沈黙が続いた。けれど、重くはなかった。背中に、彼の温度がある。それだけで、十分だった。


翌朝。


宿の前に、馬が止まっていた。


乗っていたのは、領主代官の使者だった。封蝋のついた書状を差し出し、一言だけ言った。


「代官様がお呼びです。明後日、登記所にて」


使者は去り、私は書状を開いた。


呼び出しの理由は書かれていなかった。ただ、一行だけ。


「峠の宿の件について、事情を聞きたい」


私は書状を畳み、懐にしまった。


トビアスが傍に来た。何も聞かない。ただ、私の顔を見た。


「大丈夫」


私は言った。


「証拠は揃えてある」


窓枠の彫り文字が、朝日に光っていた。

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