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婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


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第8話 夜番はどちらが

その旅人が来たのは、午後のことだった。


馬を引いた若い男。身なりが良い。都の貴族か、その従者だろうと一目でわかった。


「一晩、泊めてもらえるかな」


「どうぞ。——まだ修繕中ですが、寝室は使えます」


私は宿帳を開き、名前を記入してもらった。


男は私の顔を見た。


「……失礼ですが、あなたは」


「この宿の管理人です」


「いや、そうではなく——もしかして、ヴェストリア伯爵家の」


私は、手を止めた。


男の目が、好奇心で光っていた。


「都で噂を聞きました。伯爵家の令嬢が、婚約破棄の後、街道の宿に流れ着いたとか。——あなたが、その」


「噂についてはお答えしかねます」


私は、宿帳を閉じた。


「お食事の用意をしますね。何か苦手なものはありますか」


男は、少し驚いた顔をした。


私が話題を変えたことに、気づいたのだろう。


「いえ、特には——」


「では、夕食は日暮れ後に。お部屋にご案内します」


私はトビアスに目配せをした。


トビアスは黙って立ち上がり、男の荷物を手に取った。


「……こっちだ」


「あ、ああ。どうも」


男はトビアスについて、二階へ上がっていった。


私は一人、帳簿の前に残った。


指先が、わずかに震えていた。


握りしめて、止める。


——感情的になるな。仕事に集中しろ。


母の教えを、心の中で繰り返した。


夕食の席で、男はまた話しかけてきた。


「このスープ、美味しいですね」


「ありがとうございます」


「あなたが作ったのですか」


「いえ。——トビアスが」


私は、竈の前にいるトビアスを見た。


トビアスは黙って、次の鍋をかき混ぜている。


「へえ。職人の方が料理も?」


「街道暮らしが長いと、自分で作れないと困るそうです」


「なるほど」


男は、スープを啜りながら、私を見た。


「……都では、大変な噂ですよ」


私は、手を止めなかった。


「そうですか」


「冷たい女だとか。婚約者を追い詰めたとか。——まあ、噂なんて尾ひれがつくものですから」


私は、男を見た。


「何が聞きたいのですか」


男は、少し驚いた顔をした。


「いえ、その——」


「噂の真偽を確かめたいのなら、ご自分の目で判断してください。私は、ここで宿を直しています。それが、私の今です」


沈黙が落ちた。


男は、気まずそうに視線を逸らした。


「……失礼しました」


「いいえ」


私は、食器を下げた。


トビアスが、私の隣に来た。


「……大丈夫か」


小さな声。男には聞こえない。


「大丈夫よ」


私は、微笑んだ。


微笑めている自信は、なかったけれど。


翌朝、男は早くに発った。


馬に荷物を積み、宿の前で振り返った。


「お世話になりました」


「お気をつけて」


私は、頭を下げた。


男は、しばらく私を見ていた。


「……噂と違いますね」


私は、顔を上げた。


「丁寧な宿だった。——都で会うことがあれば、そう話しますよ」


男は、それだけ言って、馬を歩かせ始めた。


街道を下っていく背中を、私は見送った。


「……聞こえたか」


トビアスの声に、振り返った。


彼は、宿の壁に寄りかかっていた。


「ええ」


「……良かったな」


私は、小さく笑った。


「そうね。——でも、一人の旅人に認めてもらっても、噂は消えないわ」


「……消えなくても、減る」


「減る?」


「……一人が変われば、その一人が話す。聞いた奴も変わる。少しずつ、減る」


私は、彼を見た。


トビアスは、相変わらず無表情だった。けれど、その言葉には——何か、重みがあった。


「……そうかもね」


私は、息を吐いた。


朝の風が、頬を撫でていった。


その夜、柵の話になった。


「……まだ、完成してない」


トビアスが、作りかけの柵を見ながら言った。


「野犬が出るなら、夜番がいる」


私は、頷いた。


「そうね。——私がやるわ」


トビアスは、私を見た。


「……一人で?」


「あなたは昼間、修繕で働いてるでしょう。夜まで起きてたら、体がもたない」


「……あんたも同じだ」


「私は帳簿だけよ。体力仕事はしてない」


「……帳簿も仕事だ」


私は、彼を見た。


トビアスは、私から目を逸らさなかった。


「……交代でやる」


「え?」


「……半分ずつ。前半は俺、後半はあんた。——それなら、どっちも眠れる」


私は、考えた。


それが、合理的だとはわかっていた。


けれど——。


「私、一人でできるわよ」


「……知ってる」


「なら、なぜ」


「……知ってるから」


私は、言葉に詰まった。


トビアスは、立ち上がった。


「……何かあったら、声を出せ」


「トビアス——」


「……頼む」


私は、彼を見た。


その目には、何かがあった。心配、だろうか。いや——もっと、静かな何か。


「……わかった」


私は、頷いた。


「交代で、やりましょう」


夜。


焚火を囲んで、私たちは座っていた。


星空が、頭上に広がっている。無数の光。都では見えない、澄んだ星空。


火がぱちりと爆ぜる。


「……綺麗ね」


私は、呟いた。


「……ああ」


トビアスは、火を見ていた。


沈黙が続いた。けれど、不快な沈黙ではなかった。


「……トビアス」


「……何だ」


「あなた、いつからこの街道にいるの」


「……十五年」


「十五年」


私は、驚いた。


「長いのね」


「……親方に拾われた。九つの時だ」


「九つ?」


「……親が死んで、一人になった。街道を通りかかった親方が、俺を連れていった」


私は、火を見つめた。


トビアスの声は、淡々としていた。感情を込めず、事実だけを話すような声。


「……親方は、いい人だったの」


「……ああ」


「今は?」


「……五年前に死んだ」


私は、彼を見た。


トビアスは、火を見つめていた。その横顔には、何の表情もなかった。


けれど——その「何もない」ことが、何かを語っているようだった。


「……ごめんなさい。聞いてしまって」


「……いい。聞かれたから、話した」


また、沈黙。


火が、爆ぜる。


「……リーネ」


「何?」


「……あんたも、一人で始めた」


私は、少し笑った。


「ええ。——でも、今は一人じゃないわ」


トビアスは、何も言わなかった。


ただ、火に薪をくべた。


炎が、少し明るくなった。


「……前半は俺だ。寝ろ」


「でも——」


「……何かあったら起こす。約束する」


私は、彼を見た。


トビアスは、私を見なかった。ただ、火を見つめていた。


「……わかった」


私は立ち上がり、宿の中に入った。


毛布にくるまり、目を閉じる。


窓の外から、焚火の光が見えた。トビアスの影が、揺れている。


——何かあったら、声を出せ。


その言葉を思い出しながら、私は眠りに落ちた。


どれくらい眠っただろう。


「……リーネ」


トビアスの声で、目が覚めた。


「……交代だ」


私は起き上がり、外に出た。


夜風が冷たい。外套を羽織り直す。


「……何かあった?」


「……いや。静かだった」


トビアスは、立ち上がった。


私は、焚火の前に座った。


「……寝て。何かあったら起こす」


「……ああ」


トビアスは、宿の中に入っていった。


私は一人、焚火の前に残った。


星空を見上げる。


静かだった。風の音。火の爆ぜる音。遠くで、虫の声。


——その時。


遠くで、声がした。


野犬の、遠吠え。


私は、立ち上がった。


声は、山の向こうから聞こえた。まだ遠い。けれど——。


「……明日、柵を仕上げないと」


私は、呟いた。


焚火の火が、風に揺れた。


星空の下、私は朝まで、一人で見張りを続けた。

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