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婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


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第7話 窓枠に残った、誰かの名前

朝の光が、窓枠を照らしていた。


「ここから始めた——H・Z」


彫り文字が、金色に光っている。


私は窓辺に座り、昨夜見つけた手紙を広げた。


黄ばんだ紙。色褪せたインク。けれど、文字ははっきりと読めた。


——クラウスへ。


——この手紙を書いているのは、冬の終わりだ。窓の外には雪が残っている。


私は、ゆっくりと読み進めた。


ヘルマンの文字は、几帳面だった。一文字一文字、丁寧に書かれている。


——俺がこの宿を手に入れたのは、二十年前のことだ。何もなかった。屋根は穴だらけ、壁は傾き、井戸は枯れかけていた。


——それでも、ここから始めた。


——毎日、少しずつ直した。壁を塗り、屋根を葺き、井戸を掘り直した。一人ではできないことは、街道を通る職人に頼んだ。金がないときは、代わりに飯と寝床を提供した。


——気づけば、十年が経っていた。宿は、宿らしくなっていた。


私は、顔を上げた。


この部屋。この窓。この窓枠。


ヘルマンが直した場所だ。


手紙の続きを読む。


——俺には、家族がいない。この宿を継ぐ者もいない。


——だから、考えている。いつか、誰かに託したい。俺と同じように、何もないところから始める誰かに。


——クラウス、お前の娘が生まれたと聞いた。名前は何というのだ。いつか会ってみたい。


手紙は、そこで終わっていた。


書きかけのまま。窓枠の隙間に挟まれたまま。


「……届けられなかったのね」


私は、手紙を折りたたんだ。


ヘルマンは、この手紙を父に送るつもりだったのだろう。けれど、何かの理由で送れなかった。あるいは、書き直すつもりだったのかもしれない。


結局、手紙は届かなかった。


けれど、宿は届いた。


私の手元に。


「……ヘルマンさん」


私は窓枠に触れた。


彫り文字の、ざらざらした感触。


「私も、ここから始めます」


声に出すと、胸の奥が温かくなった。


その日の午後、私たちは川沿いの町へ向かった。


窓枠の修繕に、もう少し材木が必要だった。トビアスが見積もりを出し、私が帳面に書き留める。


「……檜の細板、十枚。それと、釘」


「わかった」


荷馬車が街道を下っていく。春の風が心地よい。若葉の匂いがする。


町に着くと、前と同じ材木商に向かった。


けれど、店の前に——見覚えのある男が立っていた。


恰幅の良い中年の男。にこやかな笑み。


「おや、お嬢さん。また来たのかい」


ダリウス。


第一印象は、前に宿の前に来た男と似ていた。いや、もっと上等な服を着ている。もっと自信に満ちた態度。


これが、親玉か。


「……何か御用ですか」


私は、立ち止まった。


ダリウスは笑みを崩さず、私に近づいてきた。


「いや、なに。最近、この町で材木を買っている女がいると聞いてね。どんな人かと思って」


「買い物をしているだけです」


「ああ、もちろん。もちろんだとも」


ダリウスは、大げさに頷いた。


「ただ、一つだけ忠告をね。——この街道で材木を買うなら、俺を通したほうがいい」


私は、彼を見た。


「通す、というのは」


「簡単な話さ。俺がこの辺りの材木を取りまとめている。俺を通せば、品質も保証される。通さなければ——まあ、色々と面倒なことが起きるかもしれない」


脅しだ。


言葉は丁寧だが、意味は明らかだった。


私は、動かなかった。


「それは、脅迫ですか」


ダリウスの笑みが、わずかに固まった。


「脅迫? まさか。ただの忠告だよ、お嬢さん」


「では、忠告として受け取っておきます。——それで、私の買い物を邪魔する理由は何ですか」


ダリウスの目が、細くなった。


私は鞄から帳面を取り出した。


「こちらが、この町と周辺の商会から集めた価格表です。檜の細板、一枚あたりの相場。——あなたの商会の価格は、相場より二割高い」


帳面を、ダリウスに見せた。


「私は正当な価格で買い物をしたいだけです。それを邪魔されるなら——領主代官にご報告しますが、よろしいですか」


沈黙が落ちた。


ダリウスの笑みが、消えた。


私は、続けた。


「領主代官の巡察は、来月と聞いています。街道沿いの商取引について、何か不正があれば報告を受け付けるそうですね」


ダリウスは、私を見た。


その目には、もう笑みの欠片もなかった。


「……お嬢さん。あんた、誰に喧嘩を売ってるかわかってるのかい」


「喧嘩を売っているつもりはありません。正当な取引をしたいだけです」


私は、帳面を閉じた。


「あなたが正規の価格で売ってくださるなら、あなたから買います。そうでなければ、他を当たります。——それだけです」


長い沈黙。


ダリウスは、舌打ちをした。


「……いいだろう。正規の価格で売ってやる」


「ありがとうございます」


私は、頭を下げた。


ダリウスは、材木商に何か指示を出し、私たちに背を向けた。


去り際、小さな声が聞こえた。


「……覚えておけよ、お嬢さん。この宿、潰してやる」


私は、聞こえないふりをした。


材木を積んで、町を出たのは夕方近くだった。


荷馬車が街道を登っていく。後ろには、新しい材木が積まれている。


私は、黙っていた。


トビアスも、黙っていた。


しばらくして、トビアスが口を開いた。


「……あの男、長くは続かない」


私は、彼を見た。


「どうして」


「……帳簿がおかしい。俺は見た」


私は、目を瞬いた。


「見た? いつ」


「……この街道で十年、仕事をしてる。あの男の帳簿は、何度か見る機会があった」


「何度か……」


「……正規の届出と、実際の取引が合ってない。二重帳簿だ」


私は、息を呑んだ。


二重帳簿。それは——領主代官に報告すれば、大きな問題になる。


「なぜ、今まで黙ってたの」


「……聞かれなかった」


私は、呆れた。


「聞かれなかったから言わなかった?」


「……ああ」


「あなたね……」


私は、額に手を当てた。


「次からは、言って。聞かなくても」


「……わかった」


また沈黙。


けれど、今度は少し、違う沈黙だった。


「……トビアス」


「……何だ」


「ありがとう」


「……何が」


「情報をくれたこと。——それと、あの場で何も言わなかったこと」


トビアスは、前を向いたまま言った。


「……あんたが話してた。俺が口を出す必要はなかった」


「でも、いてくれた」


「……いただけだ」


私は、小さく笑った。


「それでいいのよ」


荷馬車が揺れる。材木がかすかに音を立てる。


夕日が、街道を赤く染めていた。


「……ダリウス、怒ってたわね」


「……怒らせた」


「私が?」


「……あんたが」


「……いい気味」


私は、また笑った。


トビアスも——ほんの少しだけ、口の端が上がった気がした。


宿に着いたのは、日が暮れる頃だった。


材木を降ろし、明日の作業の準備をする。


私は窓辺に立ち、街道を見下ろした。


ダリウスの言葉が、頭の中で響いていた。


「この宿、潰してやる」


脅しだ。本気かどうかはわからない。けれど、あの男が何かを仕掛けてくる可能性はある。


「……リーネ」


トビアスの声に、振り返った。


「……明日、柵を作る」


「柵?」


「……野犬が出ると聞いた。備えておいたほうがいい」


私は、彼を見た。


野犬。それとも——別の何かへの備えだろうか。


「……そうね。お願い」


「……ああ」


トビアスは、道具袋を肩にかけ、外へ出ていった。


私は、窓枠に手を置いた。


「ここから始めた——H・Z」


彫り文字が、夕闘の中で静かに光っていた。


ヘルマンも、こうして何かと戦ったのだろうか。この宿を守るために。


「……負けないわよ」


私は、呟いた。


窓の外では、最初の星が空に浮かび始めていた。

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