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婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


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第6話 羊毛の村で聞いた噂

山道を登るのは、思ったより骨が折れた。


峠の宿から半日ほど。羊毛の村ヴォルカは、山の中腹にある小さな集落だった。


道の両側には、芽吹き始めた木々が並んでいる。新緑の匂いがする。土と、若葉と、どこかから漂ってくる羊の匂い。


「……もうすぐだ」


前を歩くトビアスが言った。


荷馬車は峠に置いてきた。山道は狭く、馬車が通れないからだ。トビアスは背に道具袋を背負い、私は帳面と財布を持っている。


坂を登りきると、視界が開けた。


緩やかな斜面に、石造りの家が点在している。柵の中には羊が群れ、どこかで機織りの音がしていた。規則正しい、とんとん、という音。


「……いい村ね」


「……ああ」


村の入り口で、年配の女性が私たちを見ていた。


白髪交じりの髪を後ろで束ね、働き者の手をしている。目つきは鋭いが、悪意はなさそうだった。


「あんたたち、何の用だい」


「寝具用の綿を探しています。宿を直していて——」


「宿?」私の言葉を遮り、女性は目を細めた。「峠のあの荒れ宿かい」


「ええ」


「ふうん」


女性は私の顔をじろじろと見た。服装を見て、手を見て、また顔を見た。


「あんた、もしかして——都から来た令嬢かい」


私は、一瞬言葉に詰まった。


「……なぜ、そう思うのですか」


「話し方だよ。それに、旅人が噂してた。峠の宿に、都の令嬢が来たって」


女性——後でマルタと名乗った——は腕を組んだ。


「なんでも、婚約者に捨てられたとか。冷たい女だとか。——本当のところは、どうなんだい」


空気が、張り詰めた。


トビアスが、わずかに動いた。何か言おうとしているのか、それとも私を庇おうとしているのか。


私は、手を上げて止めた。


「噂は噂です」


私は、マルタの目を見て言った。


「私が何を言っても、信じるかどうかはあなた次第でしょう。——でも、一つだけ」


息を吸う。


「私は今、ここで働いています。宿を直して、旅人が泊まれる場所を作ろうとしています。それが、私の答えです」


マルタは、黙っていた。


長い沈黙だった。羊の鳴き声と、遠くの機織りの音だけが聞こえる。


やがて、マルタは鼻を鳴らした。


「……ふん。まあ、言うだけなら誰でもできるね」


「ええ。だから、見ていてください」


私は、帳面を開いた。


「寝具用の綿を、これだけ。品質と価格を確認させてください」


結局、私はその日、村で半日を過ごした。


綿の選別を手伝い、帳簿をつけ、村人たちと言葉を交わした。


最初は遠巻きに見ていた村人たちも、私が手を動かし続けるうちに、少しずつ近づいてきた。


「——お嬢さん、その帳面、何を書いてるんだい」


「支出と在庫の記録です。宿を経営するなら、お金の流れを把握しないと」


「へえ。細かいねえ」


「母に教わったんです」


私は、黙々と手を動かした。


綿を選り分け、品質をチェックし、価格を交渉する。領地で学んだことが、ここでも役に立った。


夕方近くになって、マルタが私の隣に座った。


「……あんた、本当に令嬢かい」


「元、ですけど」


「元令嬢が、こんな山奥で綿の選別かい」


「必要なことですから」


マルタは、ふっと笑った。


「……噂と違うね」


私は、手を止めた。


「冷たい女だって聞いてたけど、そうは見えない。——まあ、噂なんてそんなもんさ」


私は、何も言わなかった。


言葉で否定しても、意味がない。行動で示すしかない。


それが、母の教えだった。


「また来な。次は、もっといい綿を用意しておくよ」


「……ありがとうございます」


私は頭を下げた。


マルタは手を振って、自分の家に戻っていった。


機織りの音が、また響き始める。


私は空を見上げた。山の向こうに、夕焼けが広がっている。


「……行くか」


トビアスの声に、私は頷いた。


「ええ」


宿に戻ったのは、日が暮れる頃だった。


山道を下りながら、私は何度か振り返った。村の灯りが、小さく見える。


「……噂、聞いてたの」


私は、前を歩くトビアスに聞いた。


「……ああ」


「何も、聞かないのね」


「……何を」


「私のこと。婚約者のこと。——都で何があったか」


トビアスは、立ち止まらなかった。


「……聞く必要がない」


「なぜ」


「……今のあんたを見てる。それでいい」


私は、彼の背中を見た。


広い肩。傷だらけの手。無骨な歩き方。


この人は、過去を聞かない。噂を気にしない。ただ、今の私を見ている。


それが——不思議と、楽だった。


「……ありがとう」


「……何が」


「聞かないでいてくれて」


トビアスは、何も言わなかった。


ただ、歩き続けた。


私も、黙ってついていった。


宿に着くと、トビアスは窓枠の修繕に取りかかった。


私は帳簿を整理しながら、彼の作業を見ていた。


古い窓枠を外し、新しい木材を当てる。鉋で削り、やすりで磨く。


「……リーネ」


「何?」


「……これ」


トビアスが、窓枠を指さした。


私は立ち上がり、近づいた。


彼が磨いていた窓枠の隅に、文字が浮かび上がっていた。


煤と埃に埋もれて見えなかった文字。トビアスが磨いたことで、はっきりと読めるようになっていた。


「ここから始めた——H・Z」


私は、息を呑んだ。


H・Z。ヘルマン・ザイツ。


父の旧友。この宿を私に遺してくれた人。


「……ヘルマンさんの言葉だ」


私は、指で文字をなぞった。


彫り込まれた文字。何十年も前に、誰かがここに刻んだ言葉。


「ここから始めた」


声に出すと、胸の奥が熱くなった。


この人も、ここから始めたのだ。この荒れた宿で。何もないところから。


「……あんたと同じだ」


トビアスの声に、私は顔を上げた。


「え?」


「……ここから始める。あんたも」


私は、彼を見た。


トビアスは窓枠を見つめていた。表情は変わらない。けれど、その目には——何かがあった。


「……そうね」


私は、また文字に触れた。


「私も、ここから始める」


風が窓から吹き込んだ。春の風。まだ少し冷たいけれど、柔らかい風。


その時、窓枠の裏側から、何かが落ちた。


紙だ。


古びた、黄ばんだ紙。折りたたまれて、窓枠の隙間に挟まっていたらしい。


私は拾い上げ、広げた。


手紙だった。


宛名は——クラウス・ヴェストリア。


私の、父の名前。


差出人は——ヘルマン・ザイツ。


「……これ」


私の声が、震えた。


「父への手紙だわ。ヘルマンさんからの——」


手紙は、途中で終わっていた。


書きかけのまま、ここに挟まれていた。


何十年も前の手紙。届けられなかった言葉。


私は、手紙を胸に抱いた。


窓の外では、最後の夕焼けが山の向こうに沈んでいく。


「……読むか」


トビアスの声に、私は首を振った。


「……明日。今日は、もう——」


言葉が続かなかった。


トビアスは、何も言わなかった。


ただ、黙って、窓枠の作業を続けた。


鉋の音が、静かに響いていた。


私は手紙を懐にしまい、窓の外を見た。


星が、一つ、二つと、空に浮かび始めていた。

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