第5話 煙突の煤と、湯を沸かす理由
翌朝、私は手紙を読み直した。
窓から差し込む朝日の下、紙の上に並ぶ文字を、何度も目で追った。
——ヴェストリア嬢が署名した借用書について、返済の意思を確認したい。
——期日までに連絡なき場合、しかるべき手続きを取らせていただく。
文面は丁寧だった。けれど、行間に脅しが透けて見えた。
私は署名していない。印章も、私が押したものではない。
それを、向こうは知っているはずだ。婚約破棄の場で、私は証拠を突きつけた。アルヴィンは何も言い返せなかった。
なのに、こうして督促を送ってくる。
「……諦めが悪いのね」
声に出すと、怒りが少しだけ静まった。
感情的に怒鳴り返しても、意味がない。向こうは「書面で要求した」という事実を作りたいのだろう。私が無視すれば、「返済の意思なし」と主張する材料になる。
ならば、こちらも書面で返す。
証拠を添えて。
私は帳面を取り出し、行動記録帳を開いた。
竈の煤払いをしながら、返書の文面を頭の中で組み立てた。
煙突に腕を突っ込み、こびりついた煤をかき出す。黒い粉が舞い、顔にかかった。目に入りそうになり、慌てて目を閉じる。
「……っ」
咳き込みながら、煤の塊を落とした。
十年分の汚れは、想像以上だった。煙突の内側は煤で狭くなり、このままでは火を焚いても煙が逆流する。
「……リーネ」
振り返ると、トビアスが立っていた。
手には板材を持っている。床の修繕をしていたはずだ。
「何?」
「……顔」
「え?」
「……煤」
私は自分の頬に触れた。指先が黒くなった。
「……あとでいい。先に竈を終わらせる」
「……そうか」
トビアスはそれだけ言って、また床の方へ戻っていった。
私は煤払いを続けた。
腕が痛い。肩も凝る。けれど、手を動かしている間は、考えがまとまりやすかった。
返書の文面。
まず、事実を述べる。借用書に記載された日付、私の所在。行動記録帳の該当ページを写し、添付する。
次に、結論。私はこの借用書に署名していない。したがって、返済義務はない。
最後に、警告。必要であれば、筆跡鑑定を申請する用意がある。
これでいい。
煤の最後の塊を落とし、私は竈から腕を抜いた。
黒い粉だらけの手を見下ろす。爪の間まで真っ黒だ。
窓の方を見ると、あのかすれた彫り文字が見えた。まだ読めない。けれど、日差しを受けて、少しだけ輪郭がはっきりしてきた気がする。
「……さて」
私は立ち上がり、帳面に向かった。
返書を、書く。
伝令所は、峠から少し下った街道沿いにあった。
小さな石造りの建物。窓口には、眠そうな顔の中年男性が座っている。
「王都宛て、子爵家への書簡です。速達で」
「速達ね。銀貨一枚」
高い。けれど、必要な出費だ。
私は銀貨を差し出し、封をした返書を預けた。
「五日で届くよ。返事があれば、ここに届く」
「ありがとうございます」
踵を返そうとした時、窓口の男が口を開いた。
「——あんた、ヴェストリアの嬢ちゃんかい」
足が止まった。
「……どうして」
「いや、なに。最近、子爵家の名代を名乗る奴がこのあたりをうろついててね。街道沿いの宿場を調べてるらしい。あんたのこと、聞いて回ってたよ」
私は、男の顔を見た。
「……何を聞いて?」
「さあね。俺は何も答えなかったけど。——まあ、気をつけな」
男はそれだけ言って、窓口を閉めた。
私は、しばらくその場に立っていた。
子爵家の名代。街道沿いを調べている。私のことを聞いて回っている。
アルヴィンは、まだ諦めていない。
いや——むしろ、追い詰められているのかもしれない。
借用書の偽造が発覚すれば、アルヴィンの立場は危うくなる。父親の子爵に知られれば、なおさらだ。だから、私を黙らせようとしている。
けれど、私は黙らない。
「……証拠があるのは、こちらよ」
呟いて、私は宿への道を歩き始めた。
宿に戻ったのは、夕暮れ時だった。
空が橙色に染まっている。春とはいえ、日が落ちると冷える。外套を羽織り直しながら、扉を開けた。
——湯気が、立ち上っていた。
竈に火が入っている。鍋がかけられ、湯が沸いていた。
トビアスが、竈の前に座っていた。
「……何これ」
私は立ち止まった。
トビアスは振り返らず、火の加減を見ている。
「……湯」
「見ればわかるわよ。なぜ沸かしてるの」
「……汚れてた」
私は、自分の手を見た。煤だらけのまま、伝令所に行ったのだ。顔も、たぶん黒いままだった。
「……気が利くのね」
「……別に」
トビアスは立ち上がり、桶を差し出した。
「……使え」
私は、桶を受け取った。
湯を汲み、顔を洗う。温かい水が、煤を落としていく。目を閉じると、今日一日の疲れが、じわりと溶けていくような気がした。
顔を拭き、息を吐く。
「……ありがとう」
「……仕事だ」
「湯を沸かすのは、契約に入ってないでしょう」
トビアスは、何も言わなかった。
私は、少しだけ笑った。
「……『別に』じゃないわよ。——でも、気を遣わせたなら、悪かったわ」
「……遣ってない」
「遣ってないのに、湯が沸いてるの?」
「……たまたまだ」
「たまたま」
「……そうだ」
沈黙が落ちた。
竈の火がぱちりと爆ぜる。湯気が、薄暗い宿の中に漂っている。
私は手拭いで髪を拭きながら、窓の外を見た。
夕焼けが、山の向こうに沈んでいく。
「……トビアス」
「……何だ」
「あの手紙、借金の督促だったの」
トビアスの手が、止まった。
「……そうか」
「私が署名した覚えのない借用書。婚約者だった人が、偽造したものよ」
私は、自分でも驚くほど淡々と言葉を続けていた。
「今日、返書を送った。証拠を添えて。——たぶん、しばらくは黙るはず」
「……しばらくは」
「ええ。でも、諦めてはいないみたい。子爵家の名代が、この辺りを調べてるって」
トビアスは、火を見つめていた。
「……あんたは、どうする」
「どうするって?」
「……逃げるか」
私は、首を振った。
「逃げない。——逃げたら、あの人たちの思うつぼよ」
トビアスは、何も言わなかった。
ただ、黙って、薪を竈にくべた。
火が明るくなる。湯気が、また立ち上る。
「……リーネ」
「何?」
「……明日、煙突の続きをやる」
「……そうね」
「……手伝う」
私は、彼を見た。
トビアスは、相変わらず火を見つめていた。表情は読めない。けれど、その横顔には、何か——静かな決意のようなものがあった。
「……ありがとう」
「……仕事だ」
「……そればっかりね」
「……他に言葉を知らない」
私は、小さく笑った。
外は、もう暗くなっていた。
星が、窓の向こうに見え始めている。
手紙のことは、まだ片付いていない。子爵家の動きも、気になる。
けれど、今夜は——。
「……明日も早いんでしょう」
「……ああ」
「なら、寝るわ。——おやすみなさい」
「……ああ」
私は二階への仮設階段を上がり、自分の部屋に入った。
窓から、星空が見えた。
煤の匂いが、まだ少し残っている。けれど、湯で温まった体は、心地よかった。
——五日後。
伝令所に、私宛ての手紙は届かなかった。
アルヴィンは、沈黙した。
今は、それでいい。
次に何か来たら、また証拠で返すだけだ。
私は行動記録帳に、今日の出来事を書き込んだ。
返書を送ったこと。伝令所で聞いた噂。トビアスが湯を沸かしてくれたこと。
最後の一行だけ、少し迷って——結局、書かなかった。
『気を遣ってないふりが、下手だと思う』
そう書きそうになって、やめた。
帳面を閉じ、目を閉じる。
明日も、やることは山ほどある。




