表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第5話 煙突の煤と、湯を沸かす理由

翌朝、私は手紙を読み直した。


窓から差し込む朝日の下、紙の上に並ぶ文字を、何度も目で追った。


——ヴェストリア嬢が署名した借用書について、返済の意思を確認したい。


——期日までに連絡なき場合、しかるべき手続きを取らせていただく。


文面は丁寧だった。けれど、行間に脅しが透けて見えた。


私は署名していない。印章も、私が押したものではない。


それを、向こうは知っているはずだ。婚約破棄の場で、私は証拠を突きつけた。アルヴィンは何も言い返せなかった。


なのに、こうして督促を送ってくる。


「……諦めが悪いのね」


声に出すと、怒りが少しだけ静まった。


感情的に怒鳴り返しても、意味がない。向こうは「書面で要求した」という事実を作りたいのだろう。私が無視すれば、「返済の意思なし」と主張する材料になる。


ならば、こちらも書面で返す。


証拠を添えて。


私は帳面を取り出し、行動記録帳を開いた。


竈の煤払いをしながら、返書の文面を頭の中で組み立てた。


煙突に腕を突っ込み、こびりついた煤をかき出す。黒い粉が舞い、顔にかかった。目に入りそうになり、慌てて目を閉じる。


「……っ」


咳き込みながら、煤の塊を落とした。


十年分の汚れは、想像以上だった。煙突の内側は煤で狭くなり、このままでは火を焚いても煙が逆流する。


「……リーネ」


振り返ると、トビアスが立っていた。


手には板材を持っている。床の修繕をしていたはずだ。


「何?」


「……顔」


「え?」


「……煤」


私は自分の頬に触れた。指先が黒くなった。


「……あとでいい。先に竈を終わらせる」


「……そうか」


トビアスはそれだけ言って、また床の方へ戻っていった。


私は煤払いを続けた。


腕が痛い。肩も凝る。けれど、手を動かしている間は、考えがまとまりやすかった。


返書の文面。


まず、事実を述べる。借用書に記載された日付、私の所在。行動記録帳の該当ページを写し、添付する。


次に、結論。私はこの借用書に署名していない。したがって、返済義務はない。


最後に、警告。必要であれば、筆跡鑑定を申請する用意がある。


これでいい。


煤の最後の塊を落とし、私は竈から腕を抜いた。


黒い粉だらけの手を見下ろす。爪の間まで真っ黒だ。


窓の方を見ると、あのかすれた彫り文字が見えた。まだ読めない。けれど、日差しを受けて、少しだけ輪郭がはっきりしてきた気がする。


「……さて」


私は立ち上がり、帳面に向かった。


返書を、書く。


伝令所は、峠から少し下った街道沿いにあった。


小さな石造りの建物。窓口には、眠そうな顔の中年男性が座っている。


「王都宛て、子爵家への書簡です。速達で」


「速達ね。銀貨一枚」


高い。けれど、必要な出費だ。


私は銀貨を差し出し、封をした返書を預けた。


「五日で届くよ。返事があれば、ここに届く」


「ありがとうございます」


踵を返そうとした時、窓口の男が口を開いた。


「——あんた、ヴェストリアの嬢ちゃんかい」


足が止まった。


「……どうして」


「いや、なに。最近、子爵家の名代を名乗る奴がこのあたりをうろついててね。街道沿いの宿場を調べてるらしい。あんたのこと、聞いて回ってたよ」


私は、男の顔を見た。


「……何を聞いて?」


「さあね。俺は何も答えなかったけど。——まあ、気をつけな」


男はそれだけ言って、窓口を閉めた。


私は、しばらくその場に立っていた。


子爵家の名代。街道沿いを調べている。私のことを聞いて回っている。


アルヴィンは、まだ諦めていない。


いや——むしろ、追い詰められているのかもしれない。


借用書の偽造が発覚すれば、アルヴィンの立場は危うくなる。父親の子爵に知られれば、なおさらだ。だから、私を黙らせようとしている。


けれど、私は黙らない。


「……証拠があるのは、こちらよ」


呟いて、私は宿への道を歩き始めた。


宿に戻ったのは、夕暮れ時だった。


空が橙色に染まっている。春とはいえ、日が落ちると冷える。外套を羽織り直しながら、扉を開けた。


——湯気が、立ち上っていた。


竈に火が入っている。鍋がかけられ、湯が沸いていた。


トビアスが、竈の前に座っていた。


「……何これ」


私は立ち止まった。


トビアスは振り返らず、火の加減を見ている。


「……湯」


「見ればわかるわよ。なぜ沸かしてるの」


「……汚れてた」


私は、自分の手を見た。煤だらけのまま、伝令所に行ったのだ。顔も、たぶん黒いままだった。


「……気が利くのね」


「……別に」


トビアスは立ち上がり、桶を差し出した。


「……使え」


私は、桶を受け取った。


湯を汲み、顔を洗う。温かい水が、煤を落としていく。目を閉じると、今日一日の疲れが、じわりと溶けていくような気がした。


顔を拭き、息を吐く。


「……ありがとう」


「……仕事だ」


「湯を沸かすのは、契約に入ってないでしょう」


トビアスは、何も言わなかった。


私は、少しだけ笑った。


「……『別に』じゃないわよ。——でも、気を遣わせたなら、悪かったわ」


「……遣ってない」


「遣ってないのに、湯が沸いてるの?」


「……たまたまだ」


「たまたま」


「……そうだ」


沈黙が落ちた。


竈の火がぱちりと爆ぜる。湯気が、薄暗い宿の中に漂っている。


私は手拭いで髪を拭きながら、窓の外を見た。


夕焼けが、山の向こうに沈んでいく。


「……トビアス」


「……何だ」


「あの手紙、借金の督促だったの」


トビアスの手が、止まった。


「……そうか」


「私が署名した覚えのない借用書。婚約者だった人が、偽造したものよ」


私は、自分でも驚くほど淡々と言葉を続けていた。


「今日、返書を送った。証拠を添えて。——たぶん、しばらくは黙るはず」


「……しばらくは」


「ええ。でも、諦めてはいないみたい。子爵家の名代が、この辺りを調べてるって」


トビアスは、火を見つめていた。


「……あんたは、どうする」


「どうするって?」


「……逃げるか」


私は、首を振った。


「逃げない。——逃げたら、あの人たちの思うつぼよ」


トビアスは、何も言わなかった。


ただ、黙って、薪を竈にくべた。


火が明るくなる。湯気が、また立ち上る。


「……リーネ」


「何?」


「……明日、煙突の続きをやる」


「……そうね」


「……手伝う」


私は、彼を見た。


トビアスは、相変わらず火を見つめていた。表情は読めない。けれど、その横顔には、何か——静かな決意のようなものがあった。


「……ありがとう」


「……仕事だ」


「……そればっかりね」


「……他に言葉を知らない」


私は、小さく笑った。


外は、もう暗くなっていた。


星が、窓の向こうに見え始めている。


手紙のことは、まだ片付いていない。子爵家の動きも、気になる。


けれど、今夜は——。


「……明日も早いんでしょう」


「……ああ」


「なら、寝るわ。——おやすみなさい」


「……ああ」


私は二階への仮設階段を上がり、自分の部屋に入った。


窓から、星空が見えた。


煤の匂いが、まだ少し残っている。けれど、湯で温まった体は、心地よかった。


——五日後。


伝令所に、私宛ての手紙は届かなかった。


アルヴィンは、沈黙した。


今は、それでいい。


次に何か来たら、また証拠で返すだけだ。


私は行動記録帳に、今日の出来事を書き込んだ。


返書を送ったこと。伝令所で聞いた噂。トビアスが湯を沸かしてくれたこと。


最後の一行だけ、少し迷って——結局、書かなかった。


『気を遣ってないふりが、下手だと思う』


そう書きそうになって、やめた。


帳面を閉じ、目を閉じる。


明日も、やることは山ほどある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ