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婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


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第4話 材木市の朝は早い

「——早いのね」


まだ薄暗い中、宿の前に出ると、トビアスの荷馬車がすでに待っていた。


馬のグレイが白い息を吐いている。トビアスは御者台に座り、手綱を握っていた。


「……市は朝が勝負だ」


「知ってる。だから昨夜のうちに準備したの」


私は鞄を抱えて馬車に乗り込んだ。中には帳面、筆記具、そして昨日トビアスから聞いた相場のメモ。


「……準備?」


「相場よ。昨日あなたが教えてくれたでしょう。書き留めておいたの」


トビアスは何も言わなかった。ただ、わずかに目を細めた。


何を考えているのかはわからない。けれど、悪い顔ではなかった気がする。


荷馬車が動き出した。


川沿いの町、ミュールに着いたのは、朝日が山の端を離れた頃だった。


川面に光が反射している。きらきらと、白く。水の匂いが風に乗って届いた。冷たくて、少し土の香りが混じっている。


川岸には材木が積まれ、職人たちが声を上げながら運んでいる。丸太を転がす音、鋸を引く音、荷車の軋み。活気があった。


「……ここだ」


トビアスが馬車を止めたのは、市場の端にある材木商の前だった。


店先には板材が立てかけられ、角材が束ねられている。奥から、太った男が出てきた。


「おう、トビアス。久しぶりじゃねえか」


「……ああ」


「今日は何を——」


男の目が、私を見た。


値踏みするような視線。服装を見て、手を見て、顔を見た。


「……お連れさんかい」


「……依頼主だ」


「へえ」


男の口元に、薄い笑みが浮かんだ。


私は、その笑みの意味を理解した。女一人。しかも、見たところ旅慣れていない。ふっかけても気づかないだろう——そういう目だ。


「それで、何がいる」


私は帳面を開いた。


「屋根の修繕用に、檜の板材を二十枚。床板用に、杉の厚板を十五枚。それと、角材を——」


「ああ、はいはい。わかった、わかった」


男は私の言葉を遮り、指折り数えた。


「全部で、銀貨八枚だな」


私は、動かなかった。


「……銀貨八枚」


「そうだ。上等な材だからな。妥当な値段だろう」


私は帳面のメモを見た。昨日、トビアスから聞いた相場。檜の板材は一枚銅貨十五枚、杉の厚板は銅貨十枚、角材は——。


計算する。


「銀貨五枚と銅貨三十枚。それが相場のはずですが」


男の笑みが、止まった。


「……何だと」


「昨日、この町の別の商会で確認しました。檜の板材は一枚銅貨十五枚。杉の厚板は銅貨十枚。あなたの言い値は、相場の一・五倍以上です」


私は帳面を男に向けた。


「こちらが、その商会の価格表の写しです。ご確認いただけますか」


男の顔が、わずかに強張った。


「……写しだと?」


「はい。昨日の夕方、トビアスに頼んで取り寄せてもらいました」


嘘ではない。昨日、トビアスが「他の商会の値段も聞いておく」と言って、夕方に戻ってきた時、紙切れを一枚渡してくれた。そこに、相場が書いてあった。


男はトビアスを見た。


トビアスは、何も言わなかった。ただ、黙って立っている。


「……ふん」


男は鼻を鳴らした。


「うちはうちの値段だ。嫌なら他を当たれ」


「では、そうします」


私は帳面を閉じた。


「隣の商会で同じ品質のものが三割安いと聞いています。そちらに——」


「待て待て」


男が慌てて手を上げた。


「……わかった。銀貨五枚と銅貨三十枚でいい」


私は、立ち止まった。


「……本当に?」


「本当だ。くそ、よく調べてやがる……」


男はぶつぶつ言いながら、材木を選び始めた。


私は、小さく息を吐いた。


勝った。


振り返ると、トビアスがこちらを見ていた。表情は変わらない。けれど、その目には——何かがあった。


材木を荷馬車に積み終え、町を出たのは昼前だった。


春の日差しが暖かい。川沿いの道を、荷馬車がゆっくりと進む。後ろには、買い付けた材木が積まれている。


私は、少し疲れていた。けれど、悪い疲れではなかった。


「……」


トビアスは、相変わらず黙っている。


私は、我慢できなくなった。


「何か言わないの」


「……何を」


「何をって……今の交渉、見てたでしょう」


「……見てた」


「見てたなら、何か——」


「……うまかった」


私は、思わず彼を見た。


トビアスは前を向いたままだった。手綱を握る手。傷だらけの、職人の手。


「……『うまかった』だけ?」


「……ああ」


「もう少し何かないの」


「……何を言えばいい」


「普通は、『すごい』とか、『よくやった』とか——」


「……すごい」


「今言われても遅いわよ」


私は呆れて、笑ってしまった。


トビアスは、ちらりとこちらを見た。


「……次は言う」


「期待しないで待つわ」


また、沈黙。


けれど、嫌な沈黙ではなかった。


荷馬車が揺れる。材木がかすかに音を立てる。川の匂いが、まだ風に残っていた。


「……リーネ」


「何?」


「……帳簿、あんたがつけるんだったな」


「ええ」


「……勝手に数字をいじらない」


「いじらないわよ。当たり前でしょう」


「……なら、いい」


また沈黙。


私は帳面を開き、今日の支出を書き留めた。材木代、銀貨五枚と銅貨三十枚。運搬費はなし。トビアスの馬車だから。


「……トビアス」


「……何だ」


「ありがとう」


「……何が」


「相場を教えてくれたこと。他の商会の価格を調べてくれたこと」


トビアスは、何も言わなかった。


私は続けた。


「あなたがいなかったら、私、あの値段で買わされてた」


「……あんたが調べた。あんたが言った。俺は何もしてない」


「道具を渡してくれたのは、あなたよ」


トビアスは、前を向いたまま、小さく肩をすくめた。


「……仕事だ」


その言葉を、私は覚えておこうと思った。


宿に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


荷馬車を宿の前に止め、材木を降ろす。トビアスが一人で黙々と運ぶのを見て、私も手伝おうとした。


「……いい。重い」


「でも——」


「……帳簿」


「……わかったわよ」


私は宿の中に入り、帳面を広げた。今日の支出を整理し、明日からの作業計画を書き出す。


その時、足元に何かがあるのに気づいた。


紙だ。扉の隙間から差し込まれたらしい。


拾い上げる。


封筒だった。表には、私の名前。裏には——。


「……ゼルナー子爵家名代」


息が、止まった。


アルヴィン。


いや、アルヴィンの名代。子爵家から、何かが届いた。


封を切る手が、わずかに震えた。


中には、一枚の紙。


目を通す。


——借用書の返済を求める。


私は、紙を握りしめた。


外から、トビアスが材木を運ぶ音がする。


夕日が、窓から差し込んでいる。


手紙の文字が、赤く染まっていた。

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