第3話 木っ端と釘と、黙った男
朝靄がまだ残る中、男は宿の前に立っていた。
四十過ぎに見える。恰幅が良く、着ているものは上等だが、目つきが悪い。笑っているのに、笑っていない顔だった。
「おはよう、お嬢さん。この宿の権利書——本物かね?」
私は扉を背にしたまま、一歩も動かなかった。
「……どういう意味ですか」
「いや、なに。この宿の元の持ち主、借金を残して死んだって話でね。権利書があっても、借金が残ってりゃ無効だ。そういうこともあるんじゃないかと思ってさ」
男はにやにやと笑いながら、一歩近づいた。
私は、動かなかった。
借金。ヘルマンの借金。父からは聞いていない。けれど、十年前のことだ。父が知らない事情があっても不思議ではない。
——いや、待て。
私は男の顔を見た。
「根拠は?」
「あん?」
「借金が残っているという根拠です。書類はありますか。誰が、いつ、いくら貸したのか。返済の記録は。ヘルマンの死後、誰がその債務を引き継いだのか」
男の笑みが、わずかに固まった。
私は続けた。
「それらがなければ、あなたの言葉は噂に過ぎません。——そして、権利書の真贋を判断するのは、あなたではありません」
「……なんだと」
「登記所で原本と照合すれば、すべてわかります。ご一緒にいかがですか?」
男の目が、ちらりと泳いだ。
私は、確信した。この男は、根拠がない。脅せば引くと思って来たのだ。
「そんな面倒なことを——」
「面倒ではありません。正式な手続きです。私の権利書が偽物だと主張するなら、公的な場で決着をつけましょう」
沈黙が落ちた。
男の顔から、笑みが消えた。代わりに、苛立ちが浮かぶ。
その時、背後から車輪の音がした。
馬のいななき。荷馬車の軋み。
振り返ると、トビアスが馬車を降りるところだった。
男を見て、トビアスの目が細くなった。何かを見定めるような目。けれど、何も言わない。
ただ、私の隣に来て、立った。
二対一。
男は舌打ちをした。
「……覚えておけ」
それだけ言って、男は街道を戻っていった。足音が遠ざかり、やがて消える。
私は、息を吐いた。
「……ありがとう」
トビアスは、何も言わなかった。ただ、男が消えた方向を見ていた。
「あの男、知っていますか」
「……後で話す」
短い言葉。けれど、何かを知っている目だった。
「まず、登記所に行く」
私は言った。
「権利書の正当性を、公的に証明しておきたい」
トビアスは、私を見た。
「……乗れ」
荷馬車の御者台を顎で示す。
私は頷き、馬車に乗り込んだ。
登記所は、峠から街道を少し下った宿場町にあった。
雨上がりの朝。空気はまだ冷たく、吐く息が白い。荷馬車が石畳を揺れながら進む。トビアスは黙って手綱を握り、私は隣で権利書を握りしめていた。
宿場町に入ると、朝市の準備が始まっていた。材木を積んだ荷車が通り、職人たちが声をかけ合っている。木の匂いがする。切りたての、新鮮な木材の匂い。
登記所は、町の中心にある石造りの建物だった。
「待っていてください」
「……いや」
トビアスは馬車を降り、私の後について来た。
「……何かあったら、面倒だ」
何かあったら。さっきの男のことだろうか。
私は頷き、登記所の扉を開けた。
受付には、初老の男性が座っていた。眼鏡をかけ、帳面を開いている。
「——権利書の原本照合をお願いしたいのですが」
私が権利書を差し出すと、男性はそれを受け取り、丁寧に広げた。
「ヘルマン・ザイツ名義の……峠の宿ですか。少々お待ちを」
男性は奥の書庫に消え、しばらくして分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。
帳簿を開き、権利書と照合する。私は息を詰めて見守った。
「——間違いありません」
男性が言った。
「この権利書は正式に登記されています。ヘルマン・ザイツ氏から、クラウス・ヴェストリア氏への譲渡も記録されています。そしてヴェストリア氏から、リーネ・ヴェストリア嬢への譲渡が——これは先日届け出がありましたね」
父が、手続きをしておいてくれたのだ。
「借金の記録は……」
「ありません」
男性は帳簿を指さした。
「ヘルマン・ザイツ氏は、亡くなる三年前にすべての借金を清算しています。ここに記録があります。この宿には、一切の負債は残っておりません」
私は、目を閉じた。
「……ありがとうございます」
「証明書が必要でしたら、発行できますよ」
「お願いします」
手数料を払い、正式な証明書を受け取った。権利書と共に、懐にしまう。
これで、誰が何を言おうと、証拠がある。
登記所を出ると、空が少し明るくなっていた。雲の切れ間から、薄い日差しが差している。
「……終わったか」
トビアスが言った。
「はい。これで、あの男が何を言っても——」
「……言わせない」
短い言葉。けれど、そこには静かな力があった。
私は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
トビアスは、何も言わなかった。ただ、荷馬車に向かって歩き始めた。
帰り道。
荷馬車が街道を登っていく。車輪が軋み、馬の蹄が石を踏む音がする。
私は、懐の証明書に触れながら、口を開いた。
「トビアスさん」
「……トビアスでいい」
「では、トビアス。——契約を、結びませんか」
トビアスが、ちらりとこちらを見た。
「宿の修繕。私一人では無理です。あなたの技術が必要です。報酬は、修繕が終わって宿が動き出したら、売上の一部から払います。それまでは、食事と寝床を提供します」
トビアスは、何も言わなかった。
私は続けた。
「役割分担を決めたい。帳簿と交渉は私がやります。修繕はあなた。——対等な契約です」
沈黙が続いた。
私は、不安になった。断られるだろうか。条件が悪いだろうか。
「……了解」
トビアスが言った。
短い。けれど、それだけだった。
「……それだけ?」
「……何を言えばいい」
「普通はもう少し、条件を確認したり——」
「……あんたが帳簿をやる。俺が直す。飯と寝床がある。——それでいい」
私は、呆れた。呆れたけれど、笑ってしまった。
「あなた、いつもそんなに黙ってるの?」
「……必要なことは言う」
「今のは必要なこと?」
「……どうだろう」
また沈黙。
私は鞄から帳面と羽ペンを取り出した。
「では、契約書を書きます。簡単なものですが」
荷馬車の揺れる中、膝の上で契約の内容を書き留める。
役割分担。報酬の支払い方法。期間は、宿が「泊まれる状態」になるまで。
「署名を」
帳面とペンを差し出すと、トビアスは手綱を片手に持ち替え、ペンを受け取った。
その時、私は彼の手を見た。
傷だらけだった。古い傷、新しい傷。指の関節には胼胝がある。爪の間には、木くずが挟まっていた。
職人の手だ。何年も、何十年も、道具を握り続けてきた手。
「……大丈夫?」
思わず、声が出た。
トビアスは、手を見た。
「……仕事の跡だ」
それだけ。
けれど、私はその手から目が離せなかった。
この人は、この手で、どれだけのものを直してきたのだろう。
トビアスが署名を終え、帳面を返してきた。
「……これでいいか」
「はい」
私も署名をして、帳面を閉じた。
契約成立。
荷馬車が峠を登っていく。宿が見えてきた。屋根を覆う幌布が、朝日を受けて光っている。
「……トビアス」
「……なんだ」
「さっきの男。知っているんでしょう」
トビアスは、前を向いたまま言った。
「……ダリウスの手下だ」
「ダリウス?」
「……この街道で商売をしている男だ。材木、日用品、宿場町への卸し。——あまり、良い噂は聞かない」
私は、その名前を覚えた。
ダリウス。
「なぜ、あの男は私の宿に来たの」
「……わからない。だが、権利書に難癖をつけるのは、あいつのやり方だ」
トビアスは、それ以上は言わなかった。
私も、聞かなかった。
今は、宿を直すことが先だ。
けれど、心のどこかに、小さな棘が刺さったような感覚があった。
荷馬車が宿の前で止まった。
幌布の下の屋根。傾いた扉。雑草に埋もれた庭。
「さて」
私は馬車を降り、宿を見上げた。
「始めましょうか」
トビアスは、道具袋を肩にかけ、頷いた。
「……ああ」
窓枠の、あのかすれた彫り文字が、朝日に照らされていた。
まだ読めない。けれど、いつか読める日が来る。
その日まで、ここで——。
「リーネ」
トビアスの声に、振り返った。
「……材木、明日買いに行く。ついてこい」
「——ついてこい、じゃなくて、一緒に行きましょう、でしょう」
「……一緒に行く」
「……まあ、いいわ」
私は小さく笑い、宿の扉を開けた。
埃っぽい空気。傾いた階段。割れた床板。
やることは、山ほどある。
けれど、一人ではない。
それが、少しだけ——心強かった。




