表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話 木っ端と釘と、黙った男

朝靄がまだ残る中、男は宿の前に立っていた。


四十過ぎに見える。恰幅が良く、着ているものは上等だが、目つきが悪い。笑っているのに、笑っていない顔だった。


「おはよう、お嬢さん。この宿の権利書——本物かね?」


私は扉を背にしたまま、一歩も動かなかった。


「……どういう意味ですか」


「いや、なに。この宿の元の持ち主、借金を残して死んだって話でね。権利書があっても、借金が残ってりゃ無効だ。そういうこともあるんじゃないかと思ってさ」


男はにやにやと笑いながら、一歩近づいた。


私は、動かなかった。


借金。ヘルマンの借金。父からは聞いていない。けれど、十年前のことだ。父が知らない事情があっても不思議ではない。


——いや、待て。


私は男の顔を見た。


「根拠は?」


「あん?」


「借金が残っているという根拠です。書類はありますか。誰が、いつ、いくら貸したのか。返済の記録は。ヘルマンの死後、誰がその債務を引き継いだのか」


男の笑みが、わずかに固まった。


私は続けた。


「それらがなければ、あなたの言葉は噂に過ぎません。——そして、権利書の真贋を判断するのは、あなたではありません」


「……なんだと」


「登記所で原本と照合すれば、すべてわかります。ご一緒にいかがですか?」


男の目が、ちらりと泳いだ。


私は、確信した。この男は、根拠がない。脅せば引くと思って来たのだ。


「そんな面倒なことを——」


「面倒ではありません。正式な手続きです。私の権利書が偽物だと主張するなら、公的な場で決着をつけましょう」


沈黙が落ちた。


男の顔から、笑みが消えた。代わりに、苛立ちが浮かぶ。


その時、背後から車輪の音がした。


馬のいななき。荷馬車の軋み。


振り返ると、トビアスが馬車を降りるところだった。


男を見て、トビアスの目が細くなった。何かを見定めるような目。けれど、何も言わない。


ただ、私の隣に来て、立った。


二対一。


男は舌打ちをした。


「……覚えておけ」


それだけ言って、男は街道を戻っていった。足音が遠ざかり、やがて消える。


私は、息を吐いた。


「……ありがとう」


トビアスは、何も言わなかった。ただ、男が消えた方向を見ていた。


「あの男、知っていますか」


「……後で話す」


短い言葉。けれど、何かを知っている目だった。


「まず、登記所に行く」


私は言った。


「権利書の正当性を、公的に証明しておきたい」


トビアスは、私を見た。


「……乗れ」


荷馬車の御者台を顎で示す。


私は頷き、馬車に乗り込んだ。


登記所は、峠から街道を少し下った宿場町にあった。


雨上がりの朝。空気はまだ冷たく、吐く息が白い。荷馬車が石畳を揺れながら進む。トビアスは黙って手綱を握り、私は隣で権利書を握りしめていた。


宿場町に入ると、朝市の準備が始まっていた。材木を積んだ荷車が通り、職人たちが声をかけ合っている。木の匂いがする。切りたての、新鮮な木材の匂い。


登記所は、町の中心にある石造りの建物だった。


「待っていてください」


「……いや」


トビアスは馬車を降り、私の後について来た。


「……何かあったら、面倒だ」


何かあったら。さっきの男のことだろうか。


私は頷き、登記所の扉を開けた。


受付には、初老の男性が座っていた。眼鏡をかけ、帳面を開いている。


「——権利書の原本照合をお願いしたいのですが」


私が権利書を差し出すと、男性はそれを受け取り、丁寧に広げた。


「ヘルマン・ザイツ名義の……峠の宿ですか。少々お待ちを」


男性は奥の書庫に消え、しばらくして分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。


帳簿を開き、権利書と照合する。私は息を詰めて見守った。


「——間違いありません」


男性が言った。


「この権利書は正式に登記されています。ヘルマン・ザイツ氏から、クラウス・ヴェストリア氏への譲渡も記録されています。そしてヴェストリア氏から、リーネ・ヴェストリア嬢への譲渡が——これは先日届け出がありましたね」


父が、手続きをしておいてくれたのだ。


「借金の記録は……」


「ありません」


男性は帳簿を指さした。


「ヘルマン・ザイツ氏は、亡くなる三年前にすべての借金を清算しています。ここに記録があります。この宿には、一切の負債は残っておりません」


私は、目を閉じた。


「……ありがとうございます」


「証明書が必要でしたら、発行できますよ」


「お願いします」


手数料を払い、正式な証明書を受け取った。権利書と共に、懐にしまう。


これで、誰が何を言おうと、証拠がある。


登記所を出ると、空が少し明るくなっていた。雲の切れ間から、薄い日差しが差している。


「……終わったか」


トビアスが言った。


「はい。これで、あの男が何を言っても——」


「……言わせない」


短い言葉。けれど、そこには静かな力があった。


私は、少しだけ笑った。


「……ありがとう」


トビアスは、何も言わなかった。ただ、荷馬車に向かって歩き始めた。


帰り道。


荷馬車が街道を登っていく。車輪が軋み、馬の蹄が石を踏む音がする。


私は、懐の証明書に触れながら、口を開いた。


「トビアスさん」


「……トビアスでいい」


「では、トビアス。——契約を、結びませんか」


トビアスが、ちらりとこちらを見た。


「宿の修繕。私一人では無理です。あなたの技術が必要です。報酬は、修繕が終わって宿が動き出したら、売上の一部から払います。それまでは、食事と寝床を提供します」


トビアスは、何も言わなかった。


私は続けた。


「役割分担を決めたい。帳簿と交渉は私がやります。修繕はあなた。——対等な契約です」


沈黙が続いた。


私は、不安になった。断られるだろうか。条件が悪いだろうか。


「……了解」


トビアスが言った。


短い。けれど、それだけだった。


「……それだけ?」


「……何を言えばいい」


「普通はもう少し、条件を確認したり——」


「……あんたが帳簿をやる。俺が直す。飯と寝床がある。——それでいい」


私は、呆れた。呆れたけれど、笑ってしまった。


「あなた、いつもそんなに黙ってるの?」


「……必要なことは言う」


「今のは必要なこと?」


「……どうだろう」


また沈黙。


私は鞄から帳面と羽ペンを取り出した。


「では、契約書を書きます。簡単なものですが」


荷馬車の揺れる中、膝の上で契約の内容を書き留める。


役割分担。報酬の支払い方法。期間は、宿が「泊まれる状態」になるまで。


「署名を」


帳面とペンを差し出すと、トビアスは手綱を片手に持ち替え、ペンを受け取った。


その時、私は彼の手を見た。


傷だらけだった。古い傷、新しい傷。指の関節には胼胝がある。爪の間には、木くずが挟まっていた。


職人の手だ。何年も、何十年も、道具を握り続けてきた手。


「……大丈夫?」


思わず、声が出た。


トビアスは、手を見た。


「……仕事の跡だ」


それだけ。


けれど、私はその手から目が離せなかった。


この人は、この手で、どれだけのものを直してきたのだろう。


トビアスが署名を終え、帳面を返してきた。


「……これでいいか」


「はい」


私も署名をして、帳面を閉じた。


契約成立。


荷馬車が峠を登っていく。宿が見えてきた。屋根を覆う幌布が、朝日を受けて光っている。


「……トビアス」


「……なんだ」


「さっきの男。知っているんでしょう」


トビアスは、前を向いたまま言った。


「……ダリウスの手下だ」


「ダリウス?」


「……この街道で商売をしている男だ。材木、日用品、宿場町への卸し。——あまり、良い噂は聞かない」


私は、その名前を覚えた。


ダリウス。


「なぜ、あの男は私の宿に来たの」


「……わからない。だが、権利書に難癖をつけるのは、あいつのやり方だ」


トビアスは、それ以上は言わなかった。


私も、聞かなかった。


今は、宿を直すことが先だ。


けれど、心のどこかに、小さな棘が刺さったような感覚があった。


荷馬車が宿の前で止まった。


幌布の下の屋根。傾いた扉。雑草に埋もれた庭。


「さて」


私は馬車を降り、宿を見上げた。


「始めましょうか」


トビアスは、道具袋を肩にかけ、頷いた。


「……ああ」


窓枠の、あのかすれた彫り文字が、朝日に照らされていた。


まだ読めない。けれど、いつか読める日が来る。


その日まで、ここで——。


「リーネ」


トビアスの声に、振り返った。


「……材木、明日買いに行く。ついてこい」


「——ついてこい、じゃなくて、一緒に行きましょう、でしょう」


「……一緒に行く」


「……まあ、いいわ」


私は小さく笑い、宿の扉を開けた。

埃っぽい空気。傾いた階段。割れた床板。


やることは、山ほどある。

けれど、一人ではない。

それが、少しだけ——心強かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ