第2話 街道の終わりに屋根のない宿
街道を歩き始めて、五日が経った。
乗合馬車を乗り継ぎ、途中からは徒歩で峠を目指した。早春の風は冷たく、日が暮れると外套を二重にしても寒さが染みた。宿場町で一泊し、翌朝また歩く。その繰り返しだった。
そして今、峠の分岐点に立っている。
街道が東と南に分かれる場所。道標の横に、目的の建物があった。
——あった、と言っていいのかどうか。
「……思ったより、ひどいわね」
声に出すと、現実が重くのしかかってきた。
二階建ての小さな宿。父の言葉通り、十年は誰も手を入れていないのだろう。屋根の一部が落ち、空が見えている。窓は板で塞がれ、庭は背丈ほどの雑草に埋もれていた。
壁には蔦が這い、玄関の扉は傾いている。
権利書を懐から取り出し、もう一度確認した。場所は間違いない。ここが、ヘルマンの遺した宿だ。
深呼吸をする。
諦めて戻る選択肢もあった。王都に帰り、父に頼んで別の道を探す。それも一つの手だ。
けれど。
「……まず、中を見る」
自分に言い聞かせるように呟き、傾いた扉を押した。
一階は、思ったより悪くなかった。
埃が積もり、蜘蛛の巣が張り、床板の一部は腐っている。けれど、柱と梁はしっかりしていた。壁に大きな穴はなく、基礎も傾いていない。
窓を塞いでいた板を一枚外すと、薄暗い室内に光が差し込んだ。
広さは十畳ほど。奥に竈があり、その隣に井戸へ続くらしい裏口がある。二階への階段は——上を見上げると、途中で折れていた。
「屋根と階段と、床板の一部。窓枠も直さないと」
声に出して整理する。領地で学んだ建築の知識を引っ張り出し、頭の中で優先順位をつけた。
屋根が最優先。雨が入れば、何もできない。
問題は、一人では無理だということだった。
窓枠に手を置くと、指先に何か引っかかった。見ると、古い彫り文字がある。かすれていて、読めない。
何が書いてあるのだろう。
考える間もなく、外から音がした。馬のいななきと、車輪の軋み。
誰かが来た。
宿の前に出ると、街道を荷馬車が通りかかるところだった。
幌のついた頑丈な馬車。荷台には木材や道具が積まれている。御者台に座っているのは、日に焼けた肌の男だった。黒い短髪、無表情。年は私より少し上か。
職人だ、と直感した。手に傷跡がある。胼胝も見える。
馬車が通り過ぎようとして——男がこちらを見た。
視線が合う。
私は、考える前に声を出していた。
「待ってください」
馬車が止まった。
男が振り返る。表情は変わらない。何を考えているのか、まったく読めなかった。
「……何か」
低い声。短い言葉。
私は宿を指さした。
「この建物の修繕を、依頼できますか」
男の視線が、宿へ移った。屋根の穴、傾いた扉、雑草に埋もれた庭。一通り見て、また私を見た。
「……あんたの持ち物か」
「はい。権利書があります」
懐から権利書を取り出し、見せた。男はそれを一瞥し——少しだけ、眉を動かした。
何かを考えているようだった。けれど、何を考えているのかはわからない。
「……急ぎの仕事がある」
断られる、と思った。
当然だ。見知らぬ女が、いきなり修繕を頼んできて、引き受ける理由がない。
けれど男は、空を見上げた。
西の空に、暗い雲が広がっている。雨雲だ。
「……屋根がないと、眠れないだろう」
それだけ言って、男は馬車を宿の前に寄せた。
「え——」
「応急処置だけだ。本格的な修繕は、また話を聞く」
男は荷台から幌布と縄を取り出し、宿に向かって歩き始めた。
私は、その背中を見ていた。
理由を聞くべきだろうか。なぜ急ぎの仕事を後回しにするのか。なぜ見知らぬ私を助けるのか。
けれど、聞いても答えは返ってこない気がした。
「……手伝います」
私は男の後を追った。
雨が降り始めたのは、作業を始めて半刻ほど経った頃だった。
「幌を押さえて」
男の短い指示に従い、私は屋根の端で幌布を押さえた。風が吹くたびに布が煽られ、体が持っていかれそうになる。
雨の匂いが強くなる。土と、埃と、濡れた木の匂い。
男は慣れた手つきで縄を結び、幌を固定していく。無駄な動きがない。何度もこういう作業をしてきたのだろう。
「——そっちを引け」
「はい」
泥濘で足を滑らせそうになりながら、縄を引いた。幌布がぴんと張る。
雨脚が強くなった。吐く息が白い。髪が濡れて顔に張り付く。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
屋根の穴が塞がるまで、あと少し。
「……もう一本」
男が縄を投げてきた。受け取り、結び目を作る。領地で農作業を手伝ったときに覚えた結び方が、役に立った。
最後の縄を固定し終えたとき、雨は本降りになっていた。
幌布が雨を弾く音がする。ばたばた、と不規則なリズムで。
「……終わった」
男が言った。
私は、自分の手を見た。泥だらけで、爪の間に土が入っている。令嬢の手ではなくなっていた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
一階に戻り、濡れた外套を脱いだ。
男は入口近くに座り、道具を片付けている。私は竈の前に座り、髪を絞った。水滴が床に落ちる。
雨音が、宿を包んでいた。
「……ありがとうございました」
私は言った。
男は顔を上げず、道具を拭きながら答えた。
「……仕事だ」
「まだ報酬の話もしていないのに」
「……後で聞く」
それだけ。
沈黙が落ちた。雨音だけが響く。
私は、聞かずにいられなかった。
「なぜ、急ぎの仕事を後回しに?」
男の手が止まった。
少しの間があって、男は私を見た。暗い灰色の目。表情は変わらない。
「……屋根がないと眠れない」
「それだけ?」
「……それだけ」
また沈黙。
私は、小さく笑った。
「……変な人」
「……そうか」
男は道具を袋に戻し、立ち上がった。
「明日、また来る。話を聞く」
「——待って。名前を聞いていない」
男は振り返った。
「……トビアス」
「私はリーネ。リーネ・ヴェストリア」
ヴェストリア、と言ったとき、男の——トビアスの目が、わずかに動いた気がした。
けれど、何も言わなかった。
「……明日」
それだけ言って、トビアスは雨の中へ出て行った。
荷馬車の幌が揺れ、馬が一声いななく。車輪の音が遠ざかっていく。
私は一人、雨音の中に残された。
窓枠の、かすれた彫り文字に目が行く。
まだ読めない。けれど、誰かがここに何かを刻んだのだ。
この宿を、最初に建てた誰か。あるいは、ヘルマン自身か。
「……ここから、始める」
呟いて、私は濡れた髪を結び直した。
明日、話をする。報酬を決め、修繕の計画を立てる。やることは山ほどある。
——その夜、私は埃っぽい床の上で、外套にくるまって眠った。
幌布を叩く雨音を聞きながら。
屋根がある。それだけで、眠れた。
翌朝。
雨は止んでいた。薄い朝日が、板の隙間から差し込んでいる。
私は起き上がり、扉を開けた。
——誰かが、宿の前に立っていた。
トビアスではない。
知らない男だ。太った中年の男が、にやにやと笑いながら、私を見ている。
「おはよう、お嬢さん。この宿の権利書——本物かね?」
朝の冷気が、急に鋭くなった気がした。




