表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/10

第2話 街道の終わりに屋根のない宿

街道を歩き始めて、五日が経った。


乗合馬車を乗り継ぎ、途中からは徒歩で峠を目指した。早春の風は冷たく、日が暮れると外套を二重にしても寒さが染みた。宿場町で一泊し、翌朝また歩く。その繰り返しだった。


そして今、峠の分岐点に立っている。


街道が東と南に分かれる場所。道標の横に、目的の建物があった。


——あった、と言っていいのかどうか。


「……思ったより、ひどいわね」


声に出すと、現実が重くのしかかってきた。


二階建ての小さな宿。父の言葉通り、十年は誰も手を入れていないのだろう。屋根の一部が落ち、空が見えている。窓は板で塞がれ、庭は背丈ほどの雑草に埋もれていた。


壁には蔦が這い、玄関の扉は傾いている。


権利書を懐から取り出し、もう一度確認した。場所は間違いない。ここが、ヘルマンの遺した宿だ。


深呼吸をする。


諦めて戻る選択肢もあった。王都に帰り、父に頼んで別の道を探す。それも一つの手だ。


けれど。


「……まず、中を見る」


自分に言い聞かせるように呟き、傾いた扉を押した。


一階は、思ったより悪くなかった。


埃が積もり、蜘蛛の巣が張り、床板の一部は腐っている。けれど、柱と梁はしっかりしていた。壁に大きな穴はなく、基礎も傾いていない。


窓を塞いでいた板を一枚外すと、薄暗い室内に光が差し込んだ。


広さは十畳ほど。奥に竈があり、その隣に井戸へ続くらしい裏口がある。二階への階段は——上を見上げると、途中で折れていた。


「屋根と階段と、床板の一部。窓枠も直さないと」


声に出して整理する。領地で学んだ建築の知識を引っ張り出し、頭の中で優先順位をつけた。


屋根が最優先。雨が入れば、何もできない。


問題は、一人では無理だということだった。


窓枠に手を置くと、指先に何か引っかかった。見ると、古い彫り文字がある。かすれていて、読めない。


何が書いてあるのだろう。


考える間もなく、外から音がした。馬のいななきと、車輪の軋み。


誰かが来た。


宿の前に出ると、街道を荷馬車が通りかかるところだった。


幌のついた頑丈な馬車。荷台には木材や道具が積まれている。御者台に座っているのは、日に焼けた肌の男だった。黒い短髪、無表情。年は私より少し上か。


職人だ、と直感した。手に傷跡がある。胼胝も見える。


馬車が通り過ぎようとして——男がこちらを見た。


視線が合う。


私は、考える前に声を出していた。


「待ってください」


馬車が止まった。


男が振り返る。表情は変わらない。何を考えているのか、まったく読めなかった。


「……何か」


低い声。短い言葉。


私は宿を指さした。


「この建物の修繕を、依頼できますか」


男の視線が、宿へ移った。屋根の穴、傾いた扉、雑草に埋もれた庭。一通り見て、また私を見た。


「……あんたの持ち物か」


「はい。権利書があります」


懐から権利書を取り出し、見せた。男はそれを一瞥し——少しだけ、眉を動かした。


何かを考えているようだった。けれど、何を考えているのかはわからない。


「……急ぎの仕事がある」


断られる、と思った。


当然だ。見知らぬ女が、いきなり修繕を頼んできて、引き受ける理由がない。


けれど男は、空を見上げた。


西の空に、暗い雲が広がっている。雨雲だ。


「……屋根がないと、眠れないだろう」


それだけ言って、男は馬車を宿の前に寄せた。


「え——」


「応急処置だけだ。本格的な修繕は、また話を聞く」


男は荷台から幌布と縄を取り出し、宿に向かって歩き始めた。


私は、その背中を見ていた。


理由を聞くべきだろうか。なぜ急ぎの仕事を後回しにするのか。なぜ見知らぬ私を助けるのか。


けれど、聞いても答えは返ってこない気がした。


「……手伝います」


私は男の後を追った。


雨が降り始めたのは、作業を始めて半刻ほど経った頃だった。


「幌を押さえて」


男の短い指示に従い、私は屋根の端で幌布を押さえた。風が吹くたびに布が煽られ、体が持っていかれそうになる。


雨の匂いが強くなる。土と、埃と、濡れた木の匂い。


男は慣れた手つきで縄を結び、幌を固定していく。無駄な動きがない。何度もこういう作業をしてきたのだろう。


「——そっちを引け」


「はい」


泥濘で足を滑らせそうになりながら、縄を引いた。幌布がぴんと張る。


雨脚が強くなった。吐く息が白い。髪が濡れて顔に張り付く。


それでも、手を止めるわけにはいかなかった。


屋根の穴が塞がるまで、あと少し。


「……もう一本」


男が縄を投げてきた。受け取り、結び目を作る。領地で農作業を手伝ったときに覚えた結び方が、役に立った。


最後の縄を固定し終えたとき、雨は本降りになっていた。


幌布が雨を弾く音がする。ばたばた、と不規則なリズムで。


「……終わった」


男が言った。


私は、自分の手を見た。泥だらけで、爪の間に土が入っている。令嬢の手ではなくなっていた。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


一階に戻り、濡れた外套を脱いだ。


男は入口近くに座り、道具を片付けている。私は竈の前に座り、髪を絞った。水滴が床に落ちる。


雨音が、宿を包んでいた。


「……ありがとうございました」


私は言った。


男は顔を上げず、道具を拭きながら答えた。


「……仕事だ」


「まだ報酬の話もしていないのに」


「……後で聞く」


それだけ。


沈黙が落ちた。雨音だけが響く。


私は、聞かずにいられなかった。


「なぜ、急ぎの仕事を後回しに?」


男の手が止まった。


少しの間があって、男は私を見た。暗い灰色の目。表情は変わらない。


「……屋根がないと眠れない」


「それだけ?」


「……それだけ」


また沈黙。


私は、小さく笑った。


「……変な人」


「……そうか」


男は道具を袋に戻し、立ち上がった。


「明日、また来る。話を聞く」


「——待って。名前を聞いていない」


男は振り返った。


「……トビアス」


「私はリーネ。リーネ・ヴェストリア」


ヴェストリア、と言ったとき、男の——トビアスの目が、わずかに動いた気がした。


けれど、何も言わなかった。


「……明日」


それだけ言って、トビアスは雨の中へ出て行った。


荷馬車の幌が揺れ、馬が一声いななく。車輪の音が遠ざかっていく。


私は一人、雨音の中に残された。


窓枠の、かすれた彫り文字に目が行く。


まだ読めない。けれど、誰かがここに何かを刻んだのだ。


この宿を、最初に建てた誰か。あるいは、ヘルマン自身か。


「……ここから、始める」


呟いて、私は濡れた髪を結び直した。


明日、話をする。報酬を決め、修繕の計画を立てる。やることは山ほどある。


——その夜、私は埃っぽい床の上で、外套にくるまって眠った。


幌布を叩く雨音を聞きながら。


屋根がある。それだけで、眠れた。


翌朝。


雨は止んでいた。薄い朝日が、板の隙間から差し込んでいる。


私は起き上がり、扉を開けた。


——誰かが、宿の前に立っていた。


トビアスではない。


知らない男だ。太った中年の男が、にやにやと笑いながら、私を見ている。


「おはよう、お嬢さん。この宿の権利書——本物かね?」


朝の冷気が、急に鋭くなった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ