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婚約破棄された令嬢は街道の荒れ宿を直しながら旅をする  作者: 九葉(くずは)


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第10話 言わない約束と、次の街道

登記所の扉は、重かった。


押し開けると、埃っぽい空気が鼻をついた。窓から差し込む光が、床の木目を照らしている。奥の執務机に、領主代官が座っていた。白髪交じりの髭、鋭い目。その隣に、ダリウスが立っている。


私は一歩、前に出た。


「リーネ・ヴェストリアです。お呼びに応じて参りました」


代官が頷いた。


「座りなさい。——そちらの男は」


「トビアス。私が雇った修繕職人です。証人として同席を願います」


代官は眉を上げたが、反対はしなかった。ダリウスが舌打ちするのが聞こえた。


私は、懐から行動記録帳を取り出した。


十年分の記録。日付、場所、行動、支出。全てが揃っている。


「まず、峠の宿の権利について。この宿は、ヘルマン・ツィンマー氏から正式に譲渡されたものです。権利書はこちら。登記所の原本と照合済みです」


代官が書類を受け取り、確認した。頷く。


「次に、ダリウス・ペイン氏による妨害行為について」


ダリウスの顔が強張った。私は続けた。


「第一に、権利書への難癖。先日、ダリウス氏の手下が宿を訪れ、権利書を偽物だと主張しました。しかし、登記所での照合により、正当性は証明されています」


「第二に、材木市での脅迫。ダリウス氏は私に対し、『この宿を潰してやる』と発言しました。日時と場所は記録にあります」


「第三に、野犬の追い立て。宿の周辺で野犬被害が急増しましたが、現場から獣脂を使った誘引の痕跡が見つかりました。これは自然発生ではなく、人為的な妨害です」


私は、羊飼いたちからの連名書状を差し出した。


「近隣の羊毛村ヴォルカの住民も、同様の被害を受けています。彼らの証言がこちらに」


代官が書状を読んだ。長い沈黙。


ダリウスが口を開いた。


「でたらめだ。証拠がない。獣脂など、誰でも使う」


「では、なぜ被害が急増したのですか」


私は静かに言った。


「ヘルマン氏の死後、この宿が空き家だった十年間、野犬被害はほとんど報告されていません。私が権利を継いだ途端に増えた。偶然でしょうか」


ダリウスは黙った。


トビアスが、初めて口を開いた。


「俺はこの街道で十年以上、仕事をしてきた。ダリウスの商会が、宿場の権利を買い叩いているのは知っている。帳簿がおかしいって噂も、商人の間じゃ有名だ」


代官がトビアスを見た。


「証言できるか」


「できる。必要なら、他の商人も呼べる」


沈黙。


代官が立ち上がった。


「ダリウス・ペイン。貴殿の商会について、正式な調査を行う。帳簿の提出を命じる。拒否すれば、王都の裁判所に報告する」


ダリウスの顔が、蒼白になった。


私は何も言わなかった。勝ち誇る必要はない。記録と手順で、やるべきことをやっただけだ。


帰り道、街道は春の風に満ちていた。


荷馬車が軋む音。埃っぽい空気。遠くで、鳥が鳴いている。


トビアスは何も言わなかった。私も黙っていた。


「勝った」とは言わなかった。「終わった」とも。


ただ、歩いた。並んで、同じ速さで。


宿が見えてきた頃、トビアスがぽつりと言った。


「腹、減ったな」


私は笑った。


「帰ったら、何か作る」


それだけで、十分だった。


宿に戻り、私は棚の奥から古い筒を取り出した。


ヘルマンの遺品。父が一緒に預けてくれたものだ。中には、手描きの地図が入っていた。


広げると、東部街道の全体図が現れた。峠の宿に印がついている。そして、その先に——もう二つ、印があった。


「他にも、荒れた宿があるのか」


トビアスが覗き込んだ。私は頷いた。


「ヘルマンさんは、若い頃に街道沿いの宿を何軒か手に入れたらしい。でも、手が回らなくて放置していた」


地図には、小さな文字が添えられていた。


「誰かが継いでくれるなら——」


続きは滲んで読めなかった。けれど、意味は分かった。


私は地図を畳み、窓辺に立った。


夕暮れの光が、窓枠の彫り文字を照らしていた。「ここから始めた——H・Z」。ヘルマンの言葉。そして今は、私の言葉でもある。


「次は、どこへ行く?」


私は振り向かずに聞いた。


背後で、トビアスが立ち上がる気配がした。


「お前が決めろ」


短い言葉。けれど、その中に、全部が詰まっていた。


一緒に行く、とは言わない。ついてくる、とも言わない。ただ、「お前が決めろ」と。


私は笑った。声には出さず、口の端だけで。


窓の外、街道が夕日に染まっていた。遠くに山並みが見える。その向こうに、次の宿がある。


「——決めた」


私は地図を手に取った。


次の目的地に、指を置く。


トビアスは何も言わなかった。ただ、荷物をまとめ始めた。


窓枠の彫り文字が、最後の光を受けて輝いた。


ここから始めた。


そして、ここから続いていく。


夕暮れの風が、開いた窓から吹き込んだ。


私は外套を羽織り、戸口に立った。振り返ると、宿の中が見えた。直した床、磨いた窓、火の消えた竈。


十日前、ここに来た時は、屋根さえなかった。


今は、違う。


「行くぞ」


トビアスの声。荷馬車が、もう外に出ている。


私は一度だけ、窓枠に手を触れた。


——ありがとう、ヘルマンさん。


声には出さなかった。言わなくても、届く気がした。


荷馬車が動き出した。


街道の先に、夕日が沈んでいく。


私は前を向いた。


次の宿が、待っている。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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