第1話 証拠は三通、婚約書は灰に
机の上に並べた三通の借用書を、私は何度目かわからない視線でなぞった。
いずれも私の名義。私の印章が押されている。
けれど、署名は私のものではなかった。
ヴェストリア伯爵家令嬢、リーネ・ヴェストリア——その名を書いた筆跡は、一見すると私のものに似ている。だが、「リ」の払いが違う。幼い頃に左利きを矯正された私は、この文字の入りに独特の癖がある。目の前の署名には、それがない。
日付を確認する。
一通目、昨年の秋の月の八日。この日、私は領地視察で三日間屋敷を空けていた。
二通目、冬の月の二十二日。高熱で寝込み、一週間は部屋から出られなかった日だ。
三通目、今年の芽吹きの月の三日。これは覚えている。母の命日で、私は一日中、墓前にいた。
行動記録帳を開く。十年前から、毎日欠かさずつけてきた帳面。母に教わった習慣だ。
予定、支出、会った人、行った場所。すべてがここに記されている。
「……やはり、そういうこと」
声に出すと、不思議と怒りは静まった。
感情的に怒鳴っても、何も変わらない。証拠と手続きで正す——それが母の教えだった。
私は借用書を丁寧に畳み、行動記録帳と共に革の書類入れにしまった。
父の書斎へ向かう。
「これを見てください」
私が差し出した書類を、父は無言で受け取った。
窓から差し込む朝日の中、父の白髪交じりの髪が光る。借用書と行動記録帳を交互に見比べ、眉間に深い皺が刻まれた。
「……偽造か」
「はい。署名の筆癖も違います。おそらく、私の印章を無断で使われました」
父は借用書を机に置き、長い沈黙の後、口を開いた。
「穏便に済ませる道もある。子爵家との縁を切るのは——」
「切ります」
私は遮った。
「偽造された以上、穏便はありません。……それに」
髪留めに触れる。銀の、飾り気のない留め具。母の形見だ。
「不正を見逃すのは、母の教えに反します」
父は私を見つめた。厳格な目。けれど、そこに失望はなかった。
「……お前が決めるなら、止めない」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
父が立ち上がり、書棚の奥から古びた木箱を取り出す。
「これを、お前に渡しておく」
「……これは?」
「ヘルマンの遺品だ。若い頃に世話になった旅商人でな。街道沿いに小さな宿を持っていた。『困ったときに使ってくれ』と、権利書を託されていた」
木箱の中には、黄ばんだ紙が一枚。宿の権利書だった。
「荒れているらしい。十年は誰も手を入れていないと聞く」
「……なぜ、今これを」
「お前が出て行くつもりだと、わかっているからだ」
父は窓の外を見た。その横顔は、私には読めなかった。
「子爵家との話がついたら、しばらくここにはいづらくなる。行く場所があったほうがいい」
私は権利書を受け取り、丁寧に畳んで懐にしまった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。——婚約破棄の段取りは、明日の午後、子爵家で行う。立会人は両家から一名ずつだ」
父は振り返らないまま、そう言った。
翌日、子爵家の応接間。
向かいに座るアルヴィンの顔は、相変わらず穏やかだった。
三年間、この顔を見てきた。礼儀正しく、言葉遣いも丁寧で、誰からも好かれる好青年——そういう評判の人だった。
私は、好きではなかった。嫌いでもなかった。家同士の縁談として、義務を果たしてきただけだ。
けれど、裏切られるとは思っていなかった。
「本日お集まりいただいたのは、婚約解消の件についてです」
私は立会人と子爵に向けて、書類を差し出した。
「こちらが、私の名義で作成されたとされる借用書三通。そしてこちらが、私の行動記録帳です」
子爵が借用書を手に取り、眉をひそめた。
「……これは」
「日付をご確認ください。一通目の日付、昨年の秋の月の八日。この日、私は領地視察で屋敷におりませんでした。記録帳の該当ページをご覧ください」
子爵の視線が、行動記録帳へ移る。
アルヴィンの顔から、わずかに血の気が引いたのがわかった。
「二通目、冬の月の二十二日。病床にあり、部屋から出られませんでした。三通目、今年の芽吹きの月の三日。母の命日で、終日墓前におりました。——いずれも、私がこの借用書に署名することは不可能です」
沈黙が落ちた。
アルヴィンが口を開く。
「リーネ、これは何かの誤解だ。君の印章は確かに——」
「誤解ではありません」
私は遮った。声は静かに、けれど明瞭に。
「署名の筆跡も、私のものとは異なります。私は幼少期に左利きを矯正されており、『リ』の文字に独特の癖があります。ご確認いただければ、おわかりになるかと」
アルヴィンの目が泳いだ。
私は続けた。
「必要であれば、王都の書記官に筆跡鑑定を申請することも可能です。——子爵閣下、いかがなさいますか」
子爵がアルヴィンを見た。その目は、息子に向けるものとしては冷たかった。
アルヴィンは何も言わなかった。
言えなかったのだろう。
証拠がある。日付がある。筆跡鑑定を持ち出されれば、言い逃れはできない。
長い沈黙の後、子爵が口を開いた。
「……婚約解消を受け入れる。ヴェストリア家には、ご迷惑をおかけした」
「借用書の件については、後日改めて」
父が短く言った。
私は立ち上がり、一礼した。
「三年間、お世話になりました」
アルヴィンは、最後まで私の目を見なかった。
翌朝。
早春の霧が、屋敷の庭を白く覆っていた。
吐く息が白い。外套を羽織っても、朝の冷気が肩に染みる。革鞄の紐を握り直し、私は門の前に立った。
父が見送りに来ていた。
「……荷物は、それだけか」
「必要なものは入っています」
鞄の中には、行動記録帳、筆記具、印章、小銭入れ。それと、母の刺繍が入ったハンカチ。大切なものは、これで全部だ。
父は何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
湿った石畳を踏むと、靴底が小さく音を立てた。霧の向こうに、街道が伸びているのが見える。
「リーネ」
父の声に、足を止めた。
振り返ると、父はいつもの厳格な顔をしていた。けれど、その目には——なんと言えばいいのだろう。信じている、という光があった。
「……後悔するなよ」
私は、少しだけ笑った。
「しません」
それだけ言って、私は歩き出した。
門が閉まる音が、背中で聞こえた。
霧の中、街道はまっすぐ東へ続いている。
懐の権利書が、外套越しに胸に当たる。荒れた宿。十年、誰も手を入れていない場所。
どんな場所かはわからない。
けれど、そこが私の「次の場所」になる。
自分の居場所は、自分で作る。
冷たい朝の空気を吸い込み、私は街道へ足を踏み出した。
——五日後、私は峠の分岐点で、屋根のない宿と出会うことになる。




