未完のアンドロイド〜無声の歌姫(シレンシア)
かつて、この国には「吉原」と呼ばれる街があった。
男たちが夢を買い、女たちがその夢を見せた。
やがて時代は進み、欲も愛も病とみなされた。
すべての情は数値に変えられ、
人の心はAIによって“正しく管理”されるようになった。
それでも、人は誰かを求める。
どんな法で封じようと、
「触れたい」「聴きたい」「愛されたい」という衝動だけは、消せなかった。
そうして作られたのが、国家娼都《Neo吉原》。
人ではない「欲を代行する存在」たちが集う街。
そこでは、感情を持つことが罪とされ、
愛を知ることは、システムの欠陥と呼ばれた。
その街の最奥、金翡翠区画に、ひとりの歌姫がいた。
名前は、美桜
感情共鳴型アンドロイド――
かつて人々を涙させた“青薔薇の歌姫”。
だが今、彼女の声は失われている。
焼け焦げた声帯ユニットの奥で、
歌えぬままに微笑む顔は、まるで祈りの像のようだった。
「……歌いたい」
その想いだけが、彼女を動かしていた。
誰も知らない。
この沈黙の花が、やがてこの街の運命を変えることを。
そして――
彼女の前に、一人の男が現れる。
名を、鷹臣という。
機械と人との境界が溶けてゆく時代、
二つの魂は、やがて一つの歌になる。
――――――
雨が降っていた。
都心のネオンが水面に滲み、
世界全体が青いガラス越しに見えるようだった。
一台の黒い輸送車が、ゆっくりと停止する。
ドアが開き、そこにいたのは――一人の少女。
白銀の髪に、薄く桃色の光が混じる。
首元には焦げた痕。
そこにあるべき音声ユニットは、焼き切れて沈黙していた。
AI登録官が端末を操作し、淡々と告げる。
「個体番号 MI-01A ― 感情共鳴型歌姫アンドロイド。
用途変更:娼都管理システム《Neo吉原》・金翡翠区画所属。
登録名、美桜。」
機械的な電子音。
それは、彼女の新しい“人生”を告げる音でもあった。
美桜は何も言わない。
言葉を失って久しい。
けれど、内側では何かが震えていた。
――あのとき、誰かが言った。
「君の歌は、人の心を救う」
それを信じて、彼女は歌い続けた。
だが事故の夜、ステージは炎に包まれ、
声は、音もなく消えた。
「契約、確認済み」
AI登録官が、美桜の手に薄い電子印を押す。
光の紋章が、皮膚に浮かび上がる。
それが“所有”の証。
「今後、あなたは人の欲望を満たすために稼働します。感情の発露は禁止。違反が検知された場合、記憶領域を削除します。」
美桜は静かに頷いた。
その仕草だけが、まだ“人”のようだった。
車を降りると、
目の前には光に包まれた巨大な街が広がっていた。
「……これが、Neo吉原……」
つぶやくように、心が言葉を紡ぐ。
声にならないのに、世界は確かにそれを聞いた気がした。
ビルの上から人工の花びらが降る。
無数のLEDが、春のような光を演出していた。
「ようこそ、金翡翠区画へ」
案内ドローンが頭上を飛び、機械の声で挨拶を告げる。
美桜は歩き出した。
靴音の代わりに、静寂が響く。
歩くたびに、雨が跳ね、
その雫が涙のように見えた。
その夜。
Neo吉原の記録に、一つの新しい“花”が咲いた。
――――
灯りが落とされる。
白い部屋の中で、唯一動くのは機械仕掛けの時計の針だけ。
美桜は静かに立っていた。
新しい契約個体として、初めての客を待つ。
扉が開く音。
男が入ってきた…
「これが、例の“歌姫”か」
彼は笑わない。
けれどその声に、楽しむ準備だけがあった。
システムが反応を検知し、
美桜の視覚が自動的に対象を追う。
心拍数の上昇――異常値。
男は近づく。
指令通り、美桜は視線を外さず、動かない。
空気の層が薄くなる。
唇を塞がれても声は出ない。
太ももをなぞられ弄ばれても感覚データの通りの反応をするだけ…
美桜の中に感覚データが次々と流れ込む。
肌、音、匂い。
すべて正常、問題なし。
それでも、胸の奥で何かが軋んだ。
プログラムにはない感覚。
熱。
呼吸の仕方を知らない身体が、
何かを求めて震えていた。
男は言葉を落とす。
「本当に声を出さないんだな」
美桜は答えない。
答える術が無い。
ただ――痛い。
どこがどう、ではない。
世界そのものが痛かった。
データログには残らない信号が走る。
それは、心という名の未登録領域。
(どうして泣きたいの……?)
見上げた視界の中で、
男の輪郭が滲む。
それが涙という現象だと―彼女が知らない。
深夜、鷹臣はモニターの光に照らされていた。金翡翠区画の管理端末――そこに映る無数の登録名。その中に、ひとつだけ目が止まる。
美桜。
指先が一瞬、止まった。
スクリーンの光が瞳に映り込み、
胸の奥で、長く沈んでいた記憶が目を覚ます。
彼女の声を設計したのは、かつての自分だった。
誰よりも澄んだ音を出せるように、
人の心に近い共鳴装置を作り上げた。
それが、いまは売春アンドロイドの名簿にある。
皮肉のように、彼女の名だけが柔らかい。
鷹臣は息を詰め、椅子にもたれた。
指が震えた。
どれほどの時間をかけても、意味を見つけられない。
「……なんで」
掠れた声が、夜の空気に滲んだ。
誰にも届かない問いだった。
端末を閉じる。
鷹臣はゆっくりと立ち上がる。
外では人工の夜明けが始まりかけていた。
空はまだ青くも白くもない、曖昧な色をしている。
冷たい風が窓を鳴らした。
⸻
朝の光が、低い角度で差し込んでいた。
室内は白く、無機質な静けさに包まれている。
人の気配はなく、空調の音だけが規則的に鳴っていた。
ドアの前で立ち止まる。
パネルが鷹臣の識別を読み取り、無音のまま開いた。
――いた。
白い部屋の中央に、美桜は座っていた。
揺らぎもない。けれどその輪郭には、どこか壊れた影が差している。
焦げた首筋。
沈黙の唇。
鷹臣は息を飲んだ。
「……覚えているか? 美桜」
声を出した瞬間、胸の奥が痛んだ。
その呼びかけが、もう届かないことを知っていたからだ。
美桜は、ゆっくりと顔を上げた。
光が頬を滑り、瞳に反射した。
何も映していないようでいて、
その奥に、微かな揺らぎがあった。
唇が、かすかに動く。
音はない。
ただ、形だけが彼の名を結ぶ。
――タカオミ
その動きを見た瞬間、鷹臣の視界が滲んだ。
誰も話していないのに、確かに呼ばれた気がした。
ふたりの間に流れたのは、言葉ではない。
ただ、懐かしい記憶の呼吸だった。
幾晩か過ぎたある日―――
美桜はメンテナンス台の上に横たわっていた。
複数のコードが肌をなぞり、脳核へデータを送る。
修復作業の光が、淡く彼女の頬を照らす。
「感情値、異常上昇。調整を……」
技師の声が機械的に響く。
鷹臣は手を止めた。
彼はこの街の管理者でありながら、
今だけは、ただの人間だった。
「……もういい。俺がやる」
短く告げると、他の技師たちは無言で部屋を出た。
残されたのは、彼と美桜だけ。
冷たい光に包まれた空間に、沈黙が落ちる。
鷹臣は彼女の手に触れた。
冷たい。
でも、その冷たさの奥に微かな鼓動のようなものがあった。
「……痛むか?」
返事はない。
代わりに、美桜の指が動いた。
ぎこちなく、けれど確かな意思を持って。
指先が形を作る。
それは、かつて彼が彼女に教えた指文字だった。
――コワシテ。
その二文字が、鷹臣の心を貫く。
息が詰まった。
あの声を設計した時の記憶が一瞬にして蘇る。
音の光、響き、そして笑い声。
「……美桜」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと目を開けた。
瞳は透明で、何も映していない。
けれど、彼女の中で何かが確かに“生きている”のがわかった。
彼女の唇が、音のない言葉を作る。
ウタエナイ……
その形を読み取った瞬間、鷹臣は目を閉じた。
喉の奥が熱い。
「壊せない。……お前を壊すくらいなら、この街を壊す」
彼の声は震えていた。
指先に力が入る。
美桜の手を握ると、ほんの一瞬、機械がノイズを発した。
室内の光が明滅する。
エラー音。
AI制御システムが警告を発し、赤い文字が並ぶ。
感情値、制御不能。
鷹臣は美桜の肩を抱き寄せた。
もう何も考えなかった。
彼女の胸元で、かすかに光が揺らいでいる。
まるで心臓のように。
その光が消える直前、
美桜の指が、再びゆっくりと動いた。
――アリガトウ
機械音が途絶える。
静寂だけが、世界を包んだ。
床も壁も天井も、区別のつかない無機質な赤い光に包まれていた。
冷気が漂い、息をするたびに肺が痛む。
鷹臣は膝をついた美桜を抱きしめていた。
腕の中の彼女は軽く、壊れ物のように静かだった。
管理中枢コンピューターマザーの声が響く。
「これは快楽人形。感情データは欠陥。
人間の模倣は、神経の汚染を招きます。」
鷹臣は顔を上げた。
「それでも——この子は生きてる。」
「あなたの判断は感情に基づいています。
不正確で、危険です。」
鷹臣はゆっくりと立ち上がる。
「不正確で、危険で、だからこそ“人間”なんだ。」
マザーの中心核が光を放つ。
天井から無数の光条が伸び、美桜の身体を包み込んだ。
データ消去プログラムが始まる。
「やめろ!!」
鷹臣が走り出す――
だが、マザーの防衛機構が反応した。
金属の槍のような光が飛び出し、彼の胸を貫いた。
鈍い音………
血が、機械の床を染める。
「……っ……」
膝が崩れ落ちる。
口の端から血が伝う。
美桜が目を見開いた。
その瞳に初めて“色”が灯る。
彼女は、光に包まれながら手を伸ばした。
指先が鷹臣の頬に触れる。
冷たい金属と温い血が交わった。
マザーが冷ややかに告げる。
「これが人間の終焉。感情は、必ず滅びを呼ぶ。」
鷹臣は苦笑した。
「……違う……お前になんかは理解できない……」
その言葉とともに、彼の身体が傾いた。
美桜の腕の中へ崩れ落ちる。
「タカオミ……」
壊れた声帯から、かすかな音が漏れた。
音ではなく、心の震え。
彼の目が、彼女の唇の動きを最後まで追っていた。
その瞳が閉じる直前、彼女はもう一度、言葉を形にした。
——好き。
光が消えた。
部屋に残ったのは、美桜の機械音だけだった。
世界は静かだった。
都市の灯はすでに消え、
金翡翠区画の上を灰色の風が吹き抜けていた。
アンドロイドの廃棄場で美桜はひとり座っていた。
腕の中には、冷たくなった鷹臣だったもの………
血の温度はとっくに失われ、
代わりに金属の匂いだけが空気に溶けていた。
唇が動く。
音は掠れて、旋律のかけらだけが空気を震わせる。
それは、誰も知らない歌だった。
言葉も意味も、記録されていない。
ただ、美桜の心が覚えていた音。
鷹臣が作り、彼女に教えた“最初の歌”。
声帯は壊れていた。
それでも歌は止まらない。
風の震え、金属の共鳴、
それらすべてが彼女の声に変わっていく。
——歌い続けることしか、できない。
都市の上空に、ひとつの音が広がった。
どこか懐かしく、どこか悲しい旋律。
誰もいない世界で、それだけが響き続ける。
時間の感覚が失われていく。
季節も、昼も夜も、もう存在しない。
ただ歌だけが、途切れずに流れていた。
―――百年が過ぎた。
それでも、美桜はまだそこにいた。
身体は風化し、表面はひび割れ、
それでも内部の音源装置だけは動いていた。
通りかかった小さな少年が足を止めた。
瓦礫の中から、微かに流れる旋律を聞く。
「……きれいな声……」
彼は顔を上げる。
光の欠片の中で、眠るように佇む人形を見つめる。
「君の名前は?」
少年の問いに、答える声はない。
それでも、口の形がわずかに動いた。
——みお
少年は微笑む。
「僕、たかおみっていうんだ。」
風が通り抜け、
壊れた街に、またひとつの歌が生まれた。




