英雄は、死んだ。
――英雄は、死んだ。
戦場の若獅子、或いは英雄――リディウス・ド・リッヒェルト。
彼の名を知らぬ者は、隣国――カールネン王国には居ない。かつて、英雄と崇められ、幾多の戦場を駆け抜けた勇将。その剛胆なる戦いぶり、獅子のごとき咆哮は、敵軍に恐怖を刻み込み、味方には勝利の希望をもたらした。
彼は死んだ。
戦場には――骸さえ残らなかった。
三年前の冬、北の国境線を接するヴァルチェ皇国との戦いで、惜しくもその命を散らした。民は皆、嘆き悲しんだ。優秀な将を失った王国は、戦にも敗れ、国としての威信すら失いつつあった。リディウス亡き後、カールネン王国の軍は指導力を欠き、守勢に回ることを余儀なくされた。王都では反乱の兆しが燻り、諸侯たちは己の領地の安泰にしか興味を示さず、統治の秩序は徐々に崩れていった。
英雄の遺したものは――勝利でも、領地でもなかった。ただ彼の名と、語り継がれるべき伝説――そしてその「死」にまつわる謎だけだった。
なぜ骸が見つからなかったのか。
なぜ彼の剣だけが、血に濡れて戦場の中央に突き立てられていたのか。
――誰も、その答えを知らなかった。
人々は噂する。
――英雄はまだ、何処かで生きているのではないか。
◇ ◇ ◇
(英雄一人が消えただけで崩れる国など、元よりその程度でしかなかったのよ。)
毛足の長い毛布に包まるその人は、淡い栗色の髪を指に巻き付けながら、硝子窓の外を眺めていた。窓の向こうに広がるのは、この国の厳しい冬。降り積もる雪が、この街を白く染めている。
(雪の夜は好きよ。いつも静かなこの街が、さらに静かになるから。)
目を閉じれば、聞こえるのは自分の息遣いと鼓動――そして暖炉の薪が爆ぜる音だけ。街灯の柔らかな橙色が白の雪を照らし、その淡い光が空を柔らかく染めている。
「リディア。――ご要望のホットミルクだ。」
窓の向こうを見つめていたその人――リディアは桃色のマグを受け取り、温かなホットミルクを一口、また一口と運ぶ。
「ありがとう、グレヴ。貴方が作ってくれるホットミルクがいちばん好きなの。」
そう言ってリディアはグレヴに頬を寄せる。彼からは、蜂蜜の甘い香りがする。これが、彼のホットミルクの隠し味なのだ。
「君が死んで、早いもので三年か。」
リディアの向かいのソファに腰かけたグレヴは、何か遠い昔を思い出すように目を細めた。
「ええ、私もちょうど……そのことを思い出していたの。私は今でも、あの選択を後悔なんてしていないわ。」
――そう語る彼女こそが、かつて戦場にその名を轟かせた英雄リディウスだった。
リディアはホットミルクのマグを両手で包み込み、暖炉の火を見つめた。薪の爆ぜる音が、遠い戦場の記憶を否応なしに呼び起こす。鉄と鉄がぶつかり合う音、兵士たちの叫び声、そして――あの冬の夜、彼女がすべてを捨てた瞬間。
「あの夜、君が血と雪にまみれて俺の前に現れた時――俺は幽霊か何かを見ているのかと思ったよ。」
グレヴがソファの背に体を預け、ゆっくりと息を吐きながら言う。リディアの唇には、ほろ苦い笑みが浮かんでいる。
「幽霊、ね……。あながち間違いではないかもしれないわ。私はあの夜――リディウスを殺したのだから。戦場の英雄はそこで死んだわ。」血
そう語る彼女の柘榴色の瞳には、悔恨など一切映らない。
「あんな国のために、私が犠牲になる必要なんてなかったのよ。それに――遅かれ早かれ、あの国は滅んだわ。」
かつて――彼女は、彼女自身を理不尽に奪い取られ、隠され続けてきた。戦のために、王国の誇りのために、剣を握らされ、男として生きることを強いられた。
それが、リディア・フォン・リッヒェルトだった。
彼女は二十一年前、カールネン王国の名門、リッヒェルト侯爵家にその生を受けた。その名は、剣術と軍略において比類なき存在として知られていた。建国時から王国の武の頂点に立ち、幾度もの戦乱で国を守り抜いた――英雄の血筋だった。
彼女には、年の離れた二人の姉が居た。いちばん上の姉は既に成人し、他国へと嫁いだ。八つ違いの姉は、身体が弱く、屋敷の外に出ることすらままならない。
そして三人目に生まれたのが――リディアだった。
厄介なことに、王国では妾の子が家督を継ぐことは禁じられていた。どこか血の近いところから養子をもらおうとしても、男児が生まれた家は無かった。
武の頂点に君臨するリッヒェルト侯爵家において、その家名を女性が担うなどという、伝統と慣習に反する行為は到底許されないことだった。
――そもそも女である以上、リディアは剣を握ることすら許されなかった。
リッヒェルトは、国の盾であり、剣なのだ。そこに、個人の感情など邪魔なだけ――国が滅んでしまえば、元も子もない。父親であるグレゴール卿は長きに悩んだ末、リディアを男として育てることを決めたのだ。
王家に提出された書類には、生まれた赤子は男児であると記されていた。名を――リディウス・ド・リッヒェルトと。その名が公式の記録に刻まれた瞬間、彼女は「リディア」であることを奪われた。生まれながらにして背負うべき運命を定められ、選択の余地はなかった。
「もっと他に――方法はあったでしょうに。」
遠い過去を思い出すリディアの瞳に、影が落ちる。
侯爵家の別邸で、隠すようにして育てられた幼少期。伸びた髪を短く切り揃えられ、剣を握らせられた。成長によって体つきが変わると、胸と腰を締め付けて稽古に臨んだ。声を低くする薬を飲まされ、戦に出た。
いくら苦しくとも、弱音を吐くことは許されなかった。時に、自分の運命を呪った。部屋の隅で、声を殺して泣いた。
「あの時、貴方に逢えたことは……私の人生最大の幸運だった。」
「ああ。あの英雄が女だなんて、俺も最初は信じられなかった。」
リディアとグレヴの出会いは、戦場だった。ヴァルチェとカールネンの境界線、果てしなく広がる平原の中央で――それぞれの国の将として剣を交わらせたのだ。
「貴方は、本当に強かった。私のあの一撃を受けて無傷だった人間なんて、今まで誰一人としていなかったから。」
「それは俺だって同じだ。その細っこい腕で、俺の剣を正面から受け止めてみせた。……俺が興味を持つのも、当然だった。」
そう言ってグレヴは飲み切ったマグをサイドテーブルに置くと、立ち上がってリディアの隣に腰かけ、意地悪く笑う。
「覚えてるか?――あの夜。」
「忘れられるわけがないじゃない。……女だと見破られたあの屈辱を。」
リディアは苦笑を浮かべながら、マグを口元に運んだ。――ホットミルクはもう冷めかけていた。
「……あの夜、私の仮面が剥がれたのは、間違いなく貴方のせいよ。グレヴ。」
「光栄だな。君の秘密を最初に知れたのが俺だったってのは。」
グレヴはニッと笑いながら、リディアの肩に腕を回す。その仕草はどこか不器用で、けれど優しさに満ちていた。
「君、すごい睨んできたよな。俺が『お前、女だろ』って言った瞬間の目……本気で斬られるかと思った。」
「実際、斬ろうとしたわよ?本気で。」
リディアは肩をすくめて、小さく笑った。
あの夜――。
戦のさなか、二人は死闘の末に戦場の外れへと転がり込んだ。冬の戦は、天気さえもが敵だった。その夜は、酷い猛吹雪だった。足はとうに感覚を失い、視界は雪と血で真っ白に染まる。風の唸りは獣のようで、油断すればそのまま凍死すらあり得る状況だった。
このままでは二人とも凍死もあり得る状況で、グレヴは戦場にあるまじき申し出をした。
「一晩だけでも、剣を置こう。」と。
それは、敗者の戯言でも、勝者の慈悲でもない。ただ生き延びたいという、あまりに人間くさい欲望だった。
彼女――いや、彼として戦場に立っていたリディウスは、一瞬だけ構えた剣の刃を揺らがせた。
「冗談を。今さら情けをかけたつもりか?」
「違う。俺が死にたくないだけだ。」
グレヴは笑っていたが、その頬は凍えで引きつり、唇は紫に染まっていた。もう戦う力など、残っていなかったのだ。リディウスも、それを理解していた。自分もまた、立っていられるのが不思議なくらいだった。
「……場所を移そう。ここじゃあ、どちらが勝ってもどうせ死ぬ。」
「お、助かる。」
互いに剣は手放さぬまま、肩を貸し合うようにして、倒れた馬屋の廃墟へと向かった。かつては兵たちの馬が繋がれていたであろう木柵が、今や風雪を防ぐ壁代わりになる。狭く、湿ったその空間で、二人は肩を寄せ合った。焚き火などもちろん無い。ただ、わずかな体温を頼りに、夜を越えるためだけに。
「……その時、貴方が言ったのよね。『お前、女だろ』って。」
「前々から気付いてはいたんだ。骨格が、年頃の男のものじゃない。気付かないほうが馬鹿だと思ったよ。」
「そして私は――貴方に本当の名を教えた。どうかしていたのよ。寒さのせいだったのか、それとも……」
リディアの声は、徐々に細く、静かに暖炉の音に溶け込んでいった。
彼女の視線は火の揺らめきを捉えていたが、心はあの雪の夜に還っていた。吹きすさぶ風の音。凍える指先。だが、彼の胸に触れたあのときだけは、不思議と温かかった。
「……君は泣いてたよ、あの時。気づいてないと思ってた?」
グレヴの言葉に、リディアは目を見開いた。
「泣いて……ないわよ。絶対に。」
「嘘だな。君の睫毛に、雪じゃない何かが落ちていた。」
リディアはふっと笑って、マグカップを胸元に引き寄せた。もう冷たくなってしまったそれを、両手でぎゅっと包む。
「それでも、あの夜……リディアとして息ができた。それが、私のはじまりだったのかもしれない。」
グレヴは、彼女の言葉を黙って聞いていた。火の光が彼の瞳に反射して揺れる。戦場で見せた猛き獣のような眼差しとは違う、優しい、それでいて痛みを知る者の目だった。
「俺も……君とあの夜を過ごして、何かが変わった気がしたんだ。」
「変わった?」
「そう。戦いがすべてだった俺にとって、君は、初めて守りたいと思った存在だった。……それが、女だったとか、敵将だったとか、そんなことはどうでも良かった。だから、あんなことを君に申し出た。」
リディアは視線を落とした。雪の降る夜の静寂が、部屋に満ちていく。彼女はゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づく。外は白く覆われ、まるで過去の傷を隠してくれているようだった。
「それまでの私には、故郷を捨てるなんて考えはなかったし、リディアに戻りたいとも思わなかった。でも、あの時貴方に『俺の所に逃げてこないか?』って言われたとき、初めて選択肢が生まれたの。」
「きっと、俺たちは出逢うべくして出会ったんだ。君に残酷な選択をさせた事実を――俺は今でも後悔する時もある。」
グレヴはそう言って、立ち上がったリディアの背にそっと近づく。彼の足音は、暖炉の薪がはぜる音に紛れるほど静かだった。リディアは振り向かないまま、窓の外に視線を向けていた。雪は今も舞っている。あの夜のように、すべてを白く塗りつぶすように。
「……それでも、貴方は私に選ばせてくれた。生き方を、自分で選べるように。――貴方は、部屋の隅で泣いていた小さな私にも、手を差し伸べてくれた。」
「選ばせることしか、俺にはできなかった。だって君は……俺の知らないほどの孤独を背負ってた。だから、せめて――ひとつくらい、自分のために選んでほしかった。」
リディアの肩が小さく震えた。それが寒さのせいなのか、それとも――言葉にできない何かが胸を揺らしているのか、グレヴにはわからなかった。
だが次の瞬間、リディアはゆっくりと振り返った。まるで長い夢から目覚めるように、静かに。
「さっきも言ったけれど、私は……私の選択を後悔していない。それが例え祖国を滅ぼすことになると知っていたとしても。この静かな街に越してきて、貴方とふたりで生きていければ、それでいいの。」
リディアの瞳が揺れる。窓の外の白が、まるで彼女の心の内を映すように、淡く、けれど凛としていた。
「……それが罪だと理解している。私は、その罰を受ける覚悟がある。」
静かな声だった。けれどその言葉には、かつて戦場を駆け抜けた将の誇りと、ひとりの女としての決意が宿っていた。グレヴは、そんな彼女の姿をただ見つめていた。過去も、罪も、痛みも――すべてを背負って、なお微笑もうとするその横顔を。
「……君は強いな、リディア。」
「グレヴ、貴方が居るからこそよ。そうでなければ、立ってなんていられない。」
グレヴは小さく息を吐いて、彼女の頬にそっと手を伸ばす。冷え切った指先が、彼女の温もりに触れた瞬間、どこか安堵したように目を細めた。
「じゃあ、俺も強くあろう。君が選んだこの日々を、俺も守る。罪も過去も抱えたまま、君とここで生きる。」
リディアはその手に自分の手を重ねた。小さく、けれど確かなその温もりが、ふたりの距離を完全に溶かしていく。
窓の外では、雪が舞っていた。静かに、音もなく。ただ、あの夜とは違っていた。
それは終わりの雪ではなく――始まりを告げる雪だった。
◇ ◇ ◇
ヴァルチェの最北の小さな街には、ふたつの墓がある。
その墓標には彼らの名が刻まれている。
ひとつはかつてこの国の将を務めた男の名――グレヴ・ミヒェルトと。寄り添うように存在するもうひとつの墓には、彼の妻の名――リディア・ミヒェルトと。
かつて戦場をかけた英雄の名は、これからも歴史に残るのだろう。だが、彼の本当の名を知る者は、もう居ない。
彼女が何者であったのか――英雄だったのか、亡命者だったのか、それともただ一人の女だったのか。その答えは、雪に包まれたこの街の静寂の中に、そっと眠っている。
墓前には、毎年春の初めに白い花が供えられる。誰が置いていくのか――知る者は誰もいない。
けれどそれは――たしかにふたりの時間が、この地に根を下ろしていた証だった。