転校生(1)(睦月)
長い残暑が終り、ようやく朝晩に秋らしさを感じられるようになった9月下旬、俺は子午線の上に立っていた。
正確に言うと、市役所の住民課だ。
俺は船上睦月。中学一年生だ。
父の転勤で転居してきたので、その手続きで母と弟と共に来所したのだった。
父の異動日は10月1日だったが、住まいは決まっていたし、早くに新しい仕事を探したいという母親の希望で、俺と弟の皐月は、母とともに一足先に転勤先である関西の喜春市に引っ越してきた。
手続きは母親が行い、俺は弟と二人椅子に座って待っていた。隣の弟は携帯ゲーム機でシューティングゲームをしている。
父は技術職の国家公務員で、仕事上転校が多く、この前までは東京住まいだった。と言っても、東京23区ではなく、多摩地区の田舎の方だが。その前は仙台で、さらにその前は栃木、そしてその前は北海道、生まれに至っては静岡だ。
両親は単身赴任をしない主義なので、これからも父の都合であっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返すのだろう。
今回初めて耳にする地方都市の喜春市は、日本列島のほぼ真ん中にあり、温暖な気候で瀬戸内海に面していて、大阪へはJRを使えば1時間程度だし、明石海峡大橋を渡れば四国へもすぐに行ける、なかなか便利な立地条件だった。
父の勤務地は全国的にも有名な東隣りの神戸市なのだが、喜春市の方が子育て支援が充実しているらしく、喜春市に決めたらしい。あくまでも親の勤務の都合なので、両親の故郷とは関係はなかった。知り合いもいないが、転勤族なのでそれには慣れていて、俺も小学3年の弟の皐月も特に不安はなかった。
ただ、関西は初めてなので、テレビのお笑い番組ではなく、直に聞く関西弁がどんなのかはちょっと興味があった。
「せやからそうとちゃいますねん」
「わかりました。もう一度お調べしますね」
遠くに聞こえる住民の言葉は、テレビで見る関西出身のお笑い芸人たちと同じだ。市役所職員の方も、丁寧語だがイントネーションが違う。
方言は移ると言うが、転勤族だからか両親とも常に標準語だからか、未だかつて移ったことはない。しかし標準語とこれほど違うとは。
俺もうっかり、チャウチャウ犬を見て、「あれチャウチャウちゃうん?」とか口走ってしまう日が来るのだろうか…。
俺たちの引っ越し先は市の東側に位置する市役所よりも、JRの駅三つ分西側にあり、駅から南のJRの線路と平行に走る大きな国道との間に挟まれた宅地開発地域で、2階建てで4世帯が一体になった賃貸住宅だった。
宅地開発地域の住宅は主に一戸建てかハイツで、睦月の家から見て東、田園地帯との境目に高いマンションが建っていたが、それ以外には特に高い建物もなく、空が広く見えた。
引っ越し初日は家の片付けや市役所での手続きや制服の注文をして終わった。
翌日、俺は転入する中学校の下見と気分転換を兼ねて、荷物の整理の手を止めて、母から地図を借り、中学校の周りを歩いてみることにした。家から学校までは徒歩15分ぐらいらしいので、いい散歩になるだろう。弟の皐月を誘ったら、皐月が通う小学校は中学とは逆方向にあるからか、「ゲームするからいい」と断られてしまった。弟はゲーマーなのだ。
住宅地を南に向かってすぐに大きな国道に出る。そこから東に向かい、小川に架かる橋を渡りつつ10分ほど歩いていくと、転校先の左右田中学校が目に入った。国道に沿って建っている。国道を挟んで反対、南側にあるので信号を渡らなければならなかったが、赤だったので、信号を待ちながら周りを眺めていると、国道の北側と中学校の東西にため池があった。蓮らしき葉っぱが見える。レンコンの収穫時期はいつだっただろう。
北側を走るJRまではかなり距離があるが、その先には低めの丘と言ってもいいぐらいの山があった。
信号が変わったので渡ると、国道沿いにあるグラウンドで運動部員たちが部活に励んでいた。信号をわたってすぐにバスケットのゴールポストが見えたが、バスケ部ではなくバレー部がネットを張って練習をしていた。交互に使っているのだろうか?
そのまま南へ歩いていくとコミュニティセンターの表示があった。そのまま建物沿いに歩いていくと、南側にと左右田中学校という表示と正門があった。
地図ではさらに南に行けば海に出るようだったが、そこまでは行かず、陸上部らしき生徒たちが走る、ため池沿いをぐるりと周るだけに留めておいた。大体一周1kmぐらいだろうか。
家から学校までは平地で、途中にコンビニもスーパーもあったし、俺にとって新居の場所はなかなか良い立地と言えるだろう。母の話だと北部の山のあたりも校区らしく、そこからだと高低差もあるし30分近くかかりそうだった。前の学校も徒歩でそれぐらいあったので、そちらでも大丈夫だっただろうが、高低差があるのが大変そうだったので、今の家でよかったと思った。
次の日、9月の最終日の木曜日に、俺は左右田中学校へ転入することになった。母は弟について小学校に行き、俺は一人で中学校にむかった。事前に場所の確認はしていたし、転校には慣れていたので戸惑いはしなかった。
台風が来る予報がでていたが、大体このあたりは大きな被害はないらしく、今回も深夜に雨を降らせただけで、朝には晴れていた。台風一過の転校となった。
左右田中学校の制服は黒の学ランと紺のセーラー服だったが、前の学校の制服はブレザーだった。まだ制服は寸法直しを頼んでいるところで、上着を着たらさぞ目立ったことだろうが、丁度半袖から長袖シャツに変わったばかりだったので、ズボンが違うぐらいだった。しかし前の学校のズボンは灰色のチェックの模様なので、十分に目立ってしまっていた。
注目されるのが嫌だったので、早くに家を出て急いで学校にむかった。しかし朝練で学校の周囲を走っている生徒が多くいたので、結局目立ってしまったが。
中途半端な時期の転校性は、当然一人である。席は廊下側の最後尾から一つ前だった。隣には男子が座っている。最後尾でないのは転校生に対する配慮だろうか。
授業が終わった後のホームルームで、担任の小林先生が、
「船上、部活は今週中に決めーよ。決まったら俺まで持ってきぃな」
と言ってきた。左右田中学は、外部のクラブに参加している生徒を除いて、全員部に入ることになっているとのこと。
当然ながら先生も関西弁である。今日半日クラスにいて思ったことだが、関西弁と一口に言っても、かなりニュアンスが違う。真っ先に話しかけて来てくれた隣の席の男子、田辺に尋ねると、京都大阪神戸でも違うし、喜春市あたりから西の播州は播州弁といって、特に口汚いと言われる地区なのだとか。口汚いと聞いて、俺はちょっと引いてしまった。
確かに耳にするだけでも、お笑いで見るより雑できつい感じがしたのだが…。
「お前、何部に入るか決めとんか?」
先生の言葉を受けて、田辺が聞いてくる。もう入る部は決めていた。
「うん。バスケ部」
「えっ」
俺の答えに田辺は険しい顔をした。気にはなったが、問いただしている時間はない
「バスケ部のやつっているかな?」
「それなら、今出てった久喜ってやつがそうやけど…」
俺は荷物を持ち、田辺が指さした、教室を出ていこうとしている男子生徒を追いかけた。
「久喜?」
廊下で声をかけるが、反応がない。再び呼んでみても足も止めずに歩いていく。
その後について行きながら、人違いかもしれないと思いつつ三度声をかけると、ようやくその男子生徒は無言でこちらを振り返った。うんともすんとも言わないが、否定もしないのでやはり久喜なのだろう。俺の身長は156㎝だったが、久喜は160㎝を超えているようだった。わずかに背が高い。体格は俺より少ししっかりしていたが、まだ標準体型以内と言ったところだ。色の薄い髪は7部刈りぐらいで、少したれ目の顔は完全に無表情だった。
俺の髪形は特に特徴のない、邪魔にならない程度のショートカットだったが、髪質はストレートで太くて固く、色は真っ黒だった。
久喜の髪形を見て、乾かしやそうだなと思った。
「お前バスケ部なんだろう? 俺バスケ部に入りたいんだ。部室まで案内してよ」
久喜はひとつ頷くと、前に向き直り歩き出した。極端に無口な性格なのだろか。バスケ部のことを聞きたかったが、話しかけにくかったので俺は黙って久喜の後について行った。
着いたのは2年5組の教室だった。5人ほどの男子生徒が着替えをしたりしている。
廊下側で3人の生徒が青色の体操着に着替えていた。青は1年の学年カラーだ。久喜は誰に俺を紹介するでもなく、黙ったままそちらに歩いて行ってしまった。
入り口に取り残された俺は戸惑った。クラスメートでこれからはチームメイトにもなるのだし、紹介ぐらいしてくれてもいいのではないか?
困っていると、教壇で二人で話をしていた赤というか臙脂の体操着の、小柄な方、俺とそう変わらない体格で、髪の右側だけを整髪剤で上げた真っ黒な髪の生徒が、俺に気づいて訝し気に問うてきた。赤は2年の学年カラーだ。
「なんや?お前」
「あの、俺——」
制服を見れば一目でわかるが、とりあえず転校生だと説明する前に、後ろのドアが開いた。そして、関ジャニのメンバーかと思わせるイケメンが入って来た。多分170㎝はあるだろう長身で、体格は中肉。ぱっと見でも全体的に穏やかなイメージだ。髪を左側で左右分けていて、髪がはねているが、それがまた似合っている。寝ぐせなのかセットしているのか微妙なところだ。
にっこり笑っているのが標準装備のようで、笑顔で口を開く。
「あれぇ、見ぃへん男子がおるやん。転校生?」
「はい、そうです。今日転校してきました」
ようやくまともな会話ができて、俺は安堵した。しかしそこで、先ほどきつい言葉をかけてきた生徒が、いかにも迷惑そうに言った。
「お前まさか、うちに入りたいとか言うんちゃうやろな」
言葉にはとげが混じっている。
「…え、はい…」
まさか途中入部は無理、とかそんなことはないよな。そんな話誰からも聞いていない。しかし田辺が戸惑った様子だったし、何かあるのかもしれない。
「マジかよ。なんでこの時期に。狙ってきたんか?」
前髪を乱暴にかきむしりながら、鋭い眼光を飛ばしてくる。
「その…無理なんでしょうか?」
「いや、無理ちゃうけど…」
おそるおそる聞くと、教壇で話していた二人のうちの背の高い方、俺より身長が15㎝ぐらい高く、体格もがっしりしいていて、やや色の薄い髪の前髪を後ろにあげている生徒が、真面目に、でも同じく困惑したように言った。
教壇の二人は顔を見あわせて、無言で会話している。間違いなく歓迎はされていないようだ。
指示もなく困っていた俺に、後ろからイケメンが聞いてきた。
「名前は?」
「船上睦月です」
ようやく自己紹介ができた。入部希望の申し込みとはこんなに困難なものだっただろうか。小学校に上がってからの転校は3回目だが、今までに経験はない。
「そう。俺は阿恵。副部長やで。船上、体操服は持ってきとう?」
イケメンは温和な笑顔でそう聞いてきた。もちろん持って来ている。
「はい」
「ならそれに着替えて、外周3周走ってきてぇよ。ため池の周りになるんやけど、皆走っとるからわかると思うわ。終わったらグラウンドに来てぇや。国道の方の隅にバスケットゴールがあるから」
「わかりました」
とりあえず俺は、久喜が行ったあたり、おそらく一年生の陣地の窓際に向かった。
二年生とのやり取りの間、1年の生徒たちからも稀有の目で見られ、これまたやはり迷惑そうな言葉を囁かれていたが、俺は阿恵先輩が指示したとおりに空いている机で青の体操着に着替えた。
制服はまだ前の学校のものだが、体操着は制服の寸直しの時に買ってきていた。新しい体操着はやはり着心地が良く、テンションが上がる。着替え終わり外に走りに行くころには、着替え途中の阿恵先輩以外は誰もいなくなっていた。
外周と言われるコースは昨日俺が歩いた通りの道で、昨日よりも多くの生徒が走っていた。丁度そういうタイミングなのだろう。
まだ暑いので半袖に短パンの生徒もいたが、大体が半袖に下だけジャージをはいていて、ほとんどが赤と青だったが、たまに緑も混じっていた。緑は3年の学年カラーだ。2年5組の教室にも緑の体操着の生徒はいなかったし、極端に少ないところをみると、運動部の3年生は引退しているのかもしれない。今走っている3年生は吹奏楽部などの文化部だろうか。
走っていると、青い体操着の男子生徒から「頑張ってぇな」と声をかけられた。教室で着替えていたうちの一人だ。
一年からも不満の声はあがっていたが、皆が皆反対な訳ではないらしい。しかし、中途半端な時期なのはわかるが、なぜあんなにも煙たがらねばならないのか…。不安に思いながら走る。
外周3周、約3㎞を走り終えてグラウンドに行くと、一年はグラウンドの隅でペアになって柔軟や腹筋や背筋をしていた。久喜だけが反復横跳びをしている。全員あわせて同じメニューをする訳ではなさそうだ。
グランドの隅の体育倉庫前で、体操着が赤の2年生らしき4人と制服を着た1名が話しあっていた。唯一自己紹介をしてくれた副部長の阿恵先輩は、俺が教室をでるときにはまだ着替えをしていて、走っている間に抜かされた記憶もない。なぜいるのだろうか。
初めてみる赤い体操着の2年は、睦月と身長が変わらなかった2年よりも頭半分以上は低く、一瞬小学生がいるのかと思ってしまった。色白で阿恵先輩に負けないぐらいに整った顔をしている。久喜よりちょっと長い程度の短髪は柔らかそうだった。可愛い顔をしているし、髪が長ければ小学生女子に間違われそうだが、目つきが鋭いので女の子には見えなかった。
これまたなぜか阿恵先輩が、後ろからその小柄な二年に軽く抱き着いている。小柄な二年は無表情なので、等身大の精密な人形を抱えているように見えなくもない。
唯一制服姿の男子は睦月と変わらない身長と体格で、ノンフレームの眼鏡をかけていて、すこし輪郭がふっくらしていた。ストレートの髪をセンターで分けている。スケッチブックを持っているところを見ると、美術部かもしれないが、他のバスケ部2年と一緒に話しをしていた。俺が戻ってきたのを見つけた2年達は、頷きあって散り散りになった。
「こっち来ぃ」
阿恵先輩に呼ばれて急いで駆けつける。
「ふなが…お前は、当分仮入部や。部の準備と片づけも一人でしてもらうし、メニューも正式入部が決まるまでは基礎トレだけやから。あと、仮入部の間はボールには一切触らないこと。公私関係なくな」
「え…」
提示された条件に固まる。仮入部とは入部が前提の友好的なものだと思っていた俺は、困惑した。完全に雑用係ではないか。しかもボールにも全く触れないなんて…。
「嫌なら入部はあきらめてもらうしかないんやけど…」
言葉を失った俺に、阿恵先輩は申し訳なさそうに言った。どう考えても理不尽な内容だった。一瞬思考が停止したが、必死に立て直して質問する。
「——それって、いつまでですか?」
「さあ。ふなが…お前次第やな」
阿恵先輩は困ったように笑って言った。
「俺次第って、どういうことですか?」
「さぁ?」
と首をかしげて言う。答えになっていない返しに、俺は絶句した。
阿恵先輩は基礎トレーニングのメモを渡してくると、場所とやり方がわかるように一緒に一通りやってくれた。今日の放課後はたまたまグランドの日だったけれど、明日は朝練も放課後も体育館ということで、体育館の場合のトレーニング場所とメニューも教えてくれた。
体育館が大きくないので、バスケ部は毎日は体育館を使えず、使えない日はグラウンドの隅のスペースを女子バレーボール部と交代で使っているらしい。
ワンセットずつトレーニングを終えると、副部長の阿恵先輩は、「頑張ってぇな」とだけ言って、自分の練習に戻っていったので、俺は指示された時間までひたすら一人で基礎トレーニングをしたのだった。
グラウンドの時はグラウンドの隅で基礎トレーニングなので、時間になると久喜が声をかけてきて、片付けの仕方を教えてくれた。ボールを体育倉庫にしまい、ゴールポストを端に移動させて、トンボをかける。
初めてなので久喜が手伝ってくれたが、この片付けや用意も、明日からは一人でしなければいけない。単調な作業は嫌いではなかったが、一人でというのはやはり辛かった。
翌日の朝練に時間より少し早く行ってみると、体育館の前で、外周を走っていた時に応援してくれた1年生が待っていた。
身長は久喜と同じぐらいの160㎝半ばの細身で、大人しくて人のよい感じだ。髪は特に触らず、俺と同じ普通のショートヘアだったが、髪質が細く柔らかそうで、とてもきれいなストレートヘアだった。
「おはよう。ふな…やなかった。——まあええか。船上」
昨日の阿恵先輩の指示の時といい、どうやら自分は名前で呼んでもいけないことになっているらしい。しかし、声をかけてきた一年は他に見ている人もいないので、先輩命令を無視することにしたようだ。ちゃんと苗字で呼んでくれた。
「俺、白畑満。よろしくな。体育館の準備と片付けの仕方教えるから」
自己紹介もしてくれ、白畑はバスケ部が使える場所は入り口より奥の方のコートで、体育用具室からボールとベンチだけ出してくればよいと教えてくれた。放課後は試合形式の練習もするので得点ボードも出すようにとのことだった。
「コート練習の時は、汗で滑らんように、定期的にこのモップでモップがけしてな」
そう言って体育用具室のモップの場所を教えてくれる。
「あと、特別棟の一階にある校務員室で、お茶もらってきて。大きなやかんに入っとうから。隅の方ならあんまりボールが行かんからあの辺に置いといて」
と、体育館の角を指さす。
そうこうしているうちに他の部員も登校し始め、皆体育用具室に荷物を置くと走りに行ってしまった。
「俺らも走りに行こぉ」
白畑はそう笑顔で言った。走るペースは白畑の方が早かったので、途中から先に行ってしまった。俺は早くついても、できることは基礎トレーニングだけだ。基礎トレーニングはコートの側では邪魔になるので、体育館の外の空いている場所で一人ですることになっていた。
指示されたとおりに、腹筋背筋に、ダッシュや反復横跳びなどをしていたが、たまに体育館から聞こえてくる掛け声さえも羨ましかった。