「疑念の残る平和」
テーブルがひっくり返れば、その上にあった木杯や、それに満たされていた酒が床に転がり、流れ、汚す。
衛兵隊長がさすがという剣術で悪党の一人を叩きのめすと、彼は叫んだ。
「一人も逃がすな! 誰か二人、出口を防げ!」
衛兵らも鼓舞され、悪党どもと渡り合っていたが、衛兵が持つのはまるで競技に出るかのような刃の無い剣、まさに鈍器、メイスであった。相手は真剣、それでも勇気を得た彼らは果敢に仕事を果たすべく挑みかかっている。
カンソウも斬るわけにもいかず一人ずつ競技用の剣で相手をした。
悪党どもは人数の色が悪くなると、消極的な尻込み状態になっていた。
衛兵らが距離を詰めると、目を剥きだして後退する。
「さぁ、大人しく降伏しろ」
その時、悪党の一人がさっと動き、細身の店主髪を掴んでその喉元に刃を近づけた。
「降伏するのは衛兵ども、お前らだ! 俺が何を考えているかは分かるよな?」
悪党らに勢いが戻る。
「罪を取り消し、ここから出て失せろ!」
気絶していた悪党たちも気が付き始め、状況を理解した一人が若い衛兵の顔面を殴り付けた。
「野郎」
殴られた衛兵は悪態を吐くだけに終わった。
「出て失せろ! 二度と来るな!」
こうなってしまうと、慎重に物事を進めなければならなくなる。
その時、後方から声がした。
「何だ、何で衛兵がいるんだ!?」
現れたのはルドルフ、そして鈍色卿であった。今日は雨が続いているため、コロッセオは開いていないのだ。
「ルドルフの兄貴、衛兵どもがいきなり!」
「何いっ!? おい、カンソウもいるじゃねぇか、テメェが焚きつけたんだな」
「いかにもそうだ。皇子殿下の理想郷が汚れてきたのを見て見ぬ振りはできんよ」
カンソウがルドルフ、いや背後の鈍色卿を見て言った。
「鈍色卿、あなたも貴族に雇われていることを笠にこの醜態を見逃していたのか?」
「黙れカンソウ!」
ルドルフが近付いて来る。
その時、鈍色卿が懐から大きな革袋を取り出し、店主に向かって投げつけた。
「確認しろ」
鈍色卿が低い声で言うと、店主の近くにいた悪党が中身を開いて愕然としていた。
「き、金貨だ! 何て数だ!」
「そうか、金貨か」
ルドルフが意地悪く笑い、同じく財布と思われる革袋を店主の方へ放り投げた。
「ルドルフの兄貴も、すげえや」
中身を見た悪党達が感嘆の声を漏らす。
「つまりこういうことだ。こら、君、店主殿の首に突き付けている剣を放しなさい」
ルドルフが猫なで声で機嫌よく言うと、店主は解放された。
「おう、金をぶちまけろ」
ルドルフが命じると、悪党が二人、鈍色卿とルドルフの投げた袋を逆さにして振った。
そうして出て来たのは金貨の山と川であった。
ルドルフの給金が良いのかもしれないが、それだけではない。そして気付く、コロッセオのチャンプとしての給金だ。
何てことだ、シンヴレス皇子の純粋な願いはここに断たれた。
「店主、これからも贔屓にして良いな?」
「も、勿論です」
本心から言っているのか分からなかったが、店主はそう答えた。
「じゃあ、答えてくれ。ここで騒ぎはあったか? 違反はあったか? 誰か捕まるようなことをしたか?」
ルドルフの問いに店主は頷いた。
「この酒場はルドルフ様達を歓迎致しております」
「高級酒店竜眼も堕ちたものだな……」
衛兵隊長が無念そうに言い、部下達は怒りで震えていた。
「お邪魔した。撤収するぞ」
衛兵隊長はそういうと外へと出て行った。
「鈍色卿、俺はあなたを見損なった。それだけだ」
カンソウは鈍色卿の前を通るときにそう言って外へ出た。
扉を閉めると、悪党どもの笑い声が聴こえて来た。
「あともう少しというところで」
「隊長殿、すまなかった。俺は心のどこかで鈍色卿を信じていたのだが」
カンソウが謝罪すると、衛兵隊長はかぶりを振った。
「悪はいつか滅びる。奴らはコロッセオのチャンプだから羽振りが良いのだ。誰かがチャンプから引きずり落とすのを待つしかあるまい。ではな」
衛兵隊長と衛兵達は小雨の中を詰め所の方へ向けて歩んで行った。
これは衛兵隊長の言う通りだ。誰かがあの二人をチャンプの座から引きずり落とさねばなるまい。誰か、それは俺では無いのは確かだ。結託するつもりは無いが、その誰かが早く現れることをカンソウは強く願ったのだった。




