「コロッセオ」
正式にはあれから六年、つまりカンソウがコロッセオを去った時のことであった。あの頃は別段友とも思わなかった。だが、無性に誰かに声を掛けて貰いたかった。だからこそ、フレデリックを訪ねた。
結果、カンソウは彼は友だったのだと認識していた。ヒルダや、デズーカだってそうだろう。この六年という月日の中、腕のケガについてさ迷い歩き、復帰を諦め、弟子を取るという形になった。髪には白髪が主張し始め、もうどの道、若く無いのだと思い知る。鏡や水たまりに映る己の姿を見て、老いたのだと自覚した。
フレデリックは三十に届いた辺りだろうか。今頃は所帯を持っているであろう。それでも闘技戦士を続けているのだろうか。独り者のカンソウにはその辺りはよく分からないが、闘技で食べて行くなら、それなりに勝ち進まなければならない。勝てば勝つほど賞金が貰え、チャンプにさえなれば、そこに居るだけで収入がある。
懐かしい道に差し掛かった。
荷馬車の往来が激しかった。
「師匠、都会のにおいがしてきたね」
ゲイルが言った。背中にはカンソウが使っていた両手持ちの剣が掛けられている。一方のカンソウは腰に片手持ちの剣であった。その時、カンソウはふと思った。コロッセオへの復帰を諦めてからというもの、俺は怠惰な暮らしを足繫く送っていた。そう、足だけは勝手に鍛えられてはいたが、剣を振る腕はどうだろうか。残った右腕はどれぐらい力が擦り減ってしまったであろうか。
いや、忘れろ。俺はもうコロッセオには出ないのだ。そのための、こいつなのだ。
カンソウはゲイルに向かって軽くうなずいた。
「都会の姉ちゃんは綺麗なんだろうな」
このぐらいの歳になればゲイルも女を意識し始める。だが、ゲイルが綺麗だというのは少し年上の女性ばかりであった。
「気を緩めるな。お前は戦いに来たのだぞ」
「分かってるよ」
たぶん分かっていない。
カンソウは宿場町へ続く懐かしい道の風景に目を戻し、余韻に浸りながら歩いたのであった。
2
建物が増えた。
人で栄える宿場町、といっても、すぐ北に帝都、南は自然動物公園がある。それだけの宿場町だが、この町の本来の役目、それはコロッセオの出場者と観客達を留めて置くためであった。
時間は正午だった。人が増えれば建物も増える。まだ見ぬ戦士達も大勢いるはずだ。ゲイルがコロッセオ目指して歩んでいるが、カンソウは呼び止めた。
「何だい、師匠? 俺達は戦いに来たんだろ?」
「ああ、そうだ。だが、今はコロッセオは午前と午後の合間の時間だ。関係者以外立ち入れんぞ」
「だったら開くまで待ってりゃ良いじゃん。ちょうど、強豪揃いの午後の部の前に来れたんだ。一番に出てやるぜ」
威勢の良さは、コロッセオを知らないから言えることだ。私塾で手合わせしていたガキどもとは違うということをゲイルは自覚していない。ならば、自覚させるまでだが、カンソウは食事処竜の糞の前に止まって言った。
「焦るな、まずは飯を食え」
するとゲイルは目を丸くした。
「おお、都会の飯だ!」
ゲイルはすぐに引き返してきた。都会の飯か。貴族の馳走と勘違いしているのだろうな。
「二人です! おお、お姉さん、綺麗だね!」
ゲイルの興奮する声が店の中から聞こえた。カンソウは溜息を吐き、店の中へ入ると、給仕の二十五、六の女を前にベラベラと自己紹介とロマンを語り始める馬鹿弟子の頭に拳を落としたのだった。
3
「どうだ、都会は?」
竜の糞で食事を済ませた二人はコロッセオへと歩んでいた。
「料理は普通だけど、さすが都会、綺麗な女ばっかりだ」
そしてゲイルは不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「何で師匠は結婚しないんだ? こんなに良い女ばっかりだったら師匠の冴えない面でも一人か二人は口説き落とせるだろうに」
そこでカンソウは己の若い時代を振り返り軽く笑って応じた。
「若い頃の俺は相当嫌な奴だったからな。それに貧乏な闘技戦士だった」
ゲイルは意外そうに、感心した。その後、何か言おうとしたが、カンソウは目の前に立つ大きな大きな石造りの建物の前に来ていることに気付き、ゲイルの頭を軽く叩いた。
「小僧、これがコロッセオだ」
カンソウは色々な感慨に耽り、既に列を作っている観覧席と、既に受付を済ませた者がいるかは分からないが、無人の選手窓口を見ていた。
「まずは、受付を」
カンソウが言った時だった。既にそこにゲイルの姿は無かった。
「お姉さん、綺麗だね。俺、ゲイルってんだ」
何とゲイルは受付嬢にまで口説き文句を言わんとしているところであった。
カンソウは呆れて溜息を吐くと、ノッシノッシと選手窓口へ歩んで行き、熱弁する弟子の頭に拳骨を落としたのであった。