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「腕の治療」

 老医者は生きていた。ここまでの長い道のりの間、カンソウは竜の神に腕の完治よりも、老医者が生きていることだけを願っていた。その願いは成就されたのだ。

 老医者は襤褸を纏い、また室内も壁にヒビがあったりと、人家合わせて心許ない存在であったが、カンソウは何があっても老医者を信じることをこの旅の中で決めていた。

「腕を縦に裂く。それはもう酷く痛むだろう。それでもお主はやるというのか?」

 しわがれた声で問う医者の目は瞼が垂れ下がりまるで開いていないかのように思えたが、武芸者の端くれでもあるカンソウにはその瞳に誇りと強い意思が宿っているのを見て取った。

「存分にやってくれ」

 医者が清潔とは思えない布を丸めてカンソウに渡した。

 そうだ、それほどの痛みに俺は耐えねばならん。

 カンソウは布を噛んだ。

「行くぞ」

 異物が熱い痛みとともに皮膚を深々と切り裂く。

 稲妻に撃たれたかのような凄まじい痛みがカンソウを呻かせた。

「昔、昔、ある武将は病を治すために腕を切り裂かれても平気で相手と笑って対話していた」

 この期に及んで俺への当てつけか?

「お主、名は?」

 痛みはグサリとやって来る。カンソウはその度、布を強く噛み締めた。

 阿呆か、布を加えていて名が名乗れる訳がなかろう!

「ふむ、お主はその武将に遠く及ばぬ凡夫のようだ」

 カンソウは思わず、声を上げた。

「生意気な老翁よ、覚えて置け! 俺の名はカンソウだ!」

 布が落ちたが不衛生なゴミだらけの石の床に落ちたため、カンソウはもうその布をくわえる気はなかった。

「カンソウ、何故ここまで無理をした? そしてまた無理をしようと考えているな」

 しわがれた声が、いきなり明瞭になったかのように聴こえた。カンソウは強く悩んだ。そして結論を述べた。

「俺はコロッセオの闘技戦士だからだ! 戦って、観客に技を見せて会場を存分に沸かせ、金と人気と誇りを得る!」

「よくぞ、言い切った!」

「当たり前だ」

 気付けばカンソウは手術中であることを忘れ、老爺と語り合っていた。老爺はカンソウに重く険しい問いを幾つも投げかけ、カンソウの誇りを刺激し、長考に没入させるのが上手かった。

「あとは縫って仕舞だ」

 いつの間にかそう言われ、カンソウは我に返り、激痛に悲鳴をあげそうになったが堪えた。終わってから話しかけろと、抗議したい気持ちでいっぱいであった。

「腱が一枚になるまで、無理なことはするな」

 いつの間にか縫合までもが終わっていた。

 カンソウは恐る恐る左手を上げてみた。

 それは見事に上がり、肘も曲げることができた。

 カンソウは燃えていた。これで闘技戦士に戻ることができる。ゲイルの師として彼の相手を務めることができる。

「そう慌てて剣を持とうなどと考えるな。一か月は耐えよ」

「仕方あるまい」

 カンソウはそう言うと老爺に向き直り、姿勢を正した。

「あなたは俺を真摯に助けてくれた。礼を言う」

「医者としての務めだ。そしてこれが最後の仕事になるだろう。カンソウよ」

 老医者が垂れ下がった瞼の向こうからこちらを見詰めた。

「これをお主に託そう」

 大小はみ出た羊皮紙の冊子であった。

「これは?」

「医術書だ」

 試しに書面を捲ってみると、人の部位や、切開した図、そして注釈などが記されていた。

「これは医者になるべき者に託すべきではないか?」

「志ある者でさえ、ここを訪れる者はおらぬよ。訪れたのは誇りを取り戻しに来た戦士のみ。他には誰も訪れぬ。カンソウよ、お主が最初にワシに言ったように、ワシの治療は無茶が過ぎる。床を見てみるがよい」

 そう言われ、初めて己の血で濡れている溜まりを見た。

「血が足りなくなればそれでお主の命は仕舞だった。お主はよく耐え、よくワシを信じてくれた。竜の神の加護のおかげなのやもしれぬ。ワシの術を受けた最初で最後の者として、是非それを託されてくれ」

 老医者に強く言われ、カンソウは自分が医者になれなくとも、誰かに伝えることはできるだろうと考えた。

「分かった、しばし、託されよう」

「ありがたや」

 だが、次の日、いくら待っても老医者は起きて来なかった。さすがに気になりカンソウが様子を見に行くと、そこには褥の中で冷たい躯だけがあった。

 ああ、竜の神よ、感謝します。

 カンソウはそう祈ると、家の裏に穴を掘り老医者の墓を立て祭ったのであった。

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