猫が鳴く空の世界に
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
〇月×日 曇りのち雨 猫鳴き
天気予報のとおり朝から曇天 午後になって空で猫が鳴き、雨となった
大量の猫が一斉に鳴く
イライラする
消えてなくなればいいのに
だから私は決行する
*
数日前、私は事故にあった――らしい。
なにしろ気づけば超ゴージャスな病室にいて、左腕に点滴の針が刺さっていたのだから、なにがなにやらといったところである。
ひとまずナースコールを押してみると女性看護師と男性医師がやって来て、いくつか質問をされたので答える。
名前は藤枝幸。年齢は二十四になったばかり。
すると首を振られた。私は二十五歳になったところらしい。
年月日を訊いてみると、一年経っていた。
え、嘘でしょ。
かといって寝たきりだったわけではなく、昏睡していたのは数日間だそうで。
解離性健忘。
おそらく事故のショックで、一時的に記憶障害となっているのだろうと、白衣の男はそう言った。
ここからは内密の話。
私が巻き込まれた『事故』は、あまり表立ってはいえないかんじのやつ。
曖昧にぼやかされた説明によれば、なにかしらの研究機関の実験でちょっとした爆発が起こり、それを受けてしまったのだとか。
うん、ふわっとしすぎてまったくわからない。
わかったことといえば、秘密裏に進めざるを得ない案件なので、こんな高級ホテル並の一室に隔離されているのだろう、ということぐらいだった。
起き上がれるようになってはみたものの、この部屋には高い位置に窓があるのみで、私自身の視覚をもって外を見ることは叶わない。
いったいここはどこなのだろう。外部情報が遮断されており、私は看護師としか顔を合わせていない。
三日も経てばさすがに鬱屈としてきたので、せめて明日は部屋の外を歩かせてもらう許可を得ようと決めた晩。消灯後、どこからか猫の声がかすかに聞こえた。
ゴロゴロと喉を鳴らし、ときおりニャーと鳴いている。
病院に動物? 入院患者の部屋にペット同伴?
いやいや、まさか。庭に迷い猫でもいるのだろう。
もしくはアニマルセラピー的なことをしている病院なのかもしれない。
そのことも訊いてみよう。
猫は好きだ、大好きだ。
あたたかな存在を感じながら、私は眠りについた。
翌朝、検温に来た看護師に部屋の外を歩きたい旨を申告。医師に確認を取ってもらうお願いをしつつ、猫のことも訊いてみた。
すると看護師は事もなげに言った。
「そういえば、鳴いてましたね。あまりひどく降らなくてよかったです、今朝にはもう雨も上がってますし」
「雨が降っていたんですか?」
「ええ」
「外が見える窓がないので、まったくわからなくて」
「……そうですね」
「いえ、看護師さんを責めているわけではないんです」
嫌味を言ったつもりはなかったが、看護師は声を固くし、朝食を置いて去っていった。特別室っぽい場所にいる私は厄介な存在なのだろう。
医師を待つあいだ、私はついに、病室で見つけたバッグを開封することにした。
オシャレ女子が持っていそうなワインレッド色の小さなバッグである。普段の私なら絶対に買わないと断言できるけど、デザイン自体は好み。もしも私がリア充なら迷わずに所持したと思う。
現時点ではまったく見覚えのないものだけど、病室備え付けのクローゼットに入っているということは、おそらく私の所持物なのだろう。記憶のない一年のあいだに、一体なにがあったのよ私。
そういう意味でもバッグを見分して、今に至るまでの手がかりが欲しい。
化粧ポーチ以外に小さなノートがあったので開いてみると、見慣れた筆跡で、日付と天候を付記した文章が数行綴られている。
ここで私はようやく、これが自分のものだと腑に落ちた気がした。
とくに秀でた能力のない私だけど、日記をつけることだけは、子どものころからずっと続けている習慣。日々のメモ書きのような内容がほとんどだが、だからこそ、素の私が詰まった言葉なのだ。
最近の己を振り返ろうと、記述がある最終ページを確認したところ、意味のわからない文言が登場した。
空で猫が鳴き、雨となった
猫が雨になる?
たしかに『猫は液体』と称されるけれど、それはあくまでも比喩であり、なにも本当に液体となるわけではない。
猫は猫だ。あたたかい、生きた固体である。
首をひねったとき、扉がノックされた。返事をすると横に開き、医師と若い男性が現れる。
「……マナブくん?」
疑問形で問いかけた理由は、私の知っている姿とは様相が異なっていたから。
いつもパリッとした服をまとい、シャープな線を描く顔のラインに切れ長の瞳をした彼――藤代学くんは、クールな男性として女性たちを虜にしていた。
けれど今は野暮ったい黒縁の眼鏡をかけ、寝癖がついたままのボサボサした黒髪をそのままにしている。癖毛を厭うて矯正パーマを当て、髪の手入れを怠らなかった彼はどこへ消えたのか。
私が驚いたのと同じく、彼もまた目を見開いて私を見ていた。
「さっちゃん、だよね?」
「そうだけど、どうしたのその恰好。それにさっちゃんって。十数年ぶりに聞いた気がするんだけど」
「――じゅ、十数年?」
「それぐらいじゃなかったっけ?」
たしか小学三年生ぐらいだったと思う。
子どもたちが性別を意識しはじめ、同じ施設で育った距離の近い私たちに向けられる視線が変わったせいか、マナブくんは私をサチと呼ぶようになったのだ。
自身の名前である『学』にすら難色を示し、愛称として呼ばれていた『ガク』を主として使うようになったのも、たぶんこのころ。
穏やかだった少年が尖ったナイフのような少年へ変わった。思春期ってこわい。
高校に入るころ、ようやく親戚のひとが見つかったことで施設を離れたマナブくんだが、同じ学校だったおかげで動向を知る程度の距離には常にいて。
とはいえ仲良く会話をする関係ではなく、私はともかく、彼のほうが距離を置きたがっていた印象だ。引き取られた先がお金持ちだったらしく、身なりが整い、どんどんハイスペックなイケメン男子と化したものだから、芋っぽい私とは疎遠になりたかったのだろう。
「そっちこそ、下の名前をくん付けで呼ぶなんて、子どものころ以来だ」
「はあ? 最近も会ったじゃない。そのときも嫌そうに『俺のことはちゃんとガクって呼べ』って言ってきて。あ、最近じゃないのか。一年前?」
「本当に記憶が?」
「そうみたい。ねえ、なにか知ってることある? ここにいるってことは、マナブくんが身元証明者ってことなんだよね」
高校を卒業した後は、養護施設を出てひとり暮らしをしている。
社員寮が完備されているところを学校経由で紹介してもらって、薄給ながらなんとか生活をしているところ。
下請けの末端企業なんだけど、親会社はなんとマナブくんの親戚が経営しているらしく、彼は経営陣の一員なのであった。格差がすごい。
一部のお偉いさんのみが知っている背景なんだけど、育った養護施設が閉園した今、私に近しい知人といえるのはマナブくんぐらいしかいないため連絡がいったのだろう。
医師となにかを語ったあとはマナブくんのみが残ったので、椅子を勧める。生真面目な顔をした彼は、私に切り出した。
「どこまで憶えてるのかな」
「具体的になにを訊きたいのかわからないんだけど、私は会社にいたのが最後の記憶だよ」
「会社?」
「知ってるでしょ。身寄りのない高卒の私が従事できる程度の会社だよ」
「それはちょっと自虐がすぎるでしょう」
「マナブくんが言ったんじゃん」
「僕が!?」
なにを驚いているのか。
長ずるにつけ、どんどん不遜に、居丈高になっていったマナブくん。私に対しても上から目線でバカにしてくれたものである。
言っておくけど、私の職場はあなたの会社に関わっているんですよ。それをバカにするってどういうことなの。たしかにマナブくんは頭がよくてエリート街道まっしぐらかもしれないけど、世の中は私のように、末端も末端にいる人間あってこそまわっているものなのだ。
ここぞとばかりに文句を言うと、マナブくんは驚愕のまなざしで私を見て、「本当にさっちゃん?」などと呟いてくれる。意味がわからない。こちとら一年後だという世界に絶賛混乱中なのだ。風呂トイレが室内にあるため、病室を出ることもなく閉じ込められているし、いいかげんストレスも溜まるというもの。
そのとき、バタバタと窓を叩く音が聞こえた。雨だろうか。
高い位置にある窓を見上げると外が光る。
あ、カミナリ。
するとマナブくんが顔色を変えた。
「あああ、あの、さっちゃん、あの」
「大丈夫だよ。布団をかぶって震えるほど子どもじゃないって」
私は雷が苦手だ。幼少期は部屋のすみっこで震えて泣いていた。そんな私をマナブくんは憶えていたらしい。
あのころ、おろおろして「泣かないでよさっちゃん」と言いながら、隣に座って手を握ってくれた幼なじみのぬくもりに、私は救われていた。
変わってしまったと思っていたけれど、優しい部分はまだ残っていたのか。こころがほわほわする。
心配してくれてありがとう。
そう言おうとした私の耳に飛びこんできたのは猫の鳴き声。喧嘩をしているような、威嚇の鳴き声だった。
「ねえマナブくん、この病室って近くに猫がいるの?」
「どういう意味?」
「だってほら、猫の声が。あ、また聞こえた」
シャー!
毛を逆立てているさまを想像できる鳴き声が響き、私は部屋をぐるりと見渡す。どっちの方向から聞こえたかな。
マナブくんのほうへ顔を戻すと、今度は深刻な顔をしている。さっきから百面相すぎない?
「さっちゃん、変なことを訊いてもいい?」
「いまさらなに」
「さっき猫が鳴いたよね」
「うん、どこにいるの? 触らせてくれないかな。癒されたい」
「――っ、さ、さっちゃん、は、猫、嫌い、だよね?」
「大好き。施設にも居たでしょ、サバトラのゴローさん、憶えてない?」
ツンと化したマナブくんに頼れなくなった私は、雷に震える夜、枕元にゴローさんを置いて就寝していた。ゴローさんが私の癒しだった。
いつのまにか居なくなってしまってすごく哀しかった。猫は死に際を見せないというから、そういうことなんだとは思うけど。
「……まさか、本当に?」
「どうしたのマナブくん」
声を震わせながら、マナブくんが呟く。
「僕が知っているさっちゃんは、猫が怖くて近寄りもしなかった。天気が悪い日はいつもイライラしていた。よく猫が鳴るこの島を嫌って、まるごと壊してしまいたい、こんな島は消えろって呪詛を吐いて怒鳴り散らす、そんなひとだよ」
「誰の話をしてるの? 猫が鳴るって意味のわからな――」
見返した日記の言葉が頭をよぎる。
空で猫が鳴き、雨となった
「空の放電現象をカミナリと呼称する世界もあるんだよね。キミがいた場所では、空からどんな音が鳴った?」
「それって……」
「キミはきっと、別次元の藤枝幸なんだと、思う。僕が知っているさっちゃん――藤枝博士は多元世界の研究者であり、破壊主義でもあった。たくさん世界が存在するなら、ひとつぐらい無くなってもいいだろうって」
イライラする
消えてなくなればいいのに
だから私は決行する
決行する。
いったい、なにを……?
*
この世が多元宇宙であることはすでに証明されているが、さりとて人間がその生をもって別次元に渡って生還した例はない。俗に『跳ぶ』と称される行為が成功したのかどうか、確かめる術がないというのが正しいだろう。
私が就職した会社は、そういった研究機関の末端組織で、次元移送装置や長期冷凍実験装置などの部品を製造する町工場。
生まれ育ったこの人口島は最先端技術の実験地であり、藤グループが牛耳る、ひとつの国のような場所でもあった。
養護施設を運営していたのも、藤の名を関した人物だったし、マナブくんの名前も藤代である。島にはそういった藤の字を持つひとが多く、孤児の私がそれなりに暮らしてこられたのも藤枝という名のおかげだった。
「うん、同じ認識だ。違っているのは、僕とさっちゃんの立ち位置だね」
「それはつまり、いまグループのトップにいるのは、藤代じゃなくて藤枝ってこと?」
「不思議だよね。生い立ちがすべて逆転しているなんてさ」
子どものころ、最初に距離を置き始めたのは私で、親戚に引き取られたのも私。マナブくんを『ガク』と呼び捨て居丈高に振る舞い、バカにしていたのも私、らしい。
「……それはまた。私に代わって謝ります。ごめんなさい」
「いいよ、キミが謝ることじゃないし、なんていうか、その顔で殊勝な態度を取られると混乱する」
「だろうねー。私だって、今のマナブくんを見ていると、誰? って気持ちがぬぐえないし」
「そっちの僕は、そんなにひどい奴なの?」
「んー、たぶん、こっちの私みたいな態度なんじゃないかな」
推測にすぎないけれど、立場が逆転しているというのであれば、きっとそうなんだろう。
多元世界がいくつあるのかわからないけれど、鏡面のように左右が入れ替わっていたり、男女が逆転していたりする世界があると考えられている。性格が逆転している世界があってもおかしくない。
「ごめん。女の子なんだから、ひどく傷ついたんじゃないかな」
「こういったことに男も女もないでしょ。私もあなたも、多次元の自分のことで謝罪するのおかしいよね、やめよう」
不毛だもん。もっと建設的にいこう。いま大事なのはそこじゃないし。
うんと頷くと、マナブくんは一瞬固まったあと、苦笑いを漏らす。
「さ――キミは、こちらの世界の藤枝幸とは、随分と性格が違うみたいだ」
「お互いさまだよ。ねえ、さっちゃんでいいよ? なんだか懐かしいし、あと単純にややこしい」
「たしかに」
顔を見合わせて笑う。
今ここにいる私たちは、さっちゃんとマナブ。互いの知っている相手のことは、サチとガクと呼ぶことに決めたあと、私は日記を差し出した。例の記述を見せると、マナブくんの顔が強張る。
「ねえ。これってどういう意味だと思う? サチはなにを決行したのかな」
「……ここ数年、気温の変化が激しくて雨天が増えている。そのせいで猫鳴きが頻発しているし、落ちることも増えたから猫の数も増えたんだ。サチにとっては環境悪化だよね」
「待った! そもそも、そこの認識を合わせたい」
私の知る雷は、ゴロゴロ鳴って光って、ひどいときはバリバリって生木が裂けるみたいな強烈な破裂音がするし、ドーンって音で地面に落ちたりするものだけど、それが『猫』ってどういう意味なのか。
「うーん、どういう意味と言われても困るけど」
「こちらの世界では、猫という生物が存在しないってこと?」
言って、日記の余白部分に猫のイラストを描く。
ふふん、こういうのはわりと得意なのだ。
覗きこんだマナブくんは「あ、猫。上手いね」と笑って、言葉を続けた。
「少なくとも猫という生物の造形は同じだと思う」
「哺乳類?」
「脊椎動物に分類はされているけど、有性生殖ではない。猫は空から地に落ちてきて、初めてその形を得るんだ。そして一定期間ののちに空へ還り、そしてまた落ちてくる」
それはまた荒唐無稽な話だ。落雷によって猫が生まれる、だなんて。雷獣と呼ばれる幻想生物の概念はあるけど、それともまた違っている。
つまり、ずっと聞こえていた猫の鳴き声は、生物としての『猫』ではなく『雷の音』ということになるのだろう。いまいち信じられないけど。
「所長に話をするよ。あ、所長っていうのは、さっき一緒に来たひと」
「もしかして、ここって病院じゃなくて、研究所とかそういうかんじのところなの?」
「あー、そこも気づいてなかったのか。そりゃそうだよね、ごめん」
藤グループの中心にある研究所。私の世界では、島の中心にあって、ものすごく厳重な警備体勢の施設だ。もちろん入ったことなんてない。
マナブくんは一旦退室し、医師でもある所長さんを伴って戻ってきた。ここは研究所内の医療区画なのだそうだ。
彼の名は藤宮。やはりグループの一員だ。マナブくんやサチとは古くからの知り合いらしく、私とサチの差異を調べるにあたって、うってつけの人物だという。
目覚めてから初めて部屋を出る。
なるほど、たしかに病院ではなさそうだ。廊下の幅は狭く、照明の数もさして多くはない。いくつかある扉はすべて閉ざされており、ひとの気配がなかった。
所長さんに先導されて、ひとつの部屋へ辿りついた。大きな装置があり、その脇にカーテンで仕切られたスペース。
病衣を渡されて、着替えるように促された。裸の上に一枚だけ着用する衣服はなんだか防御力に乏しいけど、仕方がない。
カーテンの中から出たあとは、棺桶のような装置に入る。造影剤と思しきものを腕から入れられると、体がぶわりと熱くなった。こんなとき、血液は全身を巡っているのだと痛感する。
体の周囲を目に見えないなにかが通過し、頭から爪の先までくまなくスキャンして、私の体に異常がないか確認する。
これはおそらく病巣があるかという意味ではなく、人体を構成する元素的な意味での調査だ。
私が本当に別次元から来たのだとすれば、一度分解されたものが再構成されている――かもしれないわけで。そのあたりの原理を解明できるのではないかと、藤宮さんは言った。
血液や細胞を装置にかけ、成分検査の結果を待ちながら、隣の部屋で話をする。
「藤宮さんは疑わないんですね、私がサチではないってこと」
「貴女が本当に藤枝研究員だとしたら、たいしたものだよ。あの子はそんなに器用ではないから、別人の振りを続ける演技はできないと思う」
「こちらの私は、周囲から好かれるタイプではなかったようですね」
「人間には二面性があるものだ。彼女を嫌う者もいれば、そうではない者もいる」
私の言葉を否定するでもなく、そんなことを言った。
長所は短所であり、短所は長所。
結局のところ、人と人との関係は、相性の問題だと言いたいのだろう。
子どものころの、のほほんとしたマナブくんが私は好きだったけれど、成長してクールボーイになった彼のほうが人気者だった。幼なじみということで、よく嫉妬もされた。
あちらは私のことを疎ましく感じ「もっとしっかりしろ、どうしてそう愚鈍になったんだサチ」と文句を言っていたので、淡い初恋はからくも消え去ったけどね。
幼いころはともかく、個性がはっきりしてくると、合わなくなってしまった。そういうことなのだ。
「サチは、マナブくんとは仲がよかったってことですか?」
「一方通行だね」
「と言いますと?」
「孤立しがちなサチを、マナブは助けようとしていた。声をかけ、一緒にいようとしたけれど、サチはそれを嫌がった。マナブに同情が集まり、サチはますます周囲から浮き上がる。あの子が研究に没頭したのは当然かもしれないね」
マナブくん、気の毒に。
私ではない『私』が、本当に申し訳ない。
しかし藤宮さんは、マナブくんよりもサチのほうに心を寄せているように思える。
「藤宮さんとサチは親しかったんですか?」
「親しいといえるかどうか。だが、あの子の悩みを知っていたのは、おそらく私だけだろうとは思っているよ」
苦味の走った顔で笑ったとき、ピーと音が鳴る。検査が終了したらしい。
ディスプレイに並ぶたくさんの数字とアルファベット。私には意味がわからないそれに藤宮さんは目を走らせ、ひとつ息を吐いた。
「なにかわかりましたか?」
「そうだね。貴女はこちらの人間だ。だが、別次元の人間でもある。こちらにはないウイルスが体内にあるんだ。知らない成分もいくつか含まれている」
「少し前から風邪を引いていて、病院でもらった薬を服用していましたが」
「なるほど。別次元の病原菌か。こうなると部屋を隔離したのは正解だったな。もうしばらく外出は控えてもらおう」
私にとってはただの風邪だけど、この次元においてはまったく未知の新しいウイルス。抗体もないだろうから、それはたしかにやばいかもしれない。
もう少し血を取っても? と問われて了承する。どうぞどうぞ、研究にお役立てください。
採血されながら、質問を続ける。
「さっき、私はこちらの人間だって言いましたよね。それってどういう意味ですか? この体はサチと私が融合したものだということでしょうか」
「そうではないだろう。貴女は貴女のままこちらに来ている。サチと貴女は、体ごと存在が入れ替わったと考えていい」
「私のいた次元に、サチが行ってしまったと」
「行ったというか戻ったというか」
血管から針を抜きながら呟くと、藤宮さんは立ち上がった。
「ここからはマナブも交えて話をしよう、彼にもかかわりがあることだ」
*
サチには不可思議な認識があったという。
迷子になって保護されて、そのうえ高熱のせいで頭が混乱しているのだろうと取り合ってもらえなかったそれを、真剣に受け止めたのは、次元移送について研究していた藤宮氏だけだった。
幼い少女は混乱したようすで、泣きながらこう言ったのだという。
どうしてお空から猫の声がするの? 意味わかんない、こわいよ。
いやだ、おうちにかえりたい。
「知識を得るにつれ、彼女は考えた。ここは自分が生まれた世界ではない、別の次元世界なのだと。多元宇宙間における物体の移送は研究段階であり、無機物での実験が始まったばかりのころだった。人間の子どもがその贄になったとは考えられない。しかし、実験を重ねることでなんらかの歪みが生じており、それが作用した可能性はゼロではなかった」
少女の主張は秘匿され、しかし藤宮氏はひそかに彼女を助け、見守ることにしたという。戯言を漏らしたサチは、当時まだ四歳だった。
四歳という年齢に、私の記憶が刺激された。我知らず言葉が漏れる。
「……私が四歳のころ、すごい高熱が出ているのに夢遊病みたいに歩きまわって、数時間ぐらい行方不明になってたらしい、です」
これは施設の先生にあとから聞いた話だ。
私はなにも憶えていないし、むしろ迷惑かけてごめんなさい、ぐらいにしか思っていなかったのだけれど、藤宮さんの弁から導きだされる事実はつまり。
「そのとき、私とサチは入れ替わった、ということですか? 私はもともとこちらの生まれで、四歳から今まで、あちらで暮らしていた、と……」
体が震える。
隣に座って一緒に話を聞いていたマナブくんが、思わずといったふうに私の肩を抱く。そのぬくもりに支えられながら、私は言った。
「それ、呑気にもほどがありません? 我ながらドン引きなんですけど」
だってさ、サチはずっと苦しんでいたわけでしょ? いきなり違う世界に転移して、けど誰も自分を信じてくれない。おかしいのはおまえだって糾弾されたら、そりゃあ性格だって歪むよ、うん。それに対して私ときたら、違和感すら抱かないだなんて。
あまりの情けなさに頭を抱える私に、藤宮さんは笑った。
「貴女は本当にサチとは違う人物なんだね」
「変わってるとはよく言われてました。でも、たしかに四歳ぐらいからでしょうか。明るく活発になったって、施設の先生が言ってたんですよね」
養護施設に入ったころは内気でおとなしい性格だったらしい。元気になってよかったけれど、そういえばやたら雷を怖がるようになったのも、そのころだと言っていた。
私が姿を消した日は台風が接近しており、雷鳴が響く嵐の夜に行方不明になったため、それが原因だと先生たちは考えたようである。
「でも、きっと違ったんでしょね。こちらに渡ったサチが、空から猫の鳴き声がすると恐怖したように、私は逆に、猫の声がしないことに恐怖した」
バリバリと轟く破裂音。
天の怒りとも形容される稲妻。
聞いたこともない轟音が空から響く事象に、わけがわからなくてさぞ混乱したことだろう。
雷が鳴る夜に私が猫と就寝していた理由はきっと、聞き慣れた猫の声を無意識に求めたからに違いない。
ゴロゴロと喉を鳴らす猫にゴローさんと名付けて、安堵していたのだろう。
「これで悲願達成だな、マナブ」
「……わかりませんよ。サチが本当に元の世界に戻れたのかどうか、確認しようがない」
「だが、ここにいる彼女は、おまえのいう『さっちゃん』なのだろう? まずはそれでいいんじゃないのか?」
「僕だけが喜んだって仕方ないですよ。これは僕のエゴだ」
「サチの実験を止めなかった私も同罪だよ、おまえひとりが負う責ではない」
藤宮さんとマナブくんが、なにやら言い合っている。話題の主はおそらく私。だから挙手をして発言する。
「どういうことですか。最初からぜんぶ説明してくださいよ」
「つまりだ、貴女がこちらからあちらへ跳んだように、彼もまた跳んできたんだよ。貴女とは逆方向にね」
「……は!?」
八歳のころ。マナブくんは学校帰りに雨に降られた。あとすこしで施設に辿りつく場所だったが、ひとまず研究所施設の軒先を借りて雨宿りをした。
大きな雷が落ちて目をつぶった。
足もとで猫が鳴いた。
「施設に戻って気づいたんだけど、そのときに別次元に跳んだみたいなんだ。小学三年生のはずなのに、なぜか四年生になっていたし、さっちゃんが別人だった。顔も声も同じだけど、性格がまったく違うんだ」
そしてなにより、空から猫の鳴き声がした。
ゴロゴロと猫が喉を鳴らす音が聞こえたあと、ピカピカと空が光る。
空が光るのに、雷の音がしない。
猫はどこにもいない。
マナブくんの困惑を見た施設の先生は、サチの妄言を思い出して藤宮氏に相談。次元を伴う時空間移送が再び起きたと推測した藤宮氏は、サチのことをマナブくんに告げる。
そしてマナブくんは、ひそかに次元移送の勉強を始めたのだ。いつかサチを帰すために。
以上が、病室に戻って聞いたマナブくんの懺悔。私の意志を無視してサチを移送したことに対する謝罪だった。
「サチを元の世界に帰してあげたい気持ちはわかったけどさ、マナブくんはどうするの。だってマナブくんだって同じ状態だったわけでしょ? 鬼が太鼓を鳴らす雷様の世界に帰りたいって思わなかったの?」
「懐かしいな、その例え。雷様といえば、おへそを取られるんだっけ?」
楽しげに笑ってマナブくんは言う。
「サチを帰してあげたいなんて、きっと言い訳だよ。僕はもういちどさっちゃんに会いたかった。それだけだから」
「私に?」
「うん。そのためには、僕はここに居なくちゃ。サチと一緒に戻ってしまったら意味がないじゃないか」
「入れ替わりが本当なら、同時に私とサチが存在することはありえなくて。だから、たしかに私とマナブくんは、ここで顔を合わすことないけど。でも……」
どうしてそこまでする必要があるのだろう。
違和を抱えて、性格が荒れてしまったサチだって、生まれた世界に戻ることができたのなら、もともとの彼女らしさを取り戻すことができるかもしれない。
サチと周囲の軋轢も解消され、マナブくんの懸念は晴れるはず。
「そうだね。だけど言っただろう? エゴだって。僕はさ、僕の大好きな女の子に会うために生きてきたんだよ。サチが元の世界に帰りたかったように、僕はずっと会いたかったんだ、僕の『さっちゃん』に」
マナブくんは私の手を取った。
それは雷鳴が轟くなか、震える私をあたためた手のぬくもりを思い起こさせて、すとんと納得してしまった。
ああ。なんだ、そうだったのか。
私の『マナブくん』は、ここにいたんだ。
すっかり変わってしまったと思っていた初恋の男の子は、世界を超えて、こうして生きていたのだ。
嵐の去った空のように、気持ちが晴れ渡る。
私はふわりと笑って、彼に告げた。
「ひさしぶり、マナブくん。私もずっとあなたに会いたかったよ」
手を握り返すと、マナブくんの瞳から雨粒のように涙が滴った。
〇月△日 晴れのち雨 マナブくんの嗚咽あり
*
じつに一か月に渡る隔離期間を終え、私はようやく研究所を出ることを許可された。
外の景色は本当にいつもどおりで、ここが別次元だなんてまるで信じられない。
この世界における私は研究所員らしいけど、今の私はしがない事務職員なわけでして。頭脳の違いにより、同じ仕事に就くのは難しかったため、しばらく休養というかたちを取らせてもらうことになった。
実際問題として、それ以外にも生活面で不安が大きい。空で猫が鳴ることを始めとして、日常におけるちょっとしたズレが私を苦しまる。
八歳でこちらに来たマナブくんは別次元移送者の先輩なので、アレコレと世話を焼いてくれるようになり、四六時中、行動を共にするようになった。
今日も曇天。
天気予報によれば、これから荒れ模様となり、猫注意報が出ていた。
「猫注意報ってなに。猫鳴きっていうんじゃなかったの?」
「それとは別だよ。猫鳴きは鳴く――さっちゃんの認識でいうと、雷が鳴る、みたいなこと。猫注意報は猫が発生する可能性があるってこと」
「猫が発生? そういえば、雷が落ちたときに猫が生まれるとか言ってたっけ」
つまり、雨が雹になったりする可能性がありますよ的なことだろうか。ううん、あいかわらずよくわからない。
雨に降られるまえに帰ろうということで、急いで買い物を済ませて帰宅中、厚い雲がたちこめる空からゴロゴロと猫が喉を鳴らす音が聞こえ始める。
猫鳴きだ。
自然と空を見上げる。
ポツポツと雨粒が落ちてきたかと思えば数を増し、あっという間に降り始めてしまった。雨さん、仕事早すぎ。
「さっちゃん、雨宿りしていこう」
近くの店先の軒を借りる。
雨足は強くなり、シャーシャーと空で猫が威嚇をする。数匹で喧嘩しているみたいな声である。なかなか壮観だ。
隣のマナブくんはといえば、私の手をぎゅっと握って放そうとしない。
私も彼も、雷によって転移した。
先般、サチの移送実験は意図的なものだったけれど、もともとの発端になった出来事は偶発的に起きた事象で、どうしてそうなったのは解明はされていなかった。
つまり、同じことが起きないとはかぎらない。いわゆる『神隠し』はこういう事象も含まれているのかも。
そのとき空が閃光を放ち、猫の声が大音声で響き渡った。
びくんと体をすくませる。
雷だろうと猫だろうと、どちらの世界でも落雷は驚くし、怖い。
「さっちゃん、大丈夫?」
「うん、ビックリしたけど。元の世界だと、どこかに落ちたなーってかんじだったけど、こっちの世界ではどうなの?」
「うん、たぶん落ちてるんじゃないかな。どこかに猫が――」
ミャー。
マナブくんの声に重なるように、か細い猫の声がした。空からではなく、地面から。
目を向けると道端に猫がいた。灰色を主として縞模様が入っているサバトラの子猫だ。ヨタヨタと小さな躰を動かして、懸命にこちらに近づいてくる。
「マナブくん、これって」
「僕もこんなに近くで猫が生まれるのを見たの、ひさしぶりだ」
その場でしゃがんで手を伸ばすと、ゆっくり近づいてきた子猫が私の指をぺろりと舐めた。ザラリとした感触が懐かしい。
「マナブくん……」
「うん。猫を飼うための道具、買いに行かないとだね」
「いいの?」
「さっちゃんのためでもあり、僕のためでもあるかなあ」
「マナブくんも猫が飼いたかったの?」
「――というか、さっちゃんとふたりで暮らすとなると、気持ちのうえでいろいろと問題が」
二十五を迎えた大人が、なにをピュアなことを言っているのやら。
いや、私だって彼氏とかそういうのに縁がなかったので、異性とふたりで暮らすということの意味を、どこまで理解しているのかといえばあやしいんだけど。
ふたりして、なにやらもぞもぞしていると、子猫が主張する。
「ミャア」
「ああ、ごめんね。一緒に帰ろうね」
「さっちゃん、名前はどうするの?」
マナブくんが笑顔で問いかける。
この顔、わかってて言ってるな。
子猫をそっと手のひらに載せ、私も笑顔で答えを返した。
「ゴローさん、だよ」
猫が鳴く空の世界で、私とマナブくんとゴローさんはふたたび出会い、これからを生きていくのだ。
ようこそ、荒唐無稽な猫鳴きの世界へ!
こちらはpixiv主催の「日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト2024」の参加作品を改稿したものです。
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
という書き出しを使用し、一万字以内で物語をつくるコンテストでした。
ギリギリまで使って書いたものの、やはり言葉足らずな部分が多いと自分でも思ったので、字数を気にせずに、書ききれなかった箇所も復活させておきました。
すべての猫に愛をこめて。
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ヒロインが幸だけに。