李千里と怪異温泉 ~髪の長い女~
作者の息抜きです
「ふう、ようやく到着か」
タクシーから降りて約一時間。
獣道を上り続け、ようやく目の前に目的の小屋を発見した。
時刻はちょうど午後五時ごろ。空は既に暗くなり、星がうっすらと輝き始めていた。
李千里は、スマホに載っていた写真と目の前の小屋を見比べる。記事に載っている写真に比べると少し古ぼけた感はあるが、それも不自然とは言えない。こんな山奥で、管理人もたまにしか来ないという秘湯の脱衣所兼休憩所。まあくたびれていて当然だからだ。
早速小屋の中に入った李は服を脱ぎ始めた。
季節は冬。気温は0度を下回る。
本来ならその寒さに脱ぐのを躊躇してもおかしくないところ。しかし、小屋に辿り着いた直後から漂う秘湯独特の香りから、李の温泉欲は最大限まで高まっていた。
今回やってきたこの秘湯には、洗い場がない。
普通の温泉であれば体をしっかり洗ってから入るのがマナーだが、こういう場合はどうするのか。ネットで調べた限りだと、これと決まったマナーはなく、持参した石鹸で洗ってから入るという者と、掛け湯だけで済ます者とに二極化されていた。
天然温泉ゆえに石鹸を使ってしまえばその後処理に困る。かといって掛け湯だけで入るというのも、慣れていないがゆえにやや気持ち悪く感じてしまう。
そこで李がチョイスしたのは、体拭き用のウエットティッシュを使い全身を清めてから温泉に入る方法。
足や脇、股間周りの汚れていそうな部分を重点的に拭いた後、ようやく待望の秘湯とご対面。
大きな岩に囲われた、広い温泉。
秘湯なだけあり他に客はおらず、冬ゆえに虫の音も聞こえない。
静謐とした、自分しか存在していないような世界。
自然とほほが緩むのを感じつつ、李は寒さなど気にも留めず、厳かに秘湯の湯を持参した桶で救い上げる。
桶から漏れ出した湯が、冷え切った指をそっと撫でる。
熱い。だが、それがいい。
ここの温泉は弱酸性。僅かにピリリとした感覚もあり、それがまた心地よかった。
視覚・触覚・聴覚・嗅覚の全てを極楽に誘う、秘湯温泉。
三回掛け湯を行い、しっかりと体全体を流した後、李は波紋が立たぬよう、そっと、足先を湯につけた。
「ふう……………………」
ここ最近、本当に落ち着かない日々を送っていた。
親友との再会。
デスゲームへの参加。
四大財閥からの接触。
怪異が出ると噂の屋敷における殺人事件。
柄でもない探偵役。
よく分からない三角関係。
本当に、本当に、本当に。ここ数か月の出来事は、面倒で、危険で、最悪で、とにかく疲れるものだった。
「たまには、一人だけの時間が必要だな」
体の中にはびこるもやもやを、秘湯から立ち上る湯気と共に空へ飛ばしていく。
――ああ、心地いい
完全に全身の力が抜け、心も体も全て湯に溶け込んでいく。
永遠にこの時間が続けばいい。本心からそう思い、いつの間にかその思いすら湯の中に溶け込んでしまう。
………
………
………
………
………
――不意に、視界の端に黒い影が映った。
まさか、獣でも出たのか。
どっぷりと湯の底に埋もれていた意識が、瞬時に首をもたげる。
場所は山奥の、全く人のいない秘湯。山を下りるだけでも一時間以上かかる。まして病院まで行くのに何時間かかるか。
こんな場所で万に一つも獣に襲われて怪我などすれば、それは即ち死を意味する。
名残惜しくはあるものの、空気を吸い込み、体と心を湯から分断する。
いつでも逃げられるよう体勢を整え――
「ご一緒、しても宜しいでしょうか」
視界に映った黒い影。湯気により姿はシルエット的にしか見えていなかったが、そこからは獣の唸り声ではなく、人間の言葉が響いてきた。
獣でなかったことに安堵するも、自分一人だけではなかったことに落胆し、李は複雑な息を吐く。
それから湯船にしっかりつかり直すと、「どうぞ。ご自由にしてください」と声を返した。
勿論本心ではどこかに行ってほしいと思っているが、ここは誰もが自由に使える公共の場所。一人でいたいからこっちに来るな、などという身勝手なことは言えなかった。
「……それでは、失礼します」
黒い影は、ゆっくりと、湯が波立たないほどゆっくりと、こちらに近づいてくる。
相手の顔をじろじろ見るのもマナー違反かと思い、李は星空を見上げながらぼんやり相手が来るのを待った。
黒い影だったものは、近づいてくるにつれはっきりとした人型を形成していく。身に纏っていた湯気のベールもいつしか消え、そこには髪の長い一人の女性だけが残された。
年齢は二十前半と言ったところだろうか。体の前側をタオルで隠しているものの、動くたびに体のラインが浮き彫りになり、かなりスタイルの良い女性であることが察せられた。
けれどやはり、印象的なのは異常なまでに長い黒髪。
立っていても湯に浸るほど長い髪は、彼女の顔全体を覆っており、そこはかとない不気味さを醸し出していた。
李はちらりと彼女の姿を見た後、一瞬顔をしかめるも何も言わず、すぐに星空へと視線を移した。
髪の長い女性は、腕が触れてしまいそうなほどすぐ近くに腰を下ろした。流石に髪をそのまま湯の上に広げることはなく、手で一つに束ねると、まるでマフラーのように自分の首に絡ませた。
しばらく二人は隣り合ったまま動かず、黙って空を見上げていた。
けれど沈黙の時間は長くは続かず。
髪の長い女性は、まるで独り言を呟くかのように、「神隠しって、ご存じですか?」と尋ねてきた。
「……」
「この近くで、神隠しの噂があることはご存じですか?」
座る場所は好きにしてもらって構わないが、話にまで付き合う義理はない。まして神隠しなどという、意味の分からない話題となればなおさら。
しかし髪の長い女は李の反応などお構いなしに、この近くで起きた神隠しについて話し始めた。
「数年に一度、この山では、人が消えてしまうんです。山を散策していたお年寄り。山菜を取りに来ていた家族。秘湯を目指して山を登っていたカップル――」
「山で遭難なんて、珍しい話じゃないでしょう。ましてこの山は、あまり道が舗装されているとは言えないですし」
くだらないとは思いつつも、無視がきかないと判断し、適当に言葉を返す。
経験上、無視をしていれば勝手に離れていくタイプの人種と、こちらが反応するまでいつまでも話し続ける人種がいる。大抵は前者に該当するのだが、不幸なことに李の周りには後者の人間が多かった。
そして今隣にいる彼女からも、そいつらと同じ雰囲気を感じていた。
「いいえ。山で遭難したわけじゃありません。彼らは、唐突に、消えてしまったんです。すぐ近くにいた、恋人や家族、友人を置いて」
「全員丸ごと消えたわけじゃない程度に、設定は練ってるのか」
神隠しというよりも怪談全般でよくあるのが、登場人物全員が死んでいるのになぜか話が伝承しているパターン。当然の話だが、全員死んでいた場合はそれを伝える人はいないわけで、必然的にその話が作り話だと分かる。まあそれこそ創作の場合なら、語り手が犯人みたいなことになるのだろうが、現実ではそんなことはまずありえない。
「礼人ならこの時点でつまずくところだが」
「消えた人たちには皆、共通点があるんです」
まるでこちらの話を聞いていないかのような李の反応に苛立ったのか、髪の長い女はやや声を張り上げた。
「神隠しに会った人たちは消える前、皆こう叫んだそうです。『髪の長い女が見ている』と」
「はあ。髪の長い女が」
李はちらりと隣の女を見つめ、何だただの持ちネタかと嘆息した。
ラプンツェルでも目指しているのか、無駄に長い髪の毛。せっかくなら有効利用しようと、こうした怪談を思いついたのだろう。いや、もしかしたら長い髪は鬘で、この怪談(?)自体がメインなのかもしれない。
どこか呆れたような李の反応を敏感に察したのか、女は湯の中で拳を震わせる。そして首に巻いていた髪の先端を強く引っ張り始めた。
「神隠しに会う人は、最初小声で、こう言うんです。
『あっちに、髪の長い女がいる』
ですが、彼らが見つめる方に女の姿は疎か、人も、獣の姿もありません。だからみんな心配するんです。何か悪いものでも食べたんじゃないか。疲れたなら、少し休んでいこう、と」
「それはずいぶん親切な奴らだな。俺だったら気が狂ったのかと気にせず置いていくのに」
橘礼人という、親友にして悪友である男と、李は何度かハイキングに行ったことがある。しかし元々団体行動という言葉の対極に位置するその男は、ハイキング中何度も意味不明なことを叫んでは既定のルートを外れ、険しい坂道や崖の上を進んでいった。結局追いかけた李だけが遭難し、礼人は悠々と下山。李だけが救助に来た警察にこってり絞られることになった。
その一件以来、李は山で勝手な行動や言動をする人物は放っておくと心に決めたのだった。
またしても話を脱線させられ、女の髪を引っ張る力がより強くなる。しかしまだ話す気力は残っているようで、懲りずに続きを語りだした。
「少し休むと、笑顔を取り戻すので、ああ疲れていただけだったのかと、皆ほっと胸を撫でおろします。しかしいざ歩みを再開すると、少し目を見開いて、再びこう言うんです。
『髪の長い女が立って、こちらを見ている』
けれど、そこにはもちろん誰もいません」
「……」
ぽちゃん
女の髪からしずくが垂れ、湯に小さな波紋が広がる。
沈黙したままの李に気分を良くしたのか、女は髪からそっと手を放した。
「今度は休憩を取ったばかり。疲れている様子はなく、当然ふざけている様子もありません。強いて言うなら、そう、怖れが見て取れました。見えない、存在しない、髪の長い女への、恐怖です」
「どっちがより強い恐怖を感じてるかと言えば、微妙なところだがな」
話を聞いているのかどうかよく分からない李のコメント。
しかし女の話に充てられてか、その語気は、これまでよりも弱かった。
「そこからの出来事は、時間にすれば一瞬のことでした。再び彼らは、『髪の長い女がいる』と口走ると、体を震わせ始め、徐々に後ずさりを始めます。そしてもう一度、『髪の長い女が見つめてるんだ……』と口走ると、突然悲鳴を上げながら駆け出していきました。
何が起きているのかは分からない。けれどこのままにしておいてはいけない。訳が分からないながらも、皆必死になって後を追いかけます。
幸いにも、悲鳴が目印となるため、姿を見失っても居場所は分かりました。
ただ、一つ変化が。
純粋な悲鳴だったのが、徐々に、徐々に、明確な言葉に変わっていったのです。
『………………………を見てる!
…………女がこっちを見てる!!
髪の長い女がこっちを見てる!!!』
そしてついに、ひときわ大きな声で、
『髪の長い女が――』
そう叫ぶと、以降ぱったりと声は聞こえなくなりました」
息をのむほど臨場感の強い女の語り。
李はしばらくの沈黙の後、呟いた。
「そしてそいつらはそれ以降二度と再び姿を見せなかった。つまり神隠しにあったと、そう言いたいわけですか」
「はい、その通りです」
「……」
ひときわ強い風が吹き、顔や肩といった、湯の上に出ている部位の熱が奪われる。
李は顎が湯につかる寸前まで深くつかり直すと、「ぷはあ」と息を吐いた。
それから数秒間、湯の流れ出る音だけが夜空に響いた。
「どう、思いましたか?」
沈黙に堪えきれなくなったのか、女が尋ねてくる。
李は、より秘湯の質感を味わおうと、目を閉じてから答えた。
「どう思ったとは?」
「神隠しにあった彼らが見たという、髪の長い女。本当にいたと思いますか? 神隠しの原因は、髪の長い女によるものだと思いますか?」
「はあ」
ため息なのか相槌なのか分からない返答。
しかし何も考えていないわけではなかったようで、「まあそうですね」と、李は言葉を続けた。
「二重の意味で、尊敬ですかね」
「尊敬、ですか」
「ええ。人のいない山奥。月と星以外にまともな明かりがない夜。これだけでも、想像力のある人なら勝手に怪異を生み出し怖れるでしょう。そこに加え、見知らぬ人が、唐突に怪談話を始める。既にホラーです。さらにその怪談に出てくる怪異は、話している本人を想起させる容姿ときた――
いつ実行できるかすら分からないことに対し、念入りに念入りを重ねた事前準備。ただただ尊敬です。礼人の奴に、是非あなたの爪の垢を煎じて飲ましてやりたいくらいだ」
聞きようによっては小馬鹿にされているとも取れる感想。けれど今回、女は自らの髪を引っ張ることもなく、冷静に応じてきた。
「事前準備。そんなものしていない、と言ったら、どうしますか?」
「さて、別にどうもしませんが」
「では、どう思いますか? 愚かだ、馬鹿だ、くだらないと、そう思いますか」
女はそう言うと、初めて前髪を横に流し、じっと李の方を見つめてきた。
対する李は変わらず目を閉じたまま。女が自分を見ていることになど気づきもせず、「すでに答えは言いましたけど」とだけ返した。
「すでに、とは?」
「ですから尊敬していると」
「事前準備以外に、何を尊敬していると?」
「勿論、あなたの話に登場した髪の長い女の周到さにですよ」
「……なぜ?」
女の声に、戸惑いが入り混じる。この返しは、まるで想定していなかったのだろう。
けれど李はそのことにすら気づかぬ様子で、淡々と理由を述べ始めた。
「怪異の、それもネームドの怪異になるための原理をよく理解しているからです」
「……意味が分かりません」
「そうですか。この話をするあなたなら分かると思いましたが。要するに、伝承させる意図を持ち、理性的に行動しているところです」
寒さから、マナー違反かと思いつつも、温泉の湯を自らの顔にかける。湯の熱さから心地よい気分になるも、すぐさま山の寒風が熱を奪い、より一層の寒さを感じさせた。
「私事ですが、この前ちょっとした怪異事件に遭遇しましてね。その怪異は、とある一族の心に代々巣食い続けていました。敢えて場所を絞り、相手を絞ることで、祓われないよう工夫しつつ、細く長く怪異として存在し続けた。けれど屋敷や館と言った閉鎖空間は、見つかったときに逃げ場がない。それゆえ正体がばれてしまえば、祓われる以外の選択肢はなく、結果消されてしまった。
けれど、あなたの話した、髪の長い女はそうじゃない。俺が遭遇した怪異よりも遥かに周到で、優秀だ」
顔は寒いものの、体の方はだいぶ熱くなってきたため、少し冷まそうと立ち上がる。軽く体を振るだけでも、すぐに熱が奪われ、また湯の中につかりたくなった。
けれどもう少し、もう少し待ってから入り直した方が絶対に心地よい。そう考え、李はぐっと入浴欲を我慢した。
「常に複数人の登山客を狙い、そのうちの一人だけを襲う。全員を襲えばこうして伝承してもらえない上に、危険と判断され積極的に狙われる可能性がある。しかし一人となれば、危険度は比較的下がるし、登山しないようにという注意喚起程度で済むか、なんなら事実だと思われず、こうして一部で噂が流れるだけとなる。さらに拠点を秘湯のある山にしているのが秀逸ですね。山であれば逃げ場などいくらでもあるし、さらに秘湯があるという特徴から、こうして定期的に登山客が訪れる。実に巧妙。怪異として優秀だ。
そしてまた、俺のような一人客相手には、神隠しでなくその噂を積極的に流すことで、怪異としての自己をより強めるように保っているわけだ。
全く、あなたは怪異の手本とも呼べるほどに優秀で、尊敬できる相手です」
――そして真に優秀な怪異であるなら、噂を流した後は夢、幻かのように、相手の前から消えてしまうのがベストなんでしょうが。
最後に小声でそう呟いてから、李は大きくぐっと背伸びをした。
「とまあ、こんなところが感想の全てです。満足してくれましたか」
そう言って、ようやく目を開き、女がいるであろう場所に視線を移す。しかし、そこには人の気配はなく、ただ数本、異様に長い髪が湯に浮かんでいるだけだった。
李は眉間にしわを寄せながらその髪をすくい上げると、
「全く、マナーのなってない奴が多すぎる」
と呟き、ごみ捨て用に携帯していたビニール袋に、それら抜け毛を投げ入れた。
ホラーのセンスないな。というこれはホラーなのか? 次回、かまいたち編を乞うご期待。