乙女ゲームの悪役令嬢に転生したのでわざと婚約破棄されたけど、攻略対象の好感度を小ネタでMAXにしてしまった転生者の話
海岸を臨む、小さな教会。漁村として知られるフィガ村に建てられたことから、フィガ教会と呼ばれている。
フィガ教会の本堂では、一人のシスターが祭壇の女神像に祈りを捧げていた。
彼女の名は、マリアンヌ・リーヴェ。名門貴族リーヴェ家の令嬢だったが、故あってフィガ教会のシスターとして匿われている。
時刻は朝。水平線から太陽が顔を出し、ステンドグラスから差し込んだ光がマリアンヌを照らす。その姿は美しく、どこか儚い。
「おはようございます、シスター・マリアンヌ」
若い男が、祈りを終えたマリアンヌに声をかける。
彼の名は、クレイン・ベイ。マリアンヌがシスターになる前から、フィガ教会の神父を務めている男だ。
「おはようございます、クレイン神父」
「今日も、あの方の幸せを祈っていたのですか?」
「ええ、それ以外にありませんわ」
クレイン神父の言う「あの方」とは、マリアンヌの元婚約者であるカイン・ノークスである。名門貴族ノークス家の嫡男であり、その整った顔立ちは世の女性を魅了した。マリアンヌも、その内の一人だ。
マリアンヌはフィガ教会に来てから毎日欠かさず、女神像にカインの幸せを祈っている。
「君の祈りは、主に届いています。その罪が赦される日も、きっとすぐに来るでしょう」
「別に来なくても構いませんわ。赦しを乞うために、祈っているつもりはありませんもの。全ては私自身の、納得のためですわ」
マリアンヌは、過去に罪を犯した。
その罪とは、買収等の裏工作をして、強引にカインと婚約を結んだことだ。カインには恋人のヘレンがいて、マリアンヌはそれを知った上で、婚約に踏み切った。
最終的に、婚約は無効となった。カインとヘレンが裏工作の証拠を掴み、マリアンヌに婚約破棄を突き付けたのだ。
マリアンヌに対する批判が国中から殺到し、事態を重く見たリーヴェ家は、マリアンヌに国外追放の処分を下した。マリアンヌを切り捨ててでも、名門貴族としての体裁を保つことを優先したのだ。
行くあてのないマリアンヌを匿ったのが、クレイン神父である。
普通はそんな精神状態で、婚約破棄を突き付けた元婚約者の幸せは祈れないだろう。寧ろ逆恨みして、不幸を願っても不思議ではない。
それでもクレイン神父は、マリアンヌが本心からカインの幸せを祈っていることを確信している。
他人の心の内なんて、知る由はない。それでも、人の不幸を祈る人間に、あんなにも美しく祈りを捧げられない── のだが……。
(ああ〜〜〜やっぱりカインとヘレンのカプは推せますわ〜〜〜)
確かに、マリアンヌはカインを愛している。
しかし、その愛し方が斜め上を突き抜けていた。
マリアンヌは転生者である。しかも、前世でよくプレイしていた乙女ゲーの悪役令嬢が転生先だった。
その乙女ゲーで一番好きなキャラクターは、カインである。その気になれば、乙女ゲーの知識を駆使して、カインを攻略することもできた。
しかし、そうはしなかった。
カインの隣にいるのは、主人公が相応しい。それ以外は認められないし、自分自身ですら例外ではない。要するに、重度のカプ厨なのである。
そんなマリアンヌだからこそ、悪役令嬢としての役割を全うすることを選んだ。乙女ゲームどおり国外追放の罰を受けるのも、全て承知の上だ。
(無事、婚約破棄されましたけど…… 現実にはエンディングなんてありませんし、あの二人がいつまでも幸せに暮らせるとは限りません。今の私にできるのはこれくらいですが、応援していますわ!)
その一心で女神像に祈っていたのだが、それこそが新たな波乱を巻き起こすことを、マリアンヌはまだ知らない。
†
潮風を浴びながら、波の音を聞く。
眼前には、見渡す限り青い海が広がる。海面が陽の光を反射し、まるで敷き詰められた宝石のように輝く。
後ろを向けば、ミニチュアのように小さくなったフィガ教会が、視界の先に映る。
海を漂う一隻の小舟に、マリアンヌは乗っていた。
そこでは海を眺めるくらいしかできないが、それでも退屈はしなかった。雄大な自然に圧倒され、余計な思考は吹き飛ばされる。
対面の席には、クレイン神父が座っている。その手には釣り竿があり、海面に糸を垂らしている。その目は真剣そのものであり、どこか活き活きとしていた。
マリアンヌたちは釣りをしに、海に出た。ただし、娯楽のためではなく、フィガ教会の食糧を確保するためだ。
「……来た!」
竿が大きくしなる。大物がかかった証拠だ。
ここからは、魚との根比べだ。糸が切れないように細心の注意を払いながら、クレイン神父は釣り竿を少しずつ振り上げる。
舟のすぐ近くの海面に、魚の影が現れる。
「シスター・マリアンヌ!」
「ええ、任せてくださいまし!」
マリアンヌは魚取り網を手に持ち、網の中に魚を入れる。
「ぬぬぬ……!?」
重さもさることながら、網から逃れようとする魚の力が尋常ではない。魚というよりも、制御の効かない力の塊のようだ。
逃してしまったかもしれない。そう、一人だけなら。
「手伝います!」
横からクレイン神父の手が伸び、マリアンヌの手の上から柄を掴んだ。
「「せーのッ!」」
掛け声と共に、一気に持ち上げる。
クレイン神父の助けもあり、どうにか舟の上に魚を放ることに成功した。
海面を求めて、魚は舟の上を跳ねる。落下の衝撃で、舟が小刻みに揺れる。
その様を見ていると、改めて実感する。この魚は、かなり大きい。とてもではないが、抱き上げなければ持てそうにないほどである。
「大きいですわ……」
「ええ、私もこんな大物を釣ったのは久々ですよ! 魚拓を取るのが楽しみです!」
「では、帰りま──」
「さあ、次行きましょう! 二匹目が私たちを呼んでいますよ!」
クレイン神父は、完全に火のついた目をしていた。一方のマリアンヌは、若干呆れた表情を浮かべる。
「えっと…… これだけ釣ったら、フィガ教会の食糧も当分は保ちますわ。もう十分です、帰りましょう」
これまでの時間で、既に何匹も魚を釣っている。ついさっき釣った大物を含めれば、釣果としては十分以上である。
「ここで止めるなんて、とんでもない! 流れは今、俺たちに来ているんだ! もしかしたら、次はもっと大物が釣れるかも──」
「クレイン神父」
「…………そうですね、帰りましょうか」
素の喋り方が出るほど熱くなっているクレイン神父だが、マリアンヌの無言の圧に屈し、釣竿を置いた。
この釣りは、生きるために間違いなく必要なことではあるのだが…… クレイン神父は毎回、全力で楽しんでいる。
それ自体は悪いことではないのだが、時折暴走しそうになる。それを諌めるのも、マリアンヌの役割だ。
浜辺を目指し、二人は舟を漕ぐ。浜辺に着くまでに、まだ少し時間がかかりそうだ。
「私たち、すっかり漁師みたいですわ」
「自給自足は生活の基本ですよ、シスター・マリアンヌ。フィガ村も、決して裕福とは言えない村です。お布施ばかりに頼ってはいけません」
「わかっていますわ。それに、こうして釣りを手伝うのも、偶になら悪くありませんし」
「そう言ってくれると、私も助かります。人手は多ければ多いほど、釣れる魚は多くなりますしね」
事実、マリアンヌが釣りの手伝いを始めてから、釣れる魚の量が多くなった。
食卓に美味しい魚料理が並ぶのが、マリアンヌの細やかな楽しみである。
「ところで…… クレイン神父は、どうしてそんなに釣りがお上手ですの?」
良い機会だと思い、マリアンヌはずっと抱いていた疑問を、クレイン神父に投げかける。
釣りの手際の良さが、神父のそれではない。魚を捌くのも上手で、海についての知識まで豊富だ。極め付けに、釣竿や舟さえも自前で用意しているのだから、ただの神父ではないのは薄々感じていた。
「そうでした、言ってませんでしたね。私は元漁師なんです。釣りが上手いのは、昔はそれを生業にしていたからですね」
元漁師であれば、釣りが上手いのも頷ける。
しかしここで、新たな疑問が湧く。
どのような経緯で、漁師から神父という劇的な転職を果たしたのだろうか。
「……神父になった理由を、お聞きしても?」
「ええ、構いませんよ」
立ち入った質問になるかもしれないと、若干の不安を感じていたマリアンヌだが、クレイン神父はあっさり了承した。
「当時の私は、そこまで信心深い人間ではありませんでした。漁の安全を祈願するのも、単なる習慣的なものとしか捉えていませんでした。目に見えるものしか信じられない性分だったのです」
そう語るクレイン神父の口調は、恥じらいのような感情を帯びていた。
確かに、今の信心深いクレイン神父を知っていれば、想像がつかない過去だ。
「しかし、ある日を境に、その考え方が全く変わりました。漁に出たら、突然雲行きが怪しくなりました。私は引き返そうとしましたが、時既に遅く、嵐の真っ只中に取り残されてしまったのです。船は転覆し、私も大荒れの海に投げ出されました。そのまま死んでも、ちっともおかしくなかったのですが…… あの浜辺に打ち上げられていました」
クレイン神父が指差した先には、まさに今戻ろうとしている浜辺がある。
嵐の海に投げ出されたとして、生きたままあの浜辺に流れ着くのは、どれだけ幸運なことなのだろうか。まさに神の奇跡としか言いようがない。
「私の人生にまだ何かしらの意味があるから、主がお守りしてくれたように感じました。主に感謝の祈りを捧げ、教えを守って生活するうちに、フィガ村の人々から神父に推薦されました。これも主の思し召しだろうと思い、神父として生きる道を選んだのです。以上が、私が神父になった理由ですが…… いかがでしたか?」
クレイン神父は妙に緊張した面持ちで、マリアンヌの言葉を待っている。大方、自分のことばかり話したせいで、相手が退屈していないか心配しているのだろう。
「そんなこと気にしなくてもいいのに」と思いつつ、マリアンヌは微笑んだ。
「お話ししてくれて、ありがとうございます。やはり、お聞きして良かったですわ。私も、主に感謝しなければなりませんもの。その海難事故でクレイン神父が生きていたから、今の私があるんですから」
マリアンヌの言葉を聞き、クレイン神父は何かが腑に落ちたような表情で微笑み返す。
「あなたをフィガ教会に匿ったのは、神に仕える身として、そして一人の人間としての良心に従った結果です。ですが、それこそが…… シスター・マリアンヌを助けることが、私が生き残った意味なのだとしたら。そうですね、思い至ってしまえば、これ以上ないほど納得しました」
「ええ、そうでしょう?」
クレイン神父は、乙女ゲームには存在しない。
乙女ゲームのストーリーとは関係なく、この世界の運命に導かれるままに、マリアンヌはクレイン神父と出会ったことになる。
それはきっと、何よりも得難い幸福だ。
クレイン神父の信じる神が思い描いた運命に想いを馳せながら、マリアンヌはオールを漕いだ。
†
マリアンヌは日課の朝の祈りを終えた後、フィガ教会の花壇の手入れを始めた。マリアンヌが手入れをする前は、文字通り不毛の花壇だったが、今では色鮮やかな花がたくさん咲いている。
ジョウロで花に水をやっていると、音が聞こえた。地面を力強く蹴るような音…… そう、これは馬の走る音だ。
視線の先では、人間を乗せた馬が、フィガ教会に向かって走っていた。
馬に乗っている人間は、体格からして男だろうか。ただし、フードを深く被っているせいで、顔は隠れている。
怪しさ全開の人物に、マリアンヌは身構える。とてもではないが、礼拝に来た信者には見えない。タイミングの悪いことに、クレイン神父は釣りに行ってしまっている。
馬はフィガ教会の前で止まると、謎の人物が地面に降り立つ。
「マリアンヌ、やっと見つけたぞ……!」
謎の人物は、第一声でマリアンヌの名を呼んだ。
男の声だ。それに、どこか聞き覚えがある。
どうやら知り合いのようだが、こんな場所にまで会いに来る男に、心当たりがない。
「……あの、どちら様でしょうか?」
その言葉を受けて、謎の男はフードを外す。
マリアンヌの手から、ジョウロが落ちる。
「僕だよ、カインだ!」
謎の人物の正体は、カインだった。
心臓が飛び出るような驚きが、マリアンヌを襲う。
「ど、どうしてカイン様がこんなところに……!?」
それこそカインが会いに来る理由なんて、全く見当がつかない。
「君を助けるためだよ。僕にはもうヘレンがいるから、妻には迎えられないけど…… 君が元の生活に戻れるように、全力を尽くそう。国外追放の罰だって、取り下げてみせる」
「は???」
荒唐無稽な話だが、カインの表情は真剣そのものだ。
嘘だと思えないし、そもそもカインはそんな嘘を吐くキャラではないことを、マリアンヌはよく知っている。
だからこそ、困惑も大きかった。
「た、助けるって…… 私が貴方に何をしたか、お忘れですの!?」
「ずっと違和感があったんだ。君が僕と婚約するために、陰で色々やっていたけれど、君が関わっている証拠が多く残っていた。いや、残り過ぎていたんだ。まるで、僕たちに気づいてほしいかのように」
その違和感は正しい。
その気になればもっと上手く隠蔽できたが、難易度を下げるために、敢えて証拠を残した。
しかし、それだけでは、カインがわざわざ助けに来る理由にはならないはずだ。
「それに、婚約破棄を言い渡したときも、君は少しも取り乱さないどころか、肩の荷が降りたようだった。これじゃあまるで、僕に婚約破棄を言い渡されるのを待ち望んでいたみたいじゃないか」
この世界はゲームではないから、カインが絶対に婚約破棄をできる保障はないし、やり直しも効かない。
だからそのときだけは、悪役令嬢の役目を忘れ、安堵してしまったのだ。
だとしても、外野が婚約破棄された直後のマリアンヌの様子を見れば、ショックで茫然としていると思うだろう。
「……あ、貴方の勘違いですわ! 第一そんなことをして、私に何のメリットがありますの!?」
「僕には恋人のヘレンがいる。それに気づいた君は、潔く身を引こうとした。だけど、リーヴェ家が婚約に賛成するせいで、自らの意思で取り下げることはできない。だから敢えて、僕たちが婚約破棄できる状況を作り上げたんじゃないか?」
(いやまあ、そうなんですけど!! そのとおりですけども!! いくらなんでも当たり過ぎですわ!! 貴方エスパーでいらっしゃる!? )
喉まで出かかった叫びを、心の中に押し留める。
ここまで当てられると、困惑を通り越して恐怖すら感じる。まるで運命が、カインに助けられる結果に収束しているみたいだ。
(何なんですのこれ、私はカインルートにでも突入していますの!? だけど、好感度を稼いでなんか…… 好感度?)
その思考がトリガーとなり、ある記憶が蘇る。こんなことにならなければ思い出しもしなかったであろう、些細な記憶が。
(ま…… まさか!? あの小ネタ…… あんな小ネタが原因ですの!?)
マリアンヌの転生した乙女ゲーには、ある小技がある。主人公が教会の女神像に祈りを捧げると、ナビゲーションウィンドウに複数のキャラの名前が上がり、選んだキャラの好感度が上がるのだ。
ただし、あまりにも上がり幅が小さいので、とても裏技と呼べるものではなかった。小ネタの域を出ず、プレイヤーからの印象も薄かった。実際、マリアンヌも今の今まで忘れていた。
マリアンヌは知らないうちに、その小ネタを使っていたのだ。カインの好感度は毎日少しずつ、それこそ毒のように蓄積し、ついに限界値まで達した。
現実には好感度なんて目に見えないが、そのことをマリアンヌは漠然と察していた。好意的過ぎる解釈も、わざわざフィガ教会に助けに来るのも、好感度が高ければ納得がいく。
(このままカインに助けてもらったら、絶対にややこしいことになりますよねぇ!? どうにかして、カインには帰っていただかないと……!!)
助けられたことによって、カインとヘレンの関係が悪くなったら最悪だ。今までの努力が、全て水の泡となってしまう。
それに、マリアンヌには、フィガ教会から離れたくない理由もある。
この状況を丸く収めるには、どうすればいいのか。フル回転する思考が、冴えた方法を閃いた。
「カイン様の仰ることですが、私は否定も肯定もいたしません。ご想像にお任せしますわ。ですがカイン様、どちらにせよ貴方の助けは要りません。私はもう、この教会の神父様に…… クレイン神父に助けられて、幸せに暮らせていますもの」
次の瞬間、カインは明らかに動揺した。
助けを拒否するのではない。カインの中にある「助ける」という前提を、覆してしまえばいいのだ。
救いの手を掴んでいる者に、後から手を差し伸べる行為は、ただの自己陶酔でしかない。
カインはそんなものに浸るような人間ではないことを、マリアンヌはよく知っていた。
「それに、クレイン神父は見返りもないのに、国外追放された私を助けてくださりました。今度は私が、一生をかけてクレイン神父に恩を返さなければなりませんわ」
カインに帰ってもらうために、適当に言ったのではない。嘘偽りのない本音であり、フィガ教会から離れたくない最も大きな理由だ。
「……そうか。そう、だよな。君を助けに行くのが、あまりにも遅かった。僕の出る幕は、とっくになかったんだ」
(こ、心が痛い!!!!)
哀愁を帯びた表情で、カインはその場に立ち尽くす。
そんなカインを見ていると、マリアンヌの精神も苦しめられる。
こんなことになるのなら、女神像にカインの幸せを祈りはしなかった。
ただ、失意のままカインを帰らせるつもりはない。カインの手を握り、励ます気持ちを込めて微笑みを浮かべる。
「……いいえ、そんなことありませんわ。カイン様、どうかヘレンさんと幸せに暮らしてくださいまし。そうすれば、私の心は救われたも同然ですわ」
「……ああ、任せてくれ」
カインは静かに、けれど力強く頷いた。どうやら立ち直ってくれたみたいだ。
「それじゃあ、僕はもう行くよ。ここにいるのを知られたら、大騒ぎになってしまう。長居はできない」
「まさか、一人でここに来たのですか?」
「そうだよ。誰も僕の言うことを信じてくれないから、一人で来たんだ」
それを聞いて、マリアンヌは安心した。信じられないのが普通だし、簡単に信じられても困る。
「そうだ、最後にこれを受け取ってくれ」
カインは懐から、封のされていない封筒を取り出した。
「これは……?」
「僕宛ての封筒だ。本当は、君が帰る準備ができたときに送ってもらう予定だったんだけど…… まあ、それはいいんだ。困ったことがあれば、いつでも僕に手紙を送ってくれ。次こそは、君の助けになってみせるから」
「ありがとうございます、カイン様。何かあったときは、頼りにさせていただきますわ」
カインから封筒を受け取り、思わず笑みを浮かべる。カインからの初めての贈り物が、純粋に嬉しかった。
マリアンヌは確かにカイヘレ厨だが、それはカインが大好きなキャラであることが大前提だ。
もう迷惑はかけられない。この封筒を使うことはないだろう。だけど、お守り代わりとして、大切に保管しよう。
思えば、悪役令嬢としてではなく、素の自分でカインと話したのは、これが初めてかもしれない。
「さようなら、マリアンヌ」
「さようなら、カイン様」
カインを乗せた馬が駆ける。
次第に遠くなるカインの背中を見送りながら、マリアンヌは心に固く誓った。次からは絶対、女神像に余計なことは祈らないことを。
†
一人の男が、物陰に隠れて人目を避けつつ、フィガ教会の敷地をうろつく。しきりに場所を変え、何かを探しているかのようだ。
その様子は怪しさ満点だが、彼が仮に盗人だとして、清貧を是とする教会で盗みを働くだろうか。
男の正体は、カインである。国に帰ったフリをして、フィガ教会の敷地内に忍び込んだのだ。
彼が貴族のプライドを投げ捨ててまで盗人の真似をするのは、当然理由がある。
(もしかしたら…… マリアンヌはまた、僕に迷惑をかけまいと、真実を隠しているのかもしれない。僕の思い過ごしで、彼女が本当に幸せそうなら、黙って立ち去ろう。だけど、そうでないのなら…… 無理矢理にでも、彼女を連れて帰らなくては……!)
マリアンヌの真意を見抜けず、婚約破棄を言い渡してしまった後悔を抱いているカインだからこそ、そんな無茶な行動に至ってしまった。
このまま外をうろついても、マリアンヌの様子はわからない。やはり、建物の中に入るしかない。
段取りを考えていると、微かに男女の話し声が聞こえた。
会話の内容は聞き取りづらいが、誰と誰が話しているかは、おおよそ察しがつく。
マリアンヌの言葉が真実かどうか確かめる、絶好の機会だ。
声のした方へしばらく歩くと、開いた窓が見つかる。
そっと窓を覗く。部屋には窯があり、広い作業台には包丁等の調理器具が置かれている。それと、壁には何枚もの魚拓が飾られている。どうやらここは、厨房らしい。
(いた、マリアンヌだ……!)
調理台の前に、マリアンヌが立っている。その隣には、神父らしき男がいる。
マリアンヌは包丁を持ち、まな板の上の魚と睨み合う。しばらくして、魚を捌き始めるが、その手つきはどこかぎこちない。
ふと、神父が何をしているのか気になり、視線を移す。
そしてそのまま、驚きで目を見開いた。
(さ、魚が…… ものすごい勢いで捌かれている!?)
神父が次々と魚を捌く。その流れるような包丁の扱いは、いっそ芸術的で、料理人顔負けである。
(な、何なんだこの神父は……!? ここは教会じゃなくて、料亭だったのか……!?)
カインが至極当然な疑問を抱いているうちに、神父は全ての魚を捌き終え、マリアンヌの様子を見ていた。
「上手に捌けそうですか、シスター・マリアンヌ?」
「いえ、クレイン神父のようには、中々……」
「最初はそんなものですよ。こればっかりは、数をこなして慣れるしかないです」
ここからなら、会話もしっかり聞き取れる。
マリアンヌは魚を上手く捌けないのが悔しそうだが、包丁も握ったことがない元貴族令嬢であることを考慮すれば、むしろ健闘していると言っていいだろう。
「ですが、そうですね…… 少しだけ、手解きしてあげましょうか」
神父がマリアンヌの背後に立ち── 抱き着いた。
「!?!?!?!?!?」
脳を直接殴られたような衝撃が、カインを襲う。声が出なかったのは、驚きが一周回っただけなので、運が良かった。
カインのマリアンヌに対する好感度は、未だにMAXを維持したままである。
今の神父の体勢をより正確に言えば、マリアンヌの背後から手を伸ばし、彼女の手と重なり合うように包丁を握っているだけで、抱き着くまではしていない。いないのだが、ほぼ抱き着いているようなものである。
しかし、それよりも遥かに衝撃的なのは、マリアンヌは頬を紅く染め、様々な感情が入り混じった表情を浮かべていることだ。その表情が意味することは、どんなに鈍い人間でも気づくだろう。
しかし、肝心の神父は、特に気にした様子もなく包丁を動かす。そもそも気づいていないようだ。
甘ったるい雰囲気が、ここまで漂う。まるで、コテコテの恋愛劇のラブシーンを観ているようだ。
「こうして…… ここを切るんです。そうそう、上手ですよ!」
「……は、はい」
彼らの共同作業を、カインは魂が抜けたような心地で眺めるしなかった。
長いような、短いような、朦朧とした時間が過ぎる。まさに、夢の中にいるような感覚だ。
「──はっ!?」
カインが気づいたときには、部屋に誰もいなかった。
「し、しまった…… マリアンヌはどこに……!?」
厨房の中に入ろうとした瞬間、足が止まる。
マリアンヌの言っていた「幸せ」が、想像とは多少…… かなり違っていたが、真実であることには違いない。今からでも、黙って立ち去るべきなのでは。これ以上はただの、出歯亀になりそうだ。
それに今は、なるべく脳を休ませたい気分だ。
帰ろうとした瞬間、鐘の音が響き渡る。地平線の向こうまで届きそうな、清廉な音色だ。
鐘の鳴る方に、マリアンヌがいるのではないか。カインの足は、炎に惹かれる虫のように、そこに導かれる。
鳴っているのは、本堂の鐘だった。
扉を少し開けて、中を覗く。
「!」
女神像の前で、マリアンヌが祈りを捧げている。
後ろ姿しか見えないが、それでも、心を打たれるような美しさを感じた。
未練や、心配が、一気に吹き飛んだ。
一抹の疑いを挟む余地もなく、完全に納得した。マリアンヌは今、幸せなのだと。
何も言わずに立ち去るのが、きっと正しい選択だ。
「はじめまして、お祈りに来た方ですか?」
「うわっ!?」
振り向けば、そこには神父がいた。改めて近くで見ると、神父にしては妙にガタイが良い。
話しかけられるまで、背後に立たれているのに気づけなかった。
しかし、何よりのしくじりは、驚いた拍子に声を出してしまったことだ。
祈りを中断し、振り返ったマリアンヌと目が合う。
カインはもう、気まずさを誤魔化すように笑うしかなかった。
†
「──それで僕は、マリアンヌの様子を盗み見ていたんです。本当に、本当に申し訳ありませんでした」
フィガ教会の一室で、カインは全てを話した。
クレイン神父は、特に驚いた様子だった。だが、それも当然だろう。マリアンヌはわざと婚約破棄されて、カインから身を引いたことを知ってしまえば。
一方のマリアンヌは、カインの言葉を否定も肯定もせず、黙って聞いていた。
「……驚きはしましたが、同時に納得もしました。一時の気の迷いで、そんな罪を犯すような子なのだろうかと、いつも不思議に思っていましたから」
クレイン神父は、マリアンヌと共に長い時間を過ごした。そしてその時間の中で、マリアンヌの人となりを十分に知れた。
だからこそ、突拍子のないカインの話も、事実としてすんなり受け入れることができた。
「シスター・マリアンヌ…… いえ、マリアンヌさん。私に恩を返すために、フィガ教会に残ることはありません。不自由のない貴族の暮らしに、戻ってもいいんですよ。元より、そんな期待をしてあなたを助けたのではありません。あなたが幸せに生きることは、私の望みなのです」
ならば尚更、マリアンヌは報われるべきだ。
いくらフィガ教会の暮らしに馴染んでいても、マリアンヌは隣国の貴族令嬢だ。生まれた国と、元の生活は忘れられないだろう。
助けてもらった後ろめたさが原因で、元の生活に戻れるチャンスを逃すことなど、あってはならない。
クレイン神父の言葉を聞き、マリアンヌは小さく息を吐いた。
「……いつか、言わなければならない日が来るとは、思っていましたわ」
「?」
マリアンヌの表情が、緊張で固くなる。
何を言われるのかわからず、クレイン神父は息を呑む。
ほぼほぼ蚊帳の外にいるカインは、まさかという表情でマリアンヌを見る。
三者三様の感情が混ざり合い、短い沈黙の中で、一気に緊張感が醸成される。
そして遂に、マリアンヌが口を開く。
「お慕いしておりますわ、クレイン神父。どうか貴方のお側にいさせてくださいまし」
「………………うん?」
言葉の意味を理解できず、間の抜けた声を出してしまう。
マリアンヌは顔を赤くしている。
言葉の意味をようやく理解した瞬間、クレイン神父の顔もマリアンヌに負けないくらい赤くなる。
「慕っているって…… 俺をか!?」
マリアンヌは無言で頷く。
クレイン神父には、マリアンヌに想いを寄せられている自覚が欠片もなかった。
「ど、どうして……?」
「どうしてって、そんなの…… 私を教会に匿ってくれたのもそうですし、一緒に暮らしていて居心地が良かったり…… 理由を挙げれば、キリがありませんわ」
クレイン神父は、ちらりとカインの様子を見る。
カインは虚無の顔をしていた。なるべく邪魔をしないように、心を殺している。
どうして今、カインがいるときに告白したのか。その疑問に答えるように、マリアンヌは言葉をつづける。
「カイン様が全てを話した瞬間から、クレイン神父に告白しようと考えていました。だって、ここまで言っておかないと、クレイン神父はずっとご自分を責めるでしょう? どうして無理にでも、シスター・マリアンヌの背中を押してやれなかったんだ…… とか、考えて」
「それは……」
「そんな誤解は、さっさと解消するに限りますわ。ただ…… 私の好意が、クレイン神父にご迷惑であるなら、私はリーヴェ家に帰ります」
「迷惑だなんて、そんなことあるもんか!」
クレイン神父だって本音を言ってしまえば、マリアンヌに帰ってほしくない。
クレイン神父の声に反応して、虚無の顔をしていたカインが再起動した。
「神父様、僕が言えたことではないけれど…… マリアンヌの幸せを一番に考えるのであれば、フィガ教会にいさせてあげてください…… それがきっと、マリアンヌにとって幸せです……」
「あの、大丈夫ですかカインさん?」
口から何かしらまろび出そうなほど、カインは弱りきった様子だった。だけど、どこか嬉しそうで、安心もしているようでもあり。
だからこそカインの言葉は切実に、クレイン神父の心に届いた。
クレイン神父も、覚悟を決めた。
「……シスター・マリアンヌ、あなたの気持ちは伝わりました。私からも、言わせてください。どうか私と、フィガ教会にいてくださりませんか?」
「……ええ、喜んで!」
マリアンヌの表情に、笑顔の花が咲く。
「カイン様」
「!」
「カイン様のおかげで、踏ん切りがつきましたわ。ありがとうございます。いただいた封筒で、式にお呼びします。是非、お越しくださいね」
「ガハァ!!??」
その言葉がトドメとなり、カインは膝から崩れ落ちるのであった。