橘、恋をする。
「いた」
それは、いつもの3時間目終わりの休み時間のこと。
4時間目の数学が私を待っているが、数学嫌いの私は、理科室から教室までの廊下をのそのそと歩く。
そんな私の前に、君は現れた。盛大にぶつかって。
小さな顔に小さな身体。近所の床屋さんで切っているであろう無垢な黒髪。前髪はかなり目にかかっているが、その髪の黒さと肌の白さのコントラストがなんともきれいである。
まだ暑いというのに気の早すぎる長袖のワイシャツ。
私とぶつかった拍子に落ちた教材を拾い、立ち上がる君。背丈は私とほとんど変わらない。
「すみません…!」と私に向けた声は、すこし頼りなさそうだが穏やかで優しい声だった。
「(これが、俗に言う、少女漫画的な出会い、、?)」
突如現れたその瞬間に唖然とすることしかできない。
「・・・あ、」
拾い忘れられた下敷きに気づいたときには、すでに君は数メートル先にいた。
次の授業に向かうその後ろ姿を、秋晴れの光が暖かく照らしている。
「あの!」と、声を掛ければ恐らく気づいて渡せたであろう落とし物。
呼び止めようと吸った息を、私はとっさに飲み込んだ。
このチャンスをすぐに終わりにさせてはいけないと。
教室に戻り、下敷きを眺める。
右下に書かれた「多田」という文字。
今時、男子高校生で下敷きを使う子がいたのか。しかも律儀に名前まで。
「多田くん、、、」
人は下敷きだけでこんなにもキュンとできるらしい。
数学の授業はとっくに始まっているが、視線を下敷きから離すことができない。
私は、多田くんに恋をした。