宮坂詠太とゆるふわ系女子
とあるビルのエレベーターの前で、俺は大きく深呼吸した。
それは、東京都三鷹市にあるカラオケ店『カラオケ☆リコリス☆』へ続く小綺麗な1基のエレベーターだ。
俺の背後の通りは、車道を車がビュンビュンと行き交い、通行人の往来もあるが、このビルへ入って来る者は誰一人いない。平日の昼間とは言え、過疎り過ぎではないだろうか。
まあ、ヘタレ男子であるこの俺、宮坂詠太にとってはその状況は好都合だ。
カッコ良くスーツに身を包んでいるにも関わらず、エレベーターの前ですでに5分くらい深呼吸しながら、上の階へ向かう為のボタンを押すのを躊躇っているダサい姿を見られずに済むのだから。
きっと誰かに見られたら不審者だと思われるに違いない。
それにしても、いつまでもここでこのまま立ち尽くしているわけにはいかないだろう。せっかく約束の時間の10分前には店の下まで辿り着いていたというのに、気付けばあと3分しかない。
もちろん、約束の時間というのはカラオケの予約ではない。
“始業時間”だ。
そう、宮坂詠太24歳は、今日この日、カラオケ☆リコリス☆へ人生初の正社員として働く為にやって来たのだ。初日から遅刻するわけにはいくまい。
「あの、ボタン押さないと扉開きませんよ?」
「……!?」
意表を突かれた俺は返事も返せず反射的に声のした方へ顔を向けた。
ビルには誰も入って来なかったと思ったのに、いつの間にか黒髪ロングのゆるふわ系の女の子が隣に立っているではないか。
俺は掛けている知的に見える四角い眼鏡をクイッと上げてその子の表情を確認する。彼女は不審そうに俺の顔を見ていた。おお……そんな目で見ないでくれ。そんな純粋な眼差しで見つめられたら俺の邪悪な心が──
「あの」
彼女の聖なる力に屈しそうになって黙り込んでいた挙動不審な俺を責めるでもなく、ただ彼女は心配してくれているような声色で問う。
「あ、はい」
「乗らないなら……私乗ってもいいですか?」
消え入るようなか細いその声は辛うじて聞き取れた。勇気を振り絞って不審者の俺に恐る恐る話し掛けてくれている感じだ。目を合わせようとすると彼女は視線を逸らす。
「どうぞ」
時間的に一緒に乗って行かなければならないのに、俺は右手を差し出して先を譲ってしまった。
いや、こんな可愛らしい女の子と2人きりでエレベーターになんか乗ったら、出勤前の緊張に拍車が掛かって逆に具合が悪くなってしまう。先を譲ったのは賢明な判断だと言えるだろう。
ゆるふわの彼女は黒髪を揺らして俺の前に無言で立つとエレベーターのボタンを押した。
背中には“アライグマタスカル”のマスコットがぶら下がったオシャレで可愛い黒いリュック。白いブラウスにミモレ丈のベージュのキャミソールワンピース。そして、黒いハイカットのスニーカーを履いている。
近くの大学の学生だろうか。もしかしたらリコリスに1人カラオケに来たのかもしれない。
そう思うと、何だか親近感が湧く。
心の中だけニコニコしている無表情の俺にもう目を合わせる事もなく、ゆるふわ女子大生の彼女はエレベーターの扉が開くとそそくさと中に入って閉まるボタンを押した。
俺は咄嗟に無意味に腕時計なんかを見て“あなたの事を見ていませんよアピール”をする。
無意味に腕時計なんかを見て……
「いや待て! あと1分!!」
くそっ! これだから童貞は困る。ちょっと可愛い女の子がいると全てを忘れて見とれてしまうのだから。……いや、全国の童貞の皆さんが一様に同じわけではないですね。すみません。
ああ、もう次のエレベーターを待ってる暇なんてない。何でこのビルはエレベーターが1基しかないんだよ! まあ、そのお陰でさっきの子に話し掛けられたのだが……。
そんな事を考えながら、俺はとりあえずエレベーターの脇にあった外階段を1段飛ばしで駆け上がった。