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獣ジャック  作者: 八女 将
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第五部

第五部


 最初のミッションは、痛快だった。

 そう崎川は記憶している。

 向かったのは住宅街の中にある、大きな民家であった。そこには、三十匹を超える犬が飼われていた。元々は二匹の犬を飼っていただけだったが、奥さんを八年前に亡くしてから次々と捨て犬を拾ってきて、その数が増え始めた。さらに、犬たちが子犬を産み一気に増えていった。

 周辺の住民から苦情が出たが、家主は無視していた。

 瀬川が運転する車の助手席から、ターゲットの家が見えてきた。

「あの家ね…これはすごいわね」

 遠くからは、少し大きいだけの普通の民家にしか見えなかったが、門の前に到着する頃には、その家の異常さがはっきりと感じられてきた。

 狂ったような吠え声に目を向けると、犬たちが首輪に繋がれた紐が千切れるのではないかと思えるほどの勢いで、飛び掛ってきた。もちろん、紐が伸び切った段階で首輪が犬を激しく引き止めている。

 そんな犬が、一匹なら異様な感じを受けることはなかっただろう。しかし、数十匹もの大小、そして毛色の違う犬たちが、自分の首に強い衝撃を受けるにもかかわらず、何度でも吠えながらこちらに向かってくる。

 しかも、どの犬も手入れされているとは言い難い毛並みで、体つきも痩せている。なかには、異常と言えるほど痩せていて、嗄れた吠え声を搾り出していた。

 犬たちの間に湧き上ったパニックが治まるまで待っていようかとも思ったが、沈静化する気配は全くなかった。

「静かにさせて」

 瀬川は崎川にできるかとも聞かずに、そう言った。

 崎川は大きな疑問も感じずに、心の中で犬たちに向かって叫んだ。

(黙れ!)

 効果てき面であった。犬たちは鞭打たれたように萎縮し、静かになった。

「さすがね」

 崎川は内心では、自分のしたことにかなり驚いていたが、瀬川に向けた顔には出さなかった。

 瀬川は目的の民家のインターホンを押した。表札には「赤竹」と文字が刻まれている。

 インターホンからは、何も反応が返ってこなかった。さらに何度も呼び出しボタンを押したが、やはり反応はなかった。

 瀬川は門扉を開いて、玄関ドアに近づいていこうとしたが、動きを止めた。

 門扉から玄関ドアに近づくアプローチはコンクリートとタイルで形作られたものであるが、犬の排泄物が数えるのを諦めるほど散乱している。もちろん、悪臭も酷く、丸々と太った蝿が見たこともないほど多く飛び回っている。

「行かないの?犬たちが飛び掛ってこないようにしているわよ」

 崎川の言葉に、瀬川は頷いて門扉を開けた。

 犬たちは二人を遠巻きにして見ていたが、近づこうとはしない。

 慎重に排泄物を避けながら、玄関ドアまで辿り着くと、ドアを叩いた。

 何度も叩いていると、ドアが細く開けられた。

「誰かいるのか?」

 ドアの向こうから、年配の男の声が聞こえてきた。家主の赤竹であることは間違いないだろう。

「こんにちは、赤竹さんですね」

 細く開いたドアの隙間を覗き込むように瀬川が顔を向けると、赤竹は独り言を発した。

(女か…犬たちはなぜ吠えない?)

 瀬川はドアノブを握って、引いた。

 赤竹はドアノブに引きづられて体勢を崩し、驚いた表情を見せながらも、すぐに厳しい声を出した。

「危ないな!」

 瀬川はさらにドアを開いて、赤竹を見た。

 赤竹は中背で痩せた初老の男だった。頭髪は聞いていた年齢にしては多く残っているが、半分以上が白くなった髪は中途半端に伸び、寝癖も直していない。着ている服は、それほど古いものではないが、洗濯したのはかなり前であることは確かだ。

「赤竹さんですね。今日はお願いがあって来ました」

 瀬川は営業スマイルの手本のような微笑を浮かべた。

 赤竹の怪訝そうな表情がわずかに緩んだ。

「何が望みだ?」

 赤竹の背後にはゴミ袋、雑誌の束、ダンボールが壁沿いに積み上げられた廊下が見えた。体を横にしなければ通ることができないだろう。それに、肩の高さぐらいまで積み上げられているそれらの山は少し当たるだけで崩れることは確実であると思われた。

「少しの間、家の中でお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 瀬川は赤竹の返事を待たずに、玄関のたたきに靴を脱ぎ捨てて廊下を歩いて行く。

 赤竹は虚をつかれて、すぐには瀬川を止めることができなかった。

 瀬川は足早に廊下を進み、リビングまで辿り着いた。

「これは…」

 瀬川は思わず眉間に皺を寄せた。

 リビングには、庭にいた動物とは別の種類の動物が闊歩していた。

 玄関では、崎川が瀬川の後を慌てて追いかけていった赤竹の背中に向かって呟く。

「私も家におじゃましますね」

 そう言ってから、崎川は少し躊躇した。廊下の上に転がっている綿ぼこりと玄関マットについているカビにも見える黒ずみが気になって、靴をすぐには脱げないでいたのだった。

 しかし、意を決して足を踏み出し、赤竹に追いついた。

 リビングにいたのは、瀬川と赤竹、そして五匹以上の猫であった。庭にいた犬ほど酷い状態ではないが、どの猫も栄養状態は悪そうである。

「出て行け!」

 赤竹は顔を紅潮させて、怒鳴った。

 瀬川は冷たい微笑を浮かべて、赤竹を見た。

「少しだけ、話をさせていただけないでしょうか?」

 瀬川の静かな視線を受けて、赤竹は声の調子を落とした。

「何の用件だ?」

 赤竹は苛立たしげにソファの上にいた猫を追い払って座り、瀬川を見上げた。

 瀬川は赤竹が座ったソファのテーブルを挟んで反対側にあるソファの上にいる猫を一瞥しただけで、腰を下ろそうとはしなかった。

 さらに一匹、別の猫が現れた。猫がいるのは、この部屋だけではないのだろう。

 瀬川は冷たさを感じる微笑を浮かべた。

 赤竹は眉間に皺を寄せ、瀬川と崎川の間に視線を往復させた。

「私はこの家の周辺に住んでいる方々から依頼で、ここに来ました。その点はご承知ください」

「俺に、ここから出て行けと言いたいのか?」

 赤竹は苛立ちを隠そうともしていない。

「そのとおりです」

 今まで、周辺の住民から何度も苦情を言われていることからして、十分に察しがつくのであろう。

「出て行かんぞ。それに、引越しできるほどの金もない」

 瀬川は微笑を浮かべたまま、次の提案を口にした。

「周辺住民の方々は、飼っている犬猫を処分してくれるのでも構わないということですが、いかがします?」

 赤竹の顔に怒りが浮かんだ。飼っている犬猫に幾許かの愛情は感じているようである。犬猫たちのやせ細って汚れている姿を見ると、かわいがっているようには見えないが…。

「帰れ!よくもそんなことが言えるな」

 瀬川は、崎川に苦笑を見せてから、赤竹に視線を戻した。

「お邪魔しました。あなたの考えは分かりました。しかし、人の考えは変わるものです」

 一匹の猫が赤竹の座っているソファの上に上って、丸まった。

「変わるわけがないだろう!」

 赤竹の声がさらに大きくなった。

 ソファの上の猫は、迷惑そうに赤竹を見てから、床に音もなく降りた。

 数分後には、瀬川と崎川は悪臭の充満する家を出ていた。庭に立つと、犬たちは少しの間だけ沈黙していたが、一匹が小さく吠えたのを切欠に先を争うように吠え立てた。

 瀬川と崎川が門を出てからも、犬たちの興奮状態は治まる気配を見せなかった。二人は門を出て、赤竹の家の横手に回り込んで、庭が見える場所に陣取った。庭に植えられている木の枝の間を通して、赤竹の家の玄関が見える。

「もっと派手に吠えさせることはできるの?」

 瀬川のリクエストに崎川は頷いた。

 犬たちの吠え声がさらに増した。犬たちの口角からは、唾の泡が吹き出しながら、無意味な騒音を十分近くも撒き散らし続けた。

 赤竹はようやく様子を見に来る気になったようで、玄関のドアを開けると同時に怒鳴る。

「黙れ!何に吠えているんだ!」

 犬たちは赤竹の怒鳴り声をかき消すかのように、さらに吠えた。

 赤竹は憤慨した様子で、庭に出てきた。そして、周囲に視線を巡らせたが、特に気になったものはなかったようで、庭木の向こう側にいる瀬川と崎川にも視線を止めなかった。

 崎川は、口の中で犬たちに向かって何かを呟いた。

 犬たちの吠え声が止んだ。

 何の前触れもなく突然に訪れた静かな空間に違和感を感じたのか、赤竹は不安げな目をぐるりと自分の周りに動かした。

 白毛の犬が赤竹に激突した。赤竹のふくらはぎに犬の牙が食い込んでいる。

「うわっ!離せ!こらっ!離せ!」

 赤竹は声を上げて、左足を激しく振った。

 履いていたものがデニム生地だったためか、噛み付いた犬が小型犬だったためか、白毛の犬は赤竹の足から離れた。

 すぐに別の犬が赤竹の右足に牙を立てた。

 続いて、赤毛で耳の長い犬が赤竹の右の前腕に飛びついた。

 さらに左の大腿部にも、そして右腰の辺りにも犬の牙が刺さった。

 赤竹は完全にパニックに陥っていた。

 その光景を見ていた瀬川の眉間の皺が深くなっていた。

「そろそろ、いいんじゃない?」

 そう言いながら隣を見た瀬川の目に、崎川の微笑を浮かべた顔が見えた。

 瀬川が怖いものを見るような視線を向けていると、それに気付いたのか、崎川は表情を引き締めて、犬たちを凝視した。

 犬たちの中に膨れ上がっていた熱が、急に冷めたのを瀬川は感じた。

 犬たちは赤竹の体から牙を抜いて、離れていった。

 赤竹は見開いた目を犬たちに向けていたが、急に何か思い立ったように立ち上がって、玄関のドアを開け、すぐに閉じた。

 荒々しくドアが閉じられる時に発した音が庭を横切って、瀬川たちのところまでも大きく響いてきた。

 瀬川は、崎川にゆっくりと視線を戻した。

 その視線に気付いて、崎川も瀬川を見た。

「やりすぎた?」

 崎川の問いに、瀬川は一瞬、頷こうとしたが、すぐに首を横に何度も振った。

「あれぐらいやらないと、効果はないわよ」

 瀬川が浮かべてた微笑につられるように、崎川も微笑を浮かべた。そして、その微笑が次第に大きな笑みに変わっていった。

「あはははっ!」

 二人の笑い声が響いた。

 後日、赤竹が犬たちを全て保健所に連れて行って殺処分をしたと聞いた。多数の猫を相変わらず家の中で飼っているようであるが、庭に放たれていた犬たちが全て消えたことで、近隣住民の負担はかなり軽減された。

 多くの犬たちが犠牲になったことは崎川の心の傷となったが、達成感がその傷に蓋をした。

 この時から、崎川は瀬川に依頼されるままに犬や猫を操ってきた。中年男の足を折る大怪我をさせたことも、若い女の顔に消えない傷を残したことも、老女が息子のように可愛がっていた猫を殺したこともあった。

 しかし、人を殺したことはなかった。人を殺すような内容の依頼を、瀬川が崎川にすることはなかった。それはもしかして、瀬川が崎川を本当の意味では信頼していなかった、ということかも知れなかった。

 罪のない人を誤った情報に基づいて殺してしまうという「天誅団」の存在意義を否定するような罪を犯した夕菜と陸堂、二人を殺して天誅団を守るという考えを瀬川から聞かされたときは驚いた。しかし、瀬川が自分を信頼して話してくれたと感じた崎川には嬉しさもあった。

一方で、疑問も感じていた。夕菜が出した間違った指示を陸堂に伝えたのは、瀬川である。それなのに、その指示に従った陸堂を殺すというのは、理屈に合わないのではないかと思えた。

(瀬川さんは責任を感じ過ぎていて、それを自分の中で解決するために、極端な方法をとっているということなの?)

 しかし、崎川には瀬川の考えに異論を挟むことはできそうもなかった。自分で判断して、その結果を自分の責にするということは今の崎川にはできない相談だった。瀬川の決めたことに従うことが、今の崎川には最も正しく、安心できる行動原理だった。


 その日は肌寒い天気が朝から続いていた。季節はずれの寒波が上空を覆い、天気予報士はテレビの中で首を傾げた。

 陸堂は夕食後、ジョギングに出た。週に三回、一時間ほど走りに行くのが習慣になっていた。ストレッチを入念に行ってから十キロほど走る。ジョギングを始めた頃は毎回違うコースを走っていたが、いつの間にか毎回同じルートを走るようになった。

 市営の運動公園内には陸上競技場、野球場、テニスコート、そして体育館が並んでいる。幸運にも、素行の悪そうな若者たちが集まったり、カップルたちの秘め事が行われたりするような場にはなっていない。近隣の住民が定期的に集まって見回りをしたり、警察の巡回ルートになっていることが、要因であると思われた。

 空に光が斜めに現れた。雷鳴が耳に届くまで、少し時間が必要であった。

「天気予報では、今日は雨は降らないということだったが…」

 砂利を敷き詰めた道に、陸堂は足を踏み入れた。

 砂利が擦れる音が周囲に響き渡る。

 前から、同じように走ってくる人影が見えた。

 この運動公園内を夜にジョギングしている人は多くはないが、人を見かけることは珍しくはない。すぐに距離が縮まり、すれ違うと距離は急速に開いた。

 しばらくすると、別の音が届いてきた。しかし、右後方の少し離れたところから聞こえてきたのは、人の足が砂利を踏む音でなかった。もっと軽い音、例えば犬のような動物の立てる音であった。

 陸堂は何か嫌な感じを受けて、耳をさらに澄ませた。

 自分の足音が邪魔で、なかなか音を聞き分けることができない。無意識に走る速度が遅くなっていた。

(三匹?それとも、もう少し多いのか?)

 そんな考えが頭の中を通り過ぎ、集中を再び周囲に向けたときには、対処が遅くなってしまっていた。

 背中側のすぐ近くに、何かの気配を強く感じた。

 次の瞬間には、犬の牙がすぐ目の前に迫っていた。

「うわっ!」

 反射的に出た声が、静かな空間に響き渡った。

 喉元にきた牙を体を捻ってかわしたが、体に無理がかかっていたのか、背中に激痛が走った。しかし、その痛みで動きを止めている余裕はなかった。

「やめろ!」

 陸堂の命令に、目の前の犬が動きを止めた。

 陸堂が少し息を吐き出した瞬間、別の牙の気配が横から感じられた。頭を抱えるように身を低くした。

 牙からは身をかわすことができたが、犬の体が激しくぶつかってきた。幸い、犬は大型犬ではなかったので、転ばずにすんだが、次の攻撃を避けることを不可能にするだけの効果はあった。

 左前腕に熱が爆発的に広がった。それはすぐに痛みとして、認識された。陸堂は右の拳を犬の鼻面に叩き込んだ。

 犬の悲鳴と同時に、左腕から犬の重みが消えた。

 陸堂は走り出した。

 運動公園の東側には土手があり、それを越えると河口が広がっていた。海まで数百メートルの河口からは、潮の匂いが流れてきていた。

 土手を上り切ると、その向こうはすぐに水面だった。陸堂は土手の上から背後を見下ろした。

 外灯の淡い光の中を三つの黒っぽい塊が向かってきていた。二匹が一気に土手を駆け上がり、続いて最も大柄な一匹が中腹で足を滑らせて、転がった。

 陸堂はすでに走り始めていたが、犬たちが追いつくのに多くの時間は不要だった。

 二匹の犬、暗いのではっきりとは分からないがどちらも黒っぽい毛並みである、が追いつく寸前に陸堂は振り向いた。

「止まれ!」

 二匹は陸堂の声に反応し、背骨に鉄筋を入れたように固まった。しかし、その背後から灰色の大型犬が陸堂に飛び掛った。

 陸堂は体を大きく捻って、喉元にきた牙を避けたが、バランスを大きく崩した。

 灰色の犬は土手を転がるように河の方へと落ちていく。

 そして、陸堂もそれに続いた。

 空から落ちてきた大き目の水滴が、地面の上で跳ねた。落ちてくる水滴の数が数秒の間に累乗的に増加した。

 灰色の犬は土手の途中で止まり、陸堂も止まった。

 激雨になっていた。雨音の中に雷鳴も混じっている。

 灰色の犬は陸堂に向き直り、再び牙を向けた。

 陸堂はその牙を避けた。しかし、犬の体が当たって大きくバランスを崩した。

 陸堂の体は、水を含んで滑りやすくなった土手の斜面を滑っていくと、川面に投げ出された。

 その辺りの岸辺は垂直に立ったコンクリートに覆われていた。

 河の水量はすでに増え始めていた。河の上流の方角に視線を向けると、星は一つも見えない。

 陸堂は暗い水面上にどうにか頭を浮かせて、岸壁へ手をかけたが、体を吹き上げることができるほどの突起も探し出せない。岸壁のへりには手が届かない。

(くそっ!河の流れが、さらに速くなってきた)

 雨音が激しさを増していた。

 一気に濁流が頭の上に覆いかぶさるように迫ってきて、闇の水中に沈んだ。

 手足を限界まで激しく動かしてみたが、頭が水面上に浮かび上がる気配はなかった。


 崎川は無意識に右手に握り締めていた傘を落としていた。すでに横から吹き付けるような雨のために、全身が雨に濡れていが…。陸堂が落ちた河の水面をよく見ようと、土手の上から斜面を降りていくと、足裏の感触が消えて尻の下に地面が動いていた。

「くっ!」

 どうにか土手に生えている草を掴んで、体が滑っていくのを止めた。足元に視線を向けると、足の数センチ先は岸壁の端で、その先には濁流が音を立てていた。

(落ちたら、さすがに命はないわね)

 崎川は背中に嫌な感じが満ち、それを小さく震えて体から追い出した。慎重に体を起こして、再び荒れた川面に視線を向けた。

 そして小さく頷くと、土手をゆっくりと上り始めた。全身が濡れていたが、不思議と寒さは感じなかった。

 三匹の犬たちの気配も消えていた。一匹は陸堂と同じように川の中に落ちた。残りの二匹は崎川の支配が途切れて走り去っていた。

 崎川は何かを思い出したように、早足で歩き始めた。

 数分後、止まっていた車の助手席のシートに、ずぶ濡れの体を預けた。

「終わったの?」

 運転席から問いかけたのは、瀬川だった。瀬川は夜にもかかわらず黒いキャプを被り、黒っぽいスラックスとシャツを身に着けていた。

 瀬川の問いに、崎川は首を小さく縦に動かした。

「陸堂は…本当に死んだのね?」

 崎川は髪から滴る水を拭うこともせずに、瀬川に視線を向けた。その目は、何か助けを求めている者のようにも、何か大事なものを失った者のようにも見えた。

「あの濁流に流されて生きている奴なんていないわ」

「陸堂は確実に川に落ちたのね?」

 崎川はシートに頭を擦り付けるように乗せてから口を開いた。

「落ちるところを、はっきりと見たわ。…もう疲れたのよ。帰りたいわ」

 声が途切れると、雨粒が車体を叩く音が充満した。

 瀬川は窓の外に視線を向けてから頷いた。そして車のライトを点け、視界の悪い前方を睨むようにしてハンドルを握り、アクセルペダルを少し乱暴に踏んだ。


 季節が二つ過ぎた。

「今度の依頼は、少し難しいわ。でも、あなたなら大丈夫よ」

 瀬川はタブレットに映し出された細面の中年の男の顔を見ながら、微笑んだ。

「任せておいて、いつもどおり完璧にこなすわ」

 崎川の顔から以前のどこか不安げなところがほとんど消え、自信が溢れている。

 天誅団は瀬川と崎川が運営の主体となっていた。以前にも増して、多くの依頼を受けている。

 夕菜の死体は見つかってはいないが、無事に戻ってきてもいない。

 陸堂は家族から警察に捜索願が出され、公園の防犯カメラに豪雨の直前に河原の方角へ走っていく姿が映し出されていた。警察による捜査が数ヶ月間行われたが死体が発見されず、認定死亡とされ、捜索は打ち切られた。

 陸堂の家族には保険金が支払われ、陸堂家の母子が新たな人生を歩むための資金となった。


 十五年以上前に新車登録されたと思われるミニバンが、陸堂の家が見えるコンビニエンスストアの駐車場に止まっている。その車の運転席にいる男、黒縁の眼鏡をかけてマスクをしている、が呟くように言葉を発した。

「これで、俺がいなくても大丈夫だ」

 手に持ったスマホの画面には、陸堂の妻の預金口座の残高が表示されている。

「陸堂、本当に元の暮らしに戻らなくていいの?」

 後部座席から届いてきたのは、夕菜の声であった。横を走っていく車のライトが、車内を一瞬だけ浮かび上がらせた。

 夕菜は後部座席から、陸堂の視線の先を見ていた。以前は、その家の明かりの中に陸堂いたのだった。

「言っただろう?もう俺は、あの家には必要ない。暮らしていくのに十分な保険金が入った」

 車のサイドブレーキが外された。

 陸堂は周囲に騒音を撒き散らさないように、ゆっくりとミニバンを発車させた。

 夕菜はさらに言葉を続けようとしたが、下唇を浅く噛んだだけにした。昨晩に独り言のように陸堂が言った「これだけ人を殺しておいて、人並みの幸せを受け入れることができるほどの神経は残念ながらない」という言葉が、記憶にまだ残っていた。記憶に残っていたのは、似たような言葉が夕菜の頭の中にも何度も浮かんでいたからだと分かっている。

 陸堂は加速していく車の中で、家族だった者が暮らす家を振り返ることはなかった。


 高速道路への上り口を加速し始めてから二時間が過ぎた頃、夕菜は口を開こうかと思案した。そろそろ、沈黙が支配する車内の空間に飽きを感じ始めていたのである。

 ふと何ヶ月も前に、今と同じように車内で話したことを思い出していた。

 その頃は、夕菜と陸堂がこの世からいなくなったことになって間もない頃であった。

「瀬川を、どうやって私たちを殺させるように仕向けたの?瀬川は私のことを無条件に信頼していると思っていたわ」

 陸堂はルームミラーに視線を一瞬だけ向けた。左へと少しハンドルを切って、走行車線に車を乗せてから口を開く。

「確かに、瀬川はあんたのことを信頼していた。ほとんど崇拝していたと言ってもいいような状態だったよ」

「それをどうやって私を殺すように仕向けたの?私は瀬川さんに殺されるほど憎まれるようなことをした記憶はないわよ」

 夕菜は少し口を尖らせた。

「瀬川は憎しみによってあんたを殺すことを選んだわけではないよ」

 陸堂は缶コーヒーの中身を一口、喉に流し込んだ。

「それなら、どんな理由で私を殺すつもりだったの?」

「天誅団を守るためだ。少なくとも、瀬川はそう信じていた。君に天誅団をこのまま任せていたら、罪のない人までも俺に殺されてしまうことになり、そうなれば天誅団の存在が危うくなると…」

 夕菜は眉間に皺を寄せた。

「私は間違った指示を出したことはないわよ」

 陸堂は口の端だけで笑った。

「俺も罪のない者を処分した覚えはない」

「瀬川さんの勝手な思い込みだったということ?」

「そこまで瀬川は間抜けではないよ。瀬川のような人は、自分の不安に思っていることを肯定するような情報が入ってくると、それを信じやすいというだけだ」

 夕菜も、口の端だけに笑みを浮かべた。

「あなたに騙されたということね」

「俺が直接に瀬川へ偽の情報を伝えれば、その情報は疑われる。でも、俺はほのめかすだけにして、瀬川が自分で探し出した情報なら信じる」

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