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獣ジャック  作者: 八女 将
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第四部

第四部


 安海は評判の良い市役所職員であった。仕事ぶりもまじめで、家庭を大切にする男だったようである。死亡当時、三歳年下の妻との間にできた五歳の娘を溺愛していて、その子煩悩ぶりは周囲の同僚に苦笑いを浮かべさせるレベルであった。

 そんな安海に関する噂の中で気になるものがあった。それは、安海は若い頃は女癖が悪かったというものである。しかしながら、安海と昔に同じ職場で働いていた者は違った考えを持っていた。

 安海がまだ独身だった頃、職場に臨時職員の女性、根岸美津代が配属された。美津代の体重は、同じ身長の女性の平均より三十キロほど重かった。また、彼女を見た人のほとんどが陰気な印象を受けると思われる雰囲気を持っていた。

 美津代は事務補助の仕事であったがミスが多く、女性の上司からきつい言葉を投げられることが多かった。時には、今なら、パワハラで訴えられるような説教も受けていた。

 そんな美津代に、安海は何度か慰めの言葉をかけた。安海にしてみれば、女性上司のフォローをするつもりでかけた言葉であったが、美津代にとっては衝撃的なほどに嬉しいことであった。美津代の人生で、自分に優しい言葉をかけてくれた記憶があったのは、母親と祖母以外にはいなかった。

 美津代は安海に急速に惹かれることとなった。

 その後の美津代の安海に対するアプローチは、周囲の目からはあまりに痛々しいものだった。

 美津代はそれまでの体のラインを隠すような大き目の服、太っている彼女の体がさらに大きく見えた、から胸の大きさを強調する服に変えた。そして、薄い色の口紅を塗るだけだった化粧も、アイラインまでしっかりと入れたものに変えた。

 仕事中に少しでも時間があると、美津代の視線は安海の上に注がれた。

 しかしながら、安海は美津代を恋愛の対象としてはまったく見ていなかった。それでも、安海は美津代と視線が合うと、微かに顔をほころばせた。

 それは美津代にとっては、誤解を抱くには十分なものだった。美津代のそれまでの人生では、接客以外で異性から優しい表情を向けられたのは無口な自分の父親と母方の伯父だけであった。従兄弟さえも、美津代に対して冷ややかな表情しか見せなかった。

 美津代の行動が常軌を逸してきたのは、臨時職員の任期が終了して一ヶ月半が過ぎた頃であった。

 安海は仕事が終わって庁舎から駅に向かう途中で、視界の端に記憶にあるシルエットの人物を捉えた。しかし、何か自分の中に警告を発するものがあり、そちらに焦点を合わせずに、歩き去った。

 その翌日も、さらに次の日も安海は同様の行動を余儀なくされた。なぜ知り合いである美津代に声をかけなかったのか後になって少し後悔したが、その時は美津代の視線から受ける印象に恐怖に近い嫌悪感を感じたのである。

 一週間が過ぎると、安海の後を付いてくるようになった。

 安海はそれから毎日、美津代の追跡から逃れるために職場の最寄り駅までの帰り道を変えた。

 そうすると、美津代は帰宅時の駅のホームに現れた。

 安海の恐怖と嫌悪は高まってきていた。職場の同僚に相談したが、冗談半分に「もてる男はつらいね」などと言われるだけで、有益なアドバイスや助力は期待できなかった。

 安海は帰宅ルートを変えた。遠回りになるが、それまでとは別の鉄道を使って通勤するようになった。今までの最寄り駅の倍の距離も離れていたが、美津代に会わずに毎日が過ごせるだけで安海は安堵していた。逆に言えば、安海はそんな風に考えるほど精神的に追い込まれていたのである。しかし、その安堵が訪れた日々も短い期間しか続かなかった。

 安海が帰宅すると、美津代が家にいた。

 安海は両親と暮らしていたが、母親が家に訪ねてきた美津代を家に上げていたのである。

「職場の同僚の方が、いらっしゃっているわよ」

 玄関に入ってすぐに母親からそう声をかけられて、安海に緊張が走った。嫌な予感がした。そして、その予感は当たることになる。

 安海は自分の家の居間にいる美津代を見つけた。

 美津代は少し不安げな笑みを浮かべて、ソファに座っていた。背もたれには背を着けず、浅く腰掛けて居間に入ってきた安海を見上げていた。

 安海は自分の母親が異変に気付いて、怪訝な表情を浮かべているのを視界の端に感じていたが、こみ上げてくる怒りを完全には抑えることができなかった美津代に暴力を振るわずに済んだことは、母親がいたおかげであると後になって感謝することになったが…。

 暴力は振るわずに済んだが、罵詈雑言はほぼ無意識のうちに自分の口から溢れるように流れ出していた。

 気付いた時には、美津代は絶望を目の中に湛えて、安海を見ていた。そして、その体格に似合わない俊敏さで安海の前から消えた。

 玄関の扉が閉まる音が響いた。

 安海の母親が少し震えるような声を発する。

「あんなに酷いことを言っても、大丈夫なのかい?」

 その一言で、美津代に向けて発せられた罵詈雑言が安海の脳裏に鮮明さと暴力的な衝撃を伴って蘇った。

 自分の中から出てきた凶器的な言葉に、安海は全ての思考をしばらくの間、奪われた。その衝撃から立ち直ると、すぐに玄関へと足を向け、靴の中に足を入れた。

 家の前の道まで出たが、すでに美津代の姿はなかった。とりあえず駅の方へと走ったが、見つけられなかった。携帯電話を取り出して、以前に職場の連絡網のために登録していた美津代の連絡先を呼び出してかけてみたが、美津代は電話には出なかった。そして、美津代が安海の電話に出ることはこれ以後なかった。

 暴言を吐いたことへの後悔と、この時まで溜まっていた鬱憤を吐き出すことができた爽快感の間で、安海の感情が何度も往復した。

 それから四日が過ぎ、職場で、ある噂を耳にした。

「以前にアルバイトに来ていた子が自殺したみたいね」

「確かに暗い感じの子だったけど、自殺するとはね」

「そう言えば、安海君に付きまとっていたらしいわね」

「それって、ストーカーだったということ?」

「安海君が相手にすると思う?」

「相手にしないわね」

 給湯室で女性職員が話しているのが聞こえてきた。安海は喉の奥に唐突に異物が現れたように、息をするのが苦しくなった。そして、噴き出してくる汗を止めるためにトイレに入って、洗面台で何度も顔を洗った。

 美津代の引きつったような表情が脳裏に浮かんだ。罵倒されて美津代は何を思ったのかは、安海には分からなかった。安海自身が追い詰められていたという感じは覚えていた。

 翌日、安海は美津代が両親と共に暮らしていた家に向かった。鞄の中には香典袋が入っていたが、美津代が自分を振り向かせるために仕組んだ狂言ではないかという思いを捨てることができなかった。

 それでも、玄関ドアの向こうから現れた美津代の両親に案内されて、美津代の遺影が掲げられた仏間に通されると、現実が迫ってきた。

 位牌の前に座りながら線香から立ち上る煙を見ていると、背後から話しかけられた。

「先ほど、安海さんと名乗られましたが、市役所にお勤めの方ですか?」

 玄関で「安海」と名乗った途端に、美津代の両親が発していた雰囲気が硬くなったことが思い出された。

「はい」

 その返答に美津代の両親の表情が明らかに険しくなった。

「お帰りください」

 美津代の母親の声に安海が戸惑っていると、父親が声を発した。

「帰ってくれ。お前が美津代を殺したんだろう!どういうつもりで、ここに来たんだ」

 安海は立ち上がり、部屋を出た。後ろ手にドアを閉めようとしたが、声を絞り出すようにして発した。

「僕が殺したとは、どういう意味なのでしょうか?」

 安海はその答えをなんとなく分かっていた。それでも、返ってくる答えが自分の予想していたものとは違うものであることを期待せずにはいられなかった。

「美津代にとって、あんたが唯一の救いだった…。それなのにあんたに酷い仕打ちを受けて、あの子は…そうなんだろう!」

 美津代の父親が発した恨みのこもった言葉に、安海は強い憤りを覚えた。安海にしてみれば、美津代にストーカー行為を受けたのは自分であり、それに対して正当な反撃をしただけという思いがあった。

 しかし、美津代の両親は一人娘を失ったという大きな喪失感を少しでも和らげるために安海に怒りを向けていることは明白であった。そして、そんな人たちに対して、さらに娘が行っていた犯罪にも等しい行為を暴露して、失意の底に沈めることはできなかった。

 もし、この時に安海が美津代の両親に対して、美津代が安海に対してしてきたことを話していれば、彼の運命は大きく変わっていただろう。

 なぜなら、安海の殺害を依頼してきたのは美津代の父親であったからである。美津代の死から七年もの間、美津代の父親は安海の身辺を調べ続けていた。一人娘の美津代を死に追いやった男を破滅させる方法を調べ続けていたのである。

 そして、天誅団のことを知った。それと同時に、天誅団に依頼するには標的となる人物が罰を受けるに値する罪を犯していることを示す必要があることも知った。

 美津代の父親は生来の執念深さで安海のことを、さらに調べた。しかしながら、安海を弾劾するに値する事実を見出すことができなかった。

 それでも、美津代の父親は諦めなかった。事実がないなら、作り出すべきだと考えた。安海は娘の命を奪ったのだからと…。

 そして、美津代の父親は集めた情報を再構築して、安海が極悪人であるというフィクションを作り上げた。

 そのフィクションを信じてしまったのが、夕菜であった。美津代の父親の話の裏付けを得るために、夕菜は調査を行った。確かに美津代の父親の話と矛盾する内容は出てこなかった。

 そして、それ以上に美津代の父親が作り上げたフィクションには真実味が備わっていた。集めた情報をフィクションの内容を肯定するためにうまく利用していた。何より、美津代の父親の執念があったのだろう。その歪んだ執念を見抜けなかった夕菜は、天誅団の選定者としては不適格であった。

 それによって、安海は死を迎えることになってしまった。天誅団が与えるべき死ではなかった。確かに、安海は罪を背負っていたが、その罪は天誅団が裁く罪ではなかった。

 瀬川は夕菜に、安海が美津代からストーカー行為を受けていて、その逆襲で吐いた言葉によって美津代が自殺したことを告げた。

「でも、安海という男が一人の女性を死に追いやったことは間違いないわね」

 夕菜のこの言葉を聞いて、さらに、美津代の父親が安海の罪を捏造していたことも告げた。

「それでも、安海の罪が消えたことにはならないわ。その罪を弾劾するために、自殺した女性の父親は多くの労力を費やしたのでしょう?」

 夕菜は瀬川から視線を外していた。

 瀬川には夕菜が自己正当化しているという風にしか受け取ることができなかった。

「それでは、夕菜は安海が死に値する罪を犯したと考えているの?」

「…そう考えたから、あなたに仕事を頼んだのよ」

 夕菜からの返事が、瀬川の耳に達するまで、しばらくの間が必要であった。この間は夕菜自身が自分の言葉の正当性に疑問を持っていることの証左であると思われた。

 瀬川の決心がついたのは、この時からであった。つまり、天誅団、そして陸堂を破滅させる、という決心である。

 瀬川は天誅団について調べ始めた。まずは夕菜のことから…。

 予想していたことであるが、夕菜は自分のことを語らなかった。夕菜の姓も、夕菜が本当の名であるのかも分からなかった。直接に会うこともほとんどなく、素顔を見たこともなかった。

 それでも、瀬川は少しずつ情報の断片をつなぎ合わせて形にしていった。

 そして、夕菜の本名と自宅を突き止めた。

 夕菜の本名は霧岡友香、有名私立大学の大学院生であった。家は裕福で、父親は医者で医院を経営していた。一人娘である夕菜には金銭的な援助は惜しまなかった両親であるが、家族で旅行に行くような姿を近所の人が目撃することは、十年以上もなかった。

 霧岡友香は夕菜とは服装の趣味も、化粧の仕方もかなり違っていて一見すると同一人物には見えなかった。しかし、よく見ると、かなり似ているのは確かであった。

 霧岡友香には仲の良い友人というものはいなかった。大学の食堂で、同回生らしき者に声をかけれれても軽く会釈するだけで、近づいて行こうとはしない。まるで、他人との距離を埋めることに恐怖心を抱いているような印象だった。

 天誅団の選定者としての夕菜と霧岡友香は別人にしか感じられなかった。夕菜が瀬川に対する時の自信に満ちた態度は虚勢であったのかとも考えた。しかし、瀬川は虚勢だと感じたことは、それまではなかった。それ故、夕菜と霧岡友香が同一人物であることの確認を執拗に繰り返すことになってしまった。

 そんな時が過ぎ、ついに瀬川に確信を持たせたことが起こった。霧岡友香の後を尾行していた時に、それを目撃した。

 霧岡友香の少し前を歩いていた三十代前半に見える女性が、吸っていたタバコを火のついたまま道端に投げ捨てた。まだ、半分も吸っていないタバコであった。それを霧岡友香は拾い上げて、足を速めた。

 そして、前を歩いていた女性に追いつくと、肩から提げていたトートバッグの中に背後から、火の点いたままのタバコの吸殻を入れたのである。霧岡友香はそのまま足を緩め、次の十字路を左に曲がって、タバコを投げ捨てた女性と違う方向へ歩いていった。

 それを見て、瀬川は夕菜の言葉を思い出した。

 夕菜はその時、報酬の受け渡しのために来ていた喫茶店の窓から外を見ていた

「タバコを火の点いたまま捨てるような奴には、その捨てたタバコを、そいつの服のポケットか鞄の中へ押し込んでやりたいわ」

 これはタバコのポイ捨てをした若い男に対して吐いた言葉であった。

 翌日、陸堂に夕菜の情報を渡した。瀬川の運転する車の助手席で、陸堂は資料にしばらく視線を落としていたが、ふいに瀬川を見た。

「本当にやるのか?」

 瀬川は車の速度を緩めて、陸堂と視線を一瞬合わせた。陸堂の目には、不安の色はないように見えたが、どこか瀬川を探るような感じがあった。

「私の中では、他に選択肢はないわ」

 陸堂はしばらく、車窓から視線を外に投げていたが、瀬川にゆっくりと視線を戻した。

「分かった。あんたのプランに乗ろう」

 車は交通量の少ない道に入って、止まった。

 車の速度が路面に対してゼロになると同時に、助手席のドアが開いた。

 陸堂は降り、車の進行方向と逆に向かって歩き始めた。背後でエンジン音が大きくなると背後を振り返って、車影が遠くなっているのを確認した。

 携帯電話を取り出し、耳に当てた。

「本気のようだった。どうする?」

 陸堂はしばらく、電話の向こう側の声に耳を傾けていた。そして、苦笑を浮かべた。

「分かった。仕方ないな。いつまでも、こんな生活を続けることは許されないのだろうとは思っていたが、やはり失うのは怖いな」

 携帯電話をポケットにねじ込み、歩く速度を増した。


 その日は五歳の娘が通うダンス教室の発表会だった。

 通い始めて半年しか経っていない娘が出演したのは、小学二年生までの他の生徒と一緒に踊る演目であった。全員がお揃いのTシャツと短パンを着ていた。頭に付けられたリボンでそれぞれの個性を演出している。

 緊張した面持ちの娘をビデオカメラで撮影しながら、隣の妻を見ると、不安を湛えた笑顔で娘の勇姿を見守っていた。

 発表会が終わって娘が楽屋から出てくる間、妻はママ友たちとの雑談に忙しかった。

 ふと携帯電話を見るとメールが入っていた。そこには瀬川から夕菜の居場所についての詳細が書かれていた。夕菜にしては珍しく、大学の友人たちと出かけているようである。

(確かに、ちょうどいいな)

 陸堂は二通のメールを送り、妻の横に立った。

「仕事が入った。行ってくるよ」

 陸堂の妻は、陸堂からビデオカメラを受け取りながら、頷いた。

「もう発表会も終わったから、皆でファミレスに行こうと話していたのよ。車で仕事に行くの?」

 陸堂は首を振った。

「車は使うだろう?君たちがファミレスに行く前に、近くの駅まで送ってくれればいいよ」

一時間もかからずに瀬川から指定された駅の改札口を出ていた。

 駅のロータリーに瀬川の車を見つけて乗り込むと、瀬川は幾分緊張したように見える顔を向けてきた。

「夕菜は大学の友達たちと一緒にいるわ。夕菜が友達と無防備に遊んでいるなんてことは滅多にあることではないわ」

 車が加速を始める。

「夕菜の居場所が良く分かったな。それにこんなに手際よく俺を呼び出して、迎えにまで来るなんて…」

「夕菜が昨日、話していたのよ。夕菜が自分のことを話すなんてほとんどないことだったから、少し意外だったけどね」

 しばらく車内は無言の時間が過ぎ、止まった。陸堂は瀬川の視線の先に、自分の視線も向けた。

 晴れた空の下に、若い男女六人がバーベキューを楽しんでいた。

 陸堂はその光景を見て、自分が学生だった頃を思い浮かべたが、幸せな気分にはなれなかった。人と交わることを好まなかった自分を思い出しただけであった。

(その部分は、夕菜と俺は似ているな)

 視界の中に小さく映っている夕菜も、どこか友人たちの輪の中に体半分だけ入って、残り半身は自分だけの世界にいるように見えた。

「さて、どうする?近くに犬の姿もないな」

 急なことだったので、操れる犬をどこかで調達してはいなかった。

 瀬川はスマートフォンを操作して、画面を陸堂の方へと向けた。

「近くにドッグランがあるわ。行ってみましょう」

 陸堂が頷くと、車のパーキングブレーキが開放された。

「今日は娘の発表会だったんだ。妻に連絡を入れておくよ」

 そう言って、陸堂は自分のスマートフォンを取り出した。

(時間はどれぐらい必要だ?)

 メッセージを打ち込むと、すぐに返信があった。

 陸堂は二回、視線で文字を追ってから、画面を消した。

「あの辺りのようね」

 五分ほど経つと、左側に開けた土地が見えてきた。小屋の横に、人の肩ぐらいの高さの柵が連なっている。

 目を凝らすと、柵の向こうには人の姿があり、そして犬もいた。

 柵の道路側は駐車場のようで、ステーションワゴン、軽自動車、ワンボックスカーなど様々な車が駐車されてる。

 瀬川は道路から駐車場へと車の鼻先を向けた。

 車が止まると、先に瀬川が降りた。そして、陸堂を急かすように車内に視線を向けた。

 陸堂はドアを開けて、地面に靴底を着けた。

「あの犬なんかどうなの?」

 瀬川の指先には大型犬がいた。薄茶色の毛並みのラブラドールレトリバーである。ラブラドールレトリバーは盲導犬などにも向いている知能も運動能力も高い犬である。

「あの犬には無理だ」

 その犬は毛並みの様子から、高齢であるように見えた。そして何より、太りすぎていて動きが緩慢だった。

「でも、あの犬しか使えそうなのはいないわよ」

 確かに、その犬の他は小型犬ばかりである。

 陸堂は腕時計に視線を素早く向けた。

「あの犬は夕菜のところまで走ることさえできそうもない」

 瀬川はさらに食い下がる。

「意外と大丈夫じゃない。体が重そうな感じだけど、獣なんだから走れるわよ」

 陸堂は首を振った。

「だめだ。失敗するわけにはいかない。使えそうな犬が現れるまで待つ」

 瀬川は不満が顔に出ていたが、あえて反論はしなかった。

 二人はしばらく、ドッグランの中にいる犬たちの姿を目で追いかけていた。

 意外と早く、陸堂の希望にかなう犬が現れた。

 ガンメタリック塗装のワンボックスカーの後部ドアがゆっくりと開いた。電動ドアが開き切る前に犬と少年が飛び出してきた。小学生の高学年に見える少年は良く陽に焼けている。

 少年は慣れた様子で、ドッグランの扉を開けると、犬と一緒に入り、すぐにリードを外した。

 白い毛並みの大型犬が少年と併走し始めた。精悍な顔つきと、立った耳、長くはないがしっかりとした毛、太い足、シベリアンハスキーである。しかも、普通のシベリアンハスキーよりも大きな個体である。

 少年は軽やかに足を振り出し十分に速いが、犬は軽く歩調を合わせているという感じである。

 瀬川が陸堂に視線を合わせた。

 陸堂は小さく二度、頷いた。

「こいつなら、十分に使える」

 そう言って、陸堂は近づいていき、足を止めた。

 白い大型犬が何か気になることでもあったかのように、唐突に足を止めた。少年が口笛を吹いて呼んでも、動かない。

 陸堂は反転し、足早に戻ってきた。そのまま、助手席に乗り込むと、瀬川に車を出すように言った。

 一方、白い大型犬はドッグランを囲んでいる柵に向かって加速した。柵に当たるかと見えたが、数メートル手前で一気に空中へ身を浮かせた。素晴らしい跳躍を見せ、犬は柵を余裕を持って越えた。

 音もなく軽やかに地面に四本の足を着けると、止まることなく走り出した。

「マギー!」

 飼い主が名前を呼んでも、振り向くことさえしない。何かに向かって、淡々と走っていた。

 陸堂と瀬川が乗った車は、夕菜がいる場所へと向かっていた。

「犬は大分、先に行ってしまったようだ。追いついてくれ」

 瀬川は陸堂の言葉に促され、アクセルを踏み込んだ。

 目的の場所は、すぐに見えてきた。

 車はかなりのスピードが出ていて、それを運転する瀬川は緊張した視線を前方に向けている。

 陸堂は携帯電話を素早く操作して、すぐにポケットに戻した。

「あの犬じゃないの?」

 瀬川の視線の先には確かに、先ほどの白い犬の姿があった。

 車が駐車スペースに収まると、陸堂はすぐにドアハンドルを引いた。目立たないように、木や車の側を伝いながら移動していく。

 陸堂は近づいて行きながら、白い犬を支配下においていく。

 後ろから、瀬川が追いついてきた。

「夕菜は今、どこにいる?」

 陸堂の問いに、瀬川は視線を素早く動かした。

 夕菜の友人たちの姿はすぐに確認できた。バーベキューサイトで、皿やコップを手に持ち、顔には笑みを浮かべている。何かのテレビCMにでも出てきそうな雰囲気を醸し出している集団であった。

 しかし、そこに夕菜の姿はない。

「夕菜はいないわね。先に帰ったのかしら?」

 瀬川の言葉に、陸堂は頷かない。

「帰ってはいないだろう。ここに来るのに夕菜は誰かの車に乗ってきたはずだ。見当たらないのは夕菜だけだから、帰ったとしたら夕菜が一人で帰ったことになる。しかし、それは考え難いな」

 瀬川は夕菜の姿を探し始めた。

 陸堂は白い犬を自分の近くまで呼び寄せた。

「これから、お前には頑張ってもらうことになる。失敗は許されない」

 白い犬はまるで理解しているかのように、陸堂の言葉に耳を傾けている。

 陸堂は犬と意識を通じ合わせるために、犬の目を覗き込む。

 草を踏む音が、斜め後ろから聞こえてきた。続いて、瀬川の声が届く。

「夕菜がいたわ」

「どこにいた?」

 瀬川は少し焦っているようにだった。

「向こうの岸壁の側に一人でいたわ。絶好のチャンスよ。すぐに行きましょう」

 陸堂は小さく頷くと、瀬川の後を追った。

 しばらく早足で行くと、瀬川は急に立ち止まった。

 その視線の先を追うと、瀬川が焦っていた理由が分かった。

「確かに、これはチャンスだな」

 風が吹き抜ける。その風の中に夕菜は立っていた。なぜそんなところに立っているの?という言葉が、見る者の口から漏れてきそうになる光景である。

 海に向かって、人の倍以上の横と縦の長さがある岩が張り出していた。その岩は崖の上にあり、おそらく全体の三分の一ほどが宙にせり出している。

 夕菜はそのせり出した部分にいた。

 その光景に陸堂は思わず、瀬川を見た。 

「チャンスよ」

 瀬川は何も疑問に感じることもなく、不意に訪れた幸運に興奮していた。

 風が少し強くなってきた。樹々の葉が揺れて出す音が、辺りの空気を圧迫してきていた。

 陸堂は息苦しさを感じていた。最初に瀬川からの依頼を実行した時と同レベルの緊張感が襲ってきていた。

「どうしたの?チャンスなのよ!」

 苛立ちが抑えきれず、瀬川の声に棘が含まれ始めた。

 陸堂は二歩前に出た。横に座っていた白い犬は、姿勢を低くして、すぐにでも飛び出せそうに構えていた。

 陸堂は鼻の頭を人差し指の背でこすった。

「行け!」

 小さな息を吐き出すように、声を発した。

 白い犬は走り出した。内に溜めていた力を一気に解放するように、体全体を使って走っていく。

「もっと静かに近寄らせないで大丈夫なの?夕菜が気付いてしまうわ」

 瀬川の非難めいた声にも、陸堂は反応せずに白い犬を真剣な目で凝視している。

 瀬川は今までに何度か陸堂の天誅団での「仕事」の様子を直接に目にしていたが、今回は最も緊張感が漂っている。

 女性の悲鳴が遠くから響いてきた。

 陸堂の横顔から、視線を声のした方へと一瞬にして向けると、白犬と夕菜の姿が重なっていた。

 そして、次の瞬間、夕菜の姿だけが消えた。白犬は陸堂の呪縛から開放されたのか、軽やかな足取りで走り去っていった。

「落ちた?」

 思わず近寄って行こうとする瀬川の腕を、陸堂は強く引いた。

「何をしている?早くここから立ち去るぞ。あちらに見ていた人がいる」

 陸堂の指先を追うと、男女二人が先ほどまで夕菜のいた場所から二十メートルほどのところにいて、近づいていこうとしている。そして、夕菜がいた岩の上に男が先に上り、続いて女が岩の上に立った。

 崖の下を見た二人は明らかに驚いた様子を見せた。

 瀬川は陸堂の手を振り払うようにして、夕菜が先ほどまでいた岩に向かって早足で向かった。

 陸堂は少しの間、その背中と見知らぬ男女二人を見比べていたが、瀬川を追った。

「何かあったのですか?」

 瀬川が男女二人に声をかけると、引きつった表情を浮かべて、男が振り返った。

「ひとが、人が落ちたようなんだ」

 金髪に頭を染めた男が、何か自慢でもしているように、見たことを話し始めた。

「そこに女が座っていたんだけど、犬が急に走ってきて、女の背中に飛び掛ったんだ。そうだよな?」

 金髪男の連れの女は、目の周りを不気味なほど黒く塗っていたが、目を大きく見せるためらしき努力は無駄に終わっていた。

「そう、そう!女と犬が一緒に下に落ちて行ったのよ」

 金髪の男が口を挟む。

「犬は落ちてない」

「えーーー。落ちたように思ったけど!」

 口喧嘩を始めたカップルを放っておいて、陸堂は覗き込むように崖の下に視線を向けた。

 晴天の下に、濁った水が激しく渦を巻くように流れている。

 昨日に日本の南の海上を大型の台風が通り過ぎていった。その台風は直接には日本列島に触れることはなかったが、昨日の夜から、今日の未明にかけて大雨を降らせる力を持った大きな雲団を運んできた。

 それが原因で降った豪雨が、川幅を普段の倍に作り変えていた。

「ここに落ちたら助からないわね…」

 瀬川も濁流渦巻く川面に視線を向けながら呟いた。

「今、人が落ちたんだ。すぐに来てくれ…場所?ええと・・・」

 金髪男がようやく警察に通報することに思い至ったようである。しかし、警察に見たことを説明するどころか、自分が今いる場所さえも伝えることができていない。

 それに軽蔑に近い視線を向けてから、陸堂は瀬川にだけ聞こえる音量で言った。

「もういいだろう?早くここから立ち去ろう。警察が来たら、面倒だ」

 瀬川は頷く代わりに、反論をする。

「どうして?少しぐらい調べても、私たちと夕菜との接点を見つけ出すことはできないわ。警察が来ても、見たことを少し聞かれて終わりよ。警察のことより、夕菜が本当に落ちて死んだのかを確かめたいわ」

 瀬川は少し興奮状態にあるようであった。それに自分で気付いていないのが、その証であった。

「本気で言っているのか?もし、今回は疑われなくても、これから同じような現場に俺たちがいる可能性は高い。そうなれば、警察も当然ながら、俺たちを疑うことになる。そんなリスクを負うのか?」

 陸堂の言葉に、瀬川は唇を少し噛んで何かを考えているようだった。十秒ほどして、瀬川は車の方へと大股で歩き出した。

 車に乗り込んでから、ようやく瀬川は口を開いた。

「早くここから去った方がいいわね」

 陸堂は瀬川を見たが、冷静さを取り戻しかけている横顔しか捉えることができなかった。

 駐車場を出て、数分走ったところで、サイレンを流しながら自分たちが来た方へと向かうパトカーとすれ違った。

 翌日、小さな記事が地元新聞の地方版に掲載された。それには、大学のサークルでバーベキューに来ていた女子大生の一人が増水した川に転落したと書かれていた。死体は発見されていないが、警察が河口までの七キロを捜索中であると。


 夕菜の遺体は二週間が過ぎても発見されていなかった。警察の捜索は、何日も前に打ち切られていた。

 その全席個室の居酒屋は、まるでかまくらのような席が店内に並べられていた。もちろん、雪で作られているわけではなく、樹脂製のドームを白く塗装しているのであった。

 瀬川の向かいの席には、縁なし眼鏡をかけた痩せ過ぎの女が座っている。崎川奈美がその女の名だった。崎川の視線には、微かに怯えの色が混じっていた。

「なぜ、陸堂まで殺す必要があるの?あなたの意見に同調して、夕菜を殺したのでしょう?」

 瀬川は目の前の女を安心させるように、柔らかな微笑を浮かべた。

「そうね。確かに、私の意見には賛成してくれたわ。でも、陸堂は二つの大きな間違いを犯しているわ。一つは夕菜のことを盲目的に信じて、安海を殺したこと。そして、仲間である夕菜を殺したこと」

 崎川は瀬川に疑問符のついた視線を向けた。

「それなら夕菜を殺すように依頼した私も同罪だと言いたいようね。確かに、そうだわ。でも、夕菜と陸堂は罰を受ける必要があったのよ」

 そう言った瀬川の表情には迷いは浮かんでいなかった。

 崎川は恐怖に近いものが湧き上ってきそうになったが、どうにか微笑を浮かべた。

「もう、この話は終わりにしましょう。私たちにはやるべきことが多くあるわ」

 瀬川は座席の端に店員が置いていった伝票を持って、先に立ち上がった。

 崎川はその背中を見ながら小さく頷き、自分に向かって呟く。

(もう、後戻りができる状況ではないのよ)

 店を出ると、雨粒が鼻頭に当たった。空を見上げると、濃い雲が頭上を覆っていたが、その雲は西の空で途切れ、青空が狭い範囲ではあるが覗いていた。

 崎川の思考は過去へと飛んだ。

 高校二年の冬、その季節にしては暖かい日の夕方。

 アルバイト先からの帰りの途中にある一級河川の河原で、暗い遊びをしていた。その遊びは、今になって考えると、もう二度とやる気になれない遊びであった。

 その日のターゲットは偶然に見かけた野良犬であった。赤毛の中型犬で、片方の耳だけが垂れ下がっていた。

 その頃、犬をまだ自由には操ることはできなかったが、単純な命令に従わせることはできた。

 野良犬に命じたのは、走ることだった。全速力で走らせた。そして、その先には橋脚があった。コンクリート製の頑丈でかなりの大きさのものである。

「キャン!」

 犬の悲鳴が響いた。その悲鳴は橋脚に向かって野良犬が走り、鼻先から衝突する度に響いていた。四度目に響いた頃には、犬は平衡感覚を失い、左右に体を不規則に揺らしていたが、それでも橋脚に向かって走ろうとしていた。

「あなたがやっているのね」

 唐突に背後から声をかけられて、崎川は首が痛くなるほどの勢いで振り返った。

「何?」

 崎川の視線の先には、自分よりも年上の女の顔があった。そこには微笑が浮かんでいた。

「あの犬よ。あなたが操っているのでしょう?」

 年上の女の視線の先を確かめる必要もなく、そこには崎川が操っていた犬がいた。

 崎川は自分の心臓が激しく動いているのを感じていた。今まで、この力があることに気付いた者はいなかった。母親がいれば、崎川が幼い頃に気付いたのかも知れない。

 しかし、母親は崎川が十歳になる前に寿命を迎えた。父親は妻の若すぎる死に落胆し、妻と似ている娘を愛しながらも、娘と少し距離を置く様な接し方しかできなくなってしまった。

 崎川が自分に犬や猫を操る力があることに気付いたのは、母親の葬式が終わって、半年ほどした頃であった。それまでも、犬や猫を呼ぶと、ほとんどの場合すぐに自分に寄ってきた。それを見ていた友人が羨ましがったこともあった。

 しかし、自分に特別に備わっている力に気付くのは、母親を失って生じたやり場のない怒りを鎮めるための犬への残酷な命令が切欠であった。

 小学校からの帰り道、母親と一緒にスイートポテトを作った時のことを考えながらぼんやりと歩いていた。いつもなら右に曲がるはずだった交差点を、なんとなくまっすぐに行った。次の交差点で右に曲がれば、少しだけ遠回りになるが家に帰り着くので引き返さなかった。

 久しぶりに通った道沿いには、新しい家が建っていた。これといって特徴のない普通の家であった。視界の端にあっただけで、特に気にもしていなかった。

 その家の庭先から、犬の甲高い吠え声が浴びせられた。

 崎川は突然のことに驚いて、小さな叫び声をあげた。しかし、すぐに犬の方を見て、にらみつけた。黒く短い毛を持つ小型犬であった。

 母親との思い出を汚されたような気がして、その黒犬に対して鋭い怒りを覚えた。

「壁に頭をぶつけて死んじゃえ!」

 小声だが、はっきりとした意思をもって言葉を発した。

 吠え声が止まった。次に、湿った衝撃音が届いてきた。そして、同時に犬の悲鳴も。

 崎川は黒犬がぐったりとして動かないのをしばらく見ていた。

「私は何もしていないわ…」

 呟きを残して、再び歩き始めた。

 翌日、交差点に立っていた。昨日に曲がり損ねた交差点である。小さく息を吐いて、曲がらずに真っ直ぐに行く。

 すぐに、新築の家が見えてきた。そして、黒犬の姿も見えてきた。

 崎川の中に安堵が広がった。

 近づくと黒犬は狂ったように吠え始めた。

 崎川の中の安堵が苛立ちに変わった。そして、すぐに昨日よりも鋭い怒りに変わった。

(そんなに私のことが嫌いなら、どこまでも走って行け!)

 崎川は声には出さずに、黒犬を睨みつけながら、そう念じた。自分の中から、形のない塊のような、熱のような、霧のようなものが高速で黒犬に放たれたように感じた。

 黒犬からの吠え声が止まった。そして、何かに叩かれたかのように走り始めた。

 庭と道路との境に作られた金網に激突し、さらに家の壁に、さらに植木に、次々と激突し、それでも止まらない。ついに大きく跳躍して柵を飛び超えると、道路を爆走した。

 その道を百メートルほど東に行くと、幹線道と交差している。崎川はそのことに気付き、背中に寒気が走った。

 黒犬は車が途切れることなく走っている幹線道路に向かっている。片側二車線の道路を運良く無傷で渡り切ることは不可能な交通量であった。

「止まれ!」

 崎川は声を吐き出していた。

 黒犬は硬直したように体の動きを止めた。

 しかし、救おうとして発した言葉は逆に、黒犬の死を招く結果となった。

 車道の中央にいる黒犬に迫ってくるのは、下品なエアロパーツを取り付けた紫色のミニバンだった。本来なら高級感のある車体が、無駄な装飾と目立つ色に染められている。

 法定速度を大幅にオーバーしたその車は、黒犬にまともに衝突し、鈍い音を周囲に撒き散らした。

 黒犬は路肩まで跳ね飛ばされた。

 紫色の車は、少し先で止まった。そこから降りてきたのは、金髪の太った小男だった。小男はピクリとも動かない黒犬を一瞥すると、舌打ちをした。そして、車の損傷の具合を確かめると、再び舌打ちをして不機嫌そうな表情のまま車に再び乗り込んだ。

 残された黒犬からは、完全に生命が消えていた。

 崎川は黒犬の死骸から視線を引き剥がし、立ち去った。

 その夜、頭の中に何回も、何十回も、黒犬の最後の姿が浮かんできた。翌日、その場所を再び通ったが、黒犬の死骸はすでになくなっていた。飼い主が見つけて、引き取ったのだろうと考えて、少しだけ気が楽になった。

 そして、もう二度と犬を操って死なせたりしないと心に誓った。

 しかし、しばらくするとその時の思いは薄れていった。

 その日は友人とつまらないことで言い合いになった。そして、次第にエスカレートして罵り合いになってしまった。

 叫ぶように言葉を吐き出した後には、友人の顔に嫌悪感が色濃く浮かんでいた。

 崎川はそれを見て後悔をしたが、すでに遅かった。

 いつの間にか夕方になっていた。公園のベンチで、友人の顔を後悔と共に思い出すことを中断して小さく息を吐き出した。視線を少しだけ上に向けると痩せていて毛艶も悪い薄茶色の犬が目に入ってきた。

 確たる理由もなく嫌悪感がこみ上げてきた。

 その憎悪の感情を犬に向けた。

 十五分後には薄茶色の犬はまともに立っていることさえもできない状態になっていた。その犬は口の端から血を滴らせながら、再び走り出した。犬の鼻面が公園の端に建っているトイレの壁にまともに当たった。

 崎川は笑っていた。犬が自分の命令で傷つく度に、自分の中から失われた自信が戻ってくるように感じられた。

 崎川はその日以降、嫌なことや辛いことがあると、野良犬を見つけては犬に自傷行為を命じた。

 瀬川に会ったのは、それから七年が過ぎ、高校生の時だった。犬をストレスのはけ口にしていることは変わりなかったが、どこか飽きと、もどかしさが自分の中に充満しだしていた。

(こんなことをしていても、何の解決にもならない)

 そんな思いが大きくなってきていた時に、唐突に瀬川に声をかけられたのである。しかも、誰も知らないはずの自分の不可思議な力についても言い当てられた。

 そして、提案。

「私にあなたの力を貸してもらえない?あなたの力は、素晴らしいわ」

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