第三部
第三部
いつもの帰宅時間に陸堂は自宅に戻った。その夜はなかなか眠りに入ることができなかった。その理由は明らかであった。今の生活が壊されようとしている。しかも、今まで信頼してきた相手、パートナーである夕菜によって壊されようとしている。
しかし、夕菜が裏切ることはないという思いも残っている。今まで自分の存在意義だとさえ思っていたことをやってこられたのは、夕菜の協力があったからであった。
「おはよう。どこか具合でも悪いの?顔色が悪いわよ」
いつの間にか眠っていた。目覚まし時計に叩き起こされた時は、自分が眠っていたと気付くまでに二呼吸ほど必要であった。
陸堂は妻に眠たげな視線を向けて、首を横に振った。
「大丈夫だよ」
ネットでニュースを検索すると、昨日に言った乗馬クラブでのことが載っていた。警察は事故として、処理するようである。確かに、馬を人が操っているとは考えられないであろうから、事故として取り扱うのが自然だと思われる。
今まで、陸堂が動物を使って実行してきた殺人も、全て事故として処理されてきたのである。もし、そうでなかったならば、陸堂はすでに逮捕されていただろう。陸堂が行ってきた殺人は十件を超えている。
陸堂は朝食をしっかりと腹の中に収めると、家を出た。
今日は直接に瀬川と話をするつもりであった。瀬川の経営する雑貨店が開店するまで、コーヒーショップで時間を潰した。勤めている会社にも電話をして、昨日に引き続き休暇を取った。大事な会議があったが、仕事をする気にはなれない。
開店時間を五分過ぎていた。店内に足を踏み入れると、二人の店員は「いらっしゃいませ」と声を出しただけで、近づいてくる気配はない。
店内にはインテリア雑貨、食器類、アクセサリーなどアジアンテイストの商品が並んでいる。一見は無秩序な並び方をしているようであるが、しばらく眺めていると何か統一感がある。
陸堂は店内をゆっくりと一回りしてから、レジの方へと向かった。
店の入口に背を向けて何かのファイルに目を落としていた瀬川が、足音を聞いて振り向いた。
「あっ…何をしているの?」
瀬川は明らかに迷惑そうな表情を浮かべている。
陸堂は微笑を浮かべた。どこかぎこちないような微笑を浮かべているのではないかと感じて、陸堂は表情を戻した。
「少し時間をもらえないか?」
店員の問うような視線が二人に向けられている。
瀬川は近くにいた店員に声をかけてから、陸堂を促して店の外に出た。
「なぜここが分かったの?偶然じゃないわよね?」
歩きながら向けられた瀬川の視線は、当然ながら友好的なものではなかった。
陸堂は瀬川の質問に答えずに、用件に入る。
「夕菜に、俺たちのことを公開しないように説得してくれないか?」
瀬川の顔に冷笑が浮かぶ。
「すでに何度も説得しようとしたわ。夕菜が公表すれば、私も危うい立場になるのよ。夕菜は私のことについては何も触れないと言っていたけど、あなたたちに警察の捜査が入れば、私にも影響がないとは思えないものね」
しばらく沈黙が続いた。
瀬川はファミリーレストランのドアに手をかけた。店内には三組の客がいるだけであった。瀬川はそのまま、店の奥まった席に行った。
注文を済ませてから、先に口を開いたのは陸堂だった。
「夕菜に会わせてほしい。もちろん夕菜に危害を加えるつもりはない。信用できないと言うのならば、俺の家族のところに俺と同じ力を持った女を差し向けろ。抑止力になるだろう?」
瀬川は眉間に皺を寄せ、陸堂を見つめた。
「あなたと同じ力を持った女?」
陸堂は瀬川から視線を外さずに、ゆっくりと頷いた。
「そうだ。お前たちの仲間にいることは分かっている」
瀬川は視線を何度も様々な方向へ動かしてから、陸堂に戻した。
「どうやって知ったの?」
陸堂は瀬川の質問を無視する。
「俺の提案を受けるのか?」
瀬川は口を引き結んでから、再び開いた。
「夕菜に会って、どうするつもり?あなたが直接に説得しても無駄よ」
「それならば、なぜ俺に夕菜が俺のことを公表しようとしていると教えた?何を俺にやらせたい?」
瀬川は睨みつけるように陸堂を見ている。そして、口を開くと微かに震える声が発せられた。
「夕菜を止めてほしいのよ。もう人殺しの手伝いができないようにして欲しいのよ」
「止める?あんたが説得すればいいだろう?夕菜とは親しいのだろう?」
瀬川は視線を自分の組み合わされた手に移した。
「私では夕菜を止められないのよ」
瀬川は陸堂の肩の辺りに視線を泳がせながら、記憶を紐解いていた。
瀬川の弟はある男を二人の仲間と殺害した。当時十六歳であった。
三人は男を暴行し、その男は動かなくなった。
弟はリーダー格の当時十七歳の男に命令されて、拳を一回り大きくしたほどの石で殴った。そして、それが致命傷となった。
翌日に事件は発覚し、三人は逮捕された。リーダー格の男は殺意はなかったとして懲役三年、瀬川の弟は懲役四年、もう一人は執行猶予付きの判決となった。
その瀬川の弟は四年前に死んだ。少年刑務所を出て、半年ほど過ぎた頃だった。交通事故であった。
六歳下の弟とは瀬川が中校生の時に離別していた。両親が離婚し、瀬川は母親と弟は父親と暮らすことになった。母親は二年後には再婚し、弟とはその時から十年以上も会っていなかった。
瀬川は突然に葬儀の知らせを聞いて、駆けつけた。幼い日のかわいい弟の姿が脳裏に浮かんで、涙が止まらなかった。
二ヵ月後、弟が事故を起こした時に運転していた弟の友人に会いに行った。友人は事故で下半身麻痺になり、車椅子での生活を送っていた。
その男が語った事故の様子は、不自然なものであった。まず一匹の中型犬が車に向かってきた。それを避けきれずに、ひいた。犬の上に乗り上げた車は、不安定な挙動となった。そこへ、さらに黒い大型犬が現れた。黒い犬は左の前輪に自ら突っ込んでくるように見えた。
その道は、海岸沿いの工業地帯へと資材や製品を運ぶ大型のトラックが頻繁に通る見晴らしの良い道路で、スピードを出すドライバーが多かった。
瀬川の弟が乗っていた車は道路の中央線を越えて、反対側に飛び出した。
その目の前には、大型トラックが迫っていた。荷台に多くの荷物を積んだトラックは、運転手がブレーキを踏んでもすぐにはスピードが落ちない。瀬川の弟が乗っていた乗用車は大破した。
瀬川は弟の死を忘れようとしたが、弟の幼い日の姿が時折脳裏に浮かんでは瀬川を苦しめた。
そんな日々の中で、あるSNSの記述が目に留まった。弟が死んだ事故と同じような事故が起こっていたのである。その事故にも、犬が関係していた。
事故を近くの歩道橋の上から見ていた人によると、茶毛の大型犬が車の前に飛び出し、フロントガラスに飛び乗った。
運転手は視界を塞ぐように現れた犬の姿に動揺したのか、ハンドル操作を誤って、反対車線に飛び出し、正面から来た大型トラックと衝突した。
「尚樹と同じような事故ね…」
瀬川はこのことが心に引っかかった。しかし、しばらくはそれ以上の行動を起こしたりすることはなかった。
半年が過ぎ、弟のことを考える時間も減ってきた頃、再び瀬川の心の平穏が脅かされるものを見つけてしまった。
あるSNSのサイトからのリンクを辿っていくと、法の網から逃れている悪人を裁くという名目で活動している集団のことが書かれていた。
まるで架空のことのように語られている内容は、弟の事故のことであった。というよりも、事故に見せかけた殺人であった。なぜなら、事故の原因となった犬を操っていたのは、人間であったからである。
瀬川はこの記述を当然ながら信じることができなかった。
しかし、事故の様子の生々しい記述を無視することもできなかった。
瀬川はそれから毎日、その集団についての情報を集め始めた。空いた時間のほとんどをそれに当てていたにもかかわらず、その「天誅団」と呼ばれている集団についての情報は見つけられなかった。
五ヶ月が過ぎ、瀬川が諦めかけていた時、とうとう手がかりを見つけた。
連絡を取るには、いくつもの段階が必要であった。まず、メールをあるアドレスに送る。その返信のメールに、電話番号と連絡可能な時間が記載されていた。十分間しかないその時間に電話を入れると、ボイスチェンジャーで声色を変えた人物が出た。その者は自らを「選定者」と呼んだ。粛清を加えるかどうかを判断する役目を担っているとも言った。割れたような声は、男女の区別も、年齢の推測もできなかった。
「裁いて欲しい者は、どんな罪を犯した?」
瀬川は予め用意していた事件の内容を話し始めた。その事件は瀬川の友人の村上詩織に起こったものだった。
村上詩織は瀬川の大学時代の後輩で、化粧品の製造を主に行っている会社に就職した。理系の学部を卒業した彼女は、製品開発部に配属された。最初の一年間は仕事も、恋愛も順調で、瀬川は彼女に会う度に明るい気持ちになったことを覚えている。
しかし、数ヶ月に一度ぐらいのペースで二人の食事会をしていたものが、半年近くも詩織から誘いがなかった。
連絡は時々取り合っていたが、立ち入った話をしていなかった。
いつもは詩織から瀬川を食事に誘っていたが、瀬川は自分から詩織を食事に誘った。詩織は何度か断ってきたが、ようやく会うことになった。
久しぶりに見た詩織の様子は、半年前のものとはかけ離れていた。
痩せたという言葉を使うには、あまりに痛々しかった。目の周りの隈が酷く、頬の肉がかなり削げていた。そして何より、瑞々しかった肌が病的に荒れていた。
イタリアンレストランで始めた食事は、最初は口数も少なく話もテレビのニュース番組の受け売りのような内容だった。二人で飲んでいたワインのボトルが一本、空になり、二本目が半分まで減った頃、詩織は仕事のことを話し始めた。
瀬川は今でも詩織の語った内容を思い出すと、暗い気持ちになる。
詩織は就職してから一年後に配置転換されていた。新しい職場は営業であった。研究職であった経験を活かして、技術的な側面から製品のアピールをして売り上げを伸ばしていくという上層部の決定によるものであった。
しかし、一年間しか研究職として働いていない詩織にとって、営業先で浴びせられる技術的な質問の全てに明朗に答えることなどできるはずもなかった。
技術アドバイザーとして、営業職の先輩と行動を共にしていたが、詩織の技術的説明の未熟さを指摘され、営業成績の不振の責任を押し付けられた。これは先輩が自分の成績の悪さを言い逃れするためのものであったが、詩織にはそれに対する明確な反論をすることができなかった。
勤務内容が悪いと見なされた詩織はボーナスを減らされ、ペナルティ的な研修にも強制的に参加させられた。
残業時間も、一月あたり百五十時間近くになっていたが、残業届けを出すのは、その三分の一にも満たなかった。残業時間が増えると、上司から減らすようにというプレッシャーがかかったためである。しかし、減らしては仕事が片付かない。サービス残業を行うしか方法はなかった。残業は自己申告制であったため、サービス残業をし易い環境でもあった。
彼氏とは、仕事のために会える時間がほとんどなくなり、自然消滅的に別れることとなった。
瀬川はすぐにでも仕事を辞めるように言ったが、詩織は首を縦には振らなかった。その後も、何度も食事に誘ったが、詩織は瀬川の誘いを断り続けた。理由は「忙しいから」ということだった。
後に、瀬川は詩織のこの言葉を信じた自分に、深い嫌悪感を抱くようになる。
望まない職場、ノルマの重圧、長すぎる労働時間が詩織の肉体と精神を蝕んでいった。そして、詩織は自ら命を絶つことによって、この状況を抜け出すことにした。
瀬川が詩織の死を知ったのは、葬儀が終わって四ヶ月が過ぎた頃であった。詩織の両親は、葬儀を親族だけで行い、詩織の友人関係に知らせていなかったが、後に大学時代の友人から知らせがあった。瀬川はすぐに詩織の墓参りに行ったが、その時の喪失感は長い間、瀬川の心の大きな部分を占めていた。
瀬川が話し終わると、しばらくの沈黙の後に若い女の声が聞こえてきた。
「詩織さんの死に責任のある人の名前を教えて下さい」
瀬川が詩織の勤めていた会社名と営業職の詩織の先輩、そして直属の上司の名前を告げると、電話は向こうから切られた。
一週間が過ぎても、何も起こらなかった。新聞、テレビ、インターネットのニュースを確認していたが、詩織の勤めていた会社に関係するニュースは何もなかった。
さらに二週間が過ぎ、瀬川の中に失望ととともに自分の殺人依頼が行われなかったことに対する安堵があった。そんな時、ネットニュースの中で、ある記事を見つけた。
歩道から車道に飛び出し、大型トラックと激突した事故の記事である。交通量の多い道路で、複数の目撃者がいたが、死んだ者の周囲には人影はなく、唐突に歩道から車道へと走り出てきたということであった。
瀬川が読み進んでいくと、死亡した者は確かに選定者に名前を告げたうちの一人、詩織の直属の上司だった男であった。状況は完全に事故死としか思えなかった。瀬川以外の者が見たら、疑問を持つことはなかっただろう。しかし、殺人を依頼した者には、事故死には思えなかった。
そして、その十八日後に、もう一人の死が報じられた。報じられたと言っても、新聞の地方版の片隅に小さく掲載されただけであった。歩道橋の上から転落し、下の車道を走っていたバスに轢かれたのである。歩道橋には、転落した者以外には人の姿はなかった。
どちらも事故として扱われていたが、共通するのは死亡者が自ら車の前に飛び出したと、車を運転していた者や目撃者たちが証言している点であった。
その二つの事故の加害者たちに共通する事項などがあれば、警察も疑いをかけたのであろうが、共通するのは被害者が同じ会社の社員であるということだけであれば警察は疑うことがなかったのも頷ける。
天誅団から追加の報酬の請求はなく。連絡さえもなかった。法外な金額をさらに請求されるのではないかと思っていたので拍子抜けしたが、連絡もないのは不安を誘う状況でもあった。事前に取り決めていた報酬は、すでに指定の銀行口座に振り込んでいた。殺人の依頼をする額にしては、あまりにも少ないと感じた額だったが…。
瀬川は事故現場に足を運んだ。詩織の直属の上司だった男が転落死した歩道橋を下から見上げた。
「何も特別なところがあるようには見えないわね」
瀬川は歩道橋の階段を上った。
下を走る道路は、四車線の一方通行で、歩道橋の手摺りも低くはない。転落した男は背が高かったが、それでも手摺りを乗り越えるには、かなり身を乗り出す必要がある。普通に歩いていて転落するとは考えられない。
歩道橋を上ってきた年配の女性が、瀬川の横を通り過ぎた。
「すみません。ここで起こった事故のことを知りませんか?」
瀬川の声に振り返った年配の女性の左手には、犬用のリードがあり、その先にはミニチュアダックスフントがいた。ここが毎日の犬の散歩コースであるのならば、地元の人間だと考えて、瀬川は声をかけた。
瀬川は犬に微笑を向けてから、年配の女性に近づいた。
「ここで知り合いの方が亡くなったと聞いたのですが、何かご存知ありませんか?先週の木曜日に、ここから転落したということなのです」
年配の女性は被っていた鍔広の帽子を少し持ち上げて、瀬川を見た。一瞬の間があって、その顔には同情していることを示すための表情を浮かべた。
「そうなのね。ここで起こった事故のことは知っているわよ」
年配の女性は予想していたよりも甲高い声で話しはじめた。話の内容は特には目新しいものはなく、新聞などに載っていた事柄だけであった。しかし…
「そういえば、私の知り合いが事故を目撃したと言っていたわ」
瀬川は思わず目の前の女性の腕を掴みそうになった。
「本当ですか!その方の連絡先を教えて頂くことはできますか?」
瀬川の急な申し出に年配の女性は思わず身を引いた。
「そ、そうね。今から会うことになっているけど…聞いてみないと」
瀬川は声のトーンを落とし、真剣に聞こえるように相手の目を見た。
「私も一緒に行っても、よろしいですか?事故のことを聞かせて頂きたいのです」
年配の女性は瀬川に押されるように頷いた。
二人が向かったのは、歩道橋から歩いて五分ほどの神社の参道であった。石畳の中央の道の両脇は砂利が敷き詰められ、灯篭が一定間隔で並んでいる。その合間に置かれている一つのベンチに目的の人物はいた。
丸顔の中年の女性であった。手に持ったリードの先には、柴犬の中でも小柄であろうと思われる犬がいた。
「あの事故で亡くなった方の知り合いの方ですか…」
少し話をした後に好奇心に溢れた視線が瀬川に向けられた。
瀬川は神妙な表情を意識的に作ったが、微かに自分の顔が引きつるように感じていた。
しかし丸顔の女性は、瀬川の中にあった違和感に気付くことなく、同情的な視線を向けてきた。そして、隣に腰掛けた瀬川に請われるままに話し始めた。
「私は下から歩道橋を見上げていたのよ。そうしたら、突然に人が落ちてきたわ」
丸顔の女性は小さく身震いをした。
「どのように歩道橋から落ちたのか見えましたか?自分から手摺りを乗り越えたのでしょうか?」
「分からないわ。歩道橋の上には、他に人の姿はなかったから、誰かに突き落とされたのではないとは思うわ。でも…」
「何か気になることでもあるのですか?」
「車の走っている音がうるさくて、はっきりとは聞き取れなかったけれど、あの人は落ちる前に何か叫んでいたように思うわ」
瀬川は座る位置を少し丸顔の女性に近づけた。
「どんな感じの叫び方でしたか?怒っているような感じですか?それとも、驚いているような感じですか?」
丸顔の女性は首を小さく首を捻った。
「驚いているような感じだったような気がするわ…」
はっきりとしない返事に、瀬川は別の質問を投げた。
「どうして歩道橋を見上げていたのですか?何か気になるものでもあったのでしょうか?」
この質問には丸顔の女性は明確に答える・
「歩道橋に大きな犬が二匹、上って行くのが見えたのよ。私も歩道橋を渡ろうと思っていたのだけれど、この子が襲われたら大変でしょう?だから、二匹の犬がいなくなったかどうか見ていたのよ」
瀬川は歩道橋を思い浮かべた。鉄の板は腰の辺りの高さまであり、その上は格子状になっていた。人の上半身は見えるが、その下は見えないので、犬の姿は下からでは確認できないはずである。
「歩道橋に犬がいるか見えました?」
「見えなかったから、道路の向こう側の階段から降りてくるのを確認してから上ろうと思っていたのよ。そうしたら、あの人が落ちてきたでしょう?本当に驚いたわよ!」
丸顔の女性は顔を大きく歪めて、小さく首を振った。
「確かに他に人はいなかったのですね?」
「そうよ。他に人はいなかったわ」
丸顔の女性は、通報して警察が到着するまで十五分ほどかかったことや、警察官に何度も男が転落した状況について聞かれたことなどを話した。
そのまま、半時間以上が過ぎて話のネタが尽き、話が脱線を繰り返し始めた頃を見計らって瀬川は立ち上がった。八割方は男の転落とは関係のないことであったが…。
瀬川は年配の女性と丸顔の女性に会釈をして、その場を離れた。もう一人の男、詩織の会社の先輩だった男の死についても、調べてみるつもりであった。
しかしながら、情報は同じ手段では集まらなかった。事故現場の周辺で何人もの人に話を聞いたが、目ぼしい収穫はなかった。
ところが、その五日後の晩にネット上で、情報を得ることができた。画像投稿サイトに、その動画はアップされていた。
「これ…。あの道路の画像?」
それは車載カメラの画像のようであった。カメラを積んでいる車は、片側二車線道路の歩道側を走行している。斜め前方の中央寄りの車線には、青い車体の大型トラックが走っている。その車体の横には、運送会社のロゴマークが大きく描かれていた。
次の瞬間、歩道から人が走り出てきた。走り出てきた人は、走り方から見て若い男のようであったが、顔が判別できるほどではない。
その男は、カメラの前方を横切り、さらに隣の車線まで一気に走り抜けようとしたが、運送会社のトラックが男の行く手を塞いだ。
トラックは、けたたましい音を発して止まった。
カメラを乗せている車も、急ブレーキをかけて止まる。
トラックの背後を走っていた車が、トラックの後部に斜めに追突している様子が、カメラの端に捕らえられていた。
カメラには、詩織の会社の先輩の姿は捉えられていないが、車載カメラの画像に記録されている日時から、あの事故の画像であることは間違いないようである。
もしトラックの前方を見ることができれば、一人の男が全身打撲で即死した姿があるはずである。
瀬川は何度も、その画像を再生した。男がなぜ車道にあんんなに勢い良く飛び出してきた理由を知ることができるのではないかと思ったのである。
最初に見た印象では、誰かに追いかけられ、それから逃げるために車道を横切ろうとしたのだと思っていた。走っていた男が自分の背後を気にするように振り返っていたからである。しかし、轢かれた男の他には人の姿は映ってはなかった。
人の姿はなかったが、別のものが映っていた。
「犬?黒っぽい毛色の犬…」
黒い毛色のために見え難いが、大型犬が男の背後を走っていた。しかし、画面に犬の姿が映ったのは一瞬だけで、その姿をはっきりと捉えることはできない。
「犬、もう一つの事故のときも犬がいたわね」
瀬川の意識の中に、犬の姿が妙に残った。
翌日から、ネットの画像投稿サイトを次々とさまよう日々が続いた。空いた時間のほとんどをこれに費やした。
瀬川の意識の中にある画像と一致するものを探し、目が充血して開けているのが辛くなるまでパソコン画面を見続けた。そして、ある日、多くの部分で重なるように感じられる動画と出会った。
それは、少年が犬を操る画像であった。画面の端に表示されている日付は二十五年ほど前のもので、昔の安物のビデオで撮影したようである。
画質は荒く、薄暗いところで撮影されていた。そのため、少年の顔ははっきりとは分からない。その少年を良く知る者ならば、雰囲気や体の動かし方の癖なども合わせて少年を判別できるのであろうが…。
少年は声を発して何かを命令するわけでもなく、身振りで指示を出しているようでもなかった。ぼそりと呟くような声で、犬に何をさせるのかをカメラに向かって告げた後に、視線を赤毛の大型犬に向けた。
すると、犬は急に首をもたげ、走り出した。
その先には、いかにも改造車という感じのバイクに二人乗りをしている男たちがいた。ヘルメットのあご紐を首にかけ、ヘルメットは頭の後ろにぶら下がっている。狭い座席の後ろに乗っている方の男の頭にはヘルメットの代わりに白いニット帽だけがある。エンジンのスロットルが調子に乗せて開閉され、空気中に騒音を撒き散らす。エンジン音の割には、バイクは人が早足で歩く程度の速度しか出ていない。
周囲に人の姿はなく、ミニバンが反対車線を通り過ぎると、画面内の道路には、騒音を垂れ流しているバイクだけが残った。
犬はバイクに一気に走り寄り、運転している男の左腕に牙を突き立てた。
男は驚いた様子で、首を急激に犬に向け、左腕を強引に犬の顎から引き離そうと腕を大きく振った。
当然のごとくバイクは大きくバランスを崩し、道路上に転がった。運転していた男は、横倒しに落ち、そのまま道路上を滑っていく。
シートの後ろに乗っていた男は肩から落ちて、捻るようにして道路上を跳ねた。
バイクのエンジン音が止まっていた。
運転していた男がゆっくりと体を起こして、周りを見た。
後ろに乗っていた男は動かない。真っ白だったニット帽に、赤いアクセントが広がった。
運転していた男は、何度もニット帽を被った男に呼びかけた。それでも何の反応もないことに苛立ったように、ニット帽の男の体を揺さぶった。
映像はそこで唐突に切れた。
ニット帽の男は死んでいたのか、それとも気を失っていたのか分からない。もし死んでいれば、運転していた男は当然ながら警察の世話になることになる。
瀬川は何度も、この画像を見て、ある結論に達した。
「この子は動物を自在に操れるのね。そして…私の弟を殺したのも、この子と同じ力を持った奴のはずだわ。それとも、この子が大人になって弟を殺したのかも知れないわね」
瀬川は再び、その暗殺組織に連絡を取ろうとした。何度も、メールを送ったが返事はなかった。それでも、瀬川はメールを送り続けた。その組織の一員となって弟を殺した奴の顔を見たいと思った。
しかし、何度もその組織の一員となって、法律では裁かれない悪人を葬りたいという内容のメールを送り続けていると、それが自分の本心であるように思えてきた。
そして半年近くが過ぎた頃、ようやく反応があった。天誅団の一員として迎えるという返答である。
最初は、ターゲットとなる人物の周辺調査を任された。どんな家族構成であるのか、どんな仕事をしているのか、誰と親しいのか、そして罰を与えるのに相応しい人物であるのか。
その男、小笠原幹生はどこか瀬川の弟、赤城尚樹を彷彿とさせるところがあった。外見的には似ていない。背が高く痩せていた瀬川の弟と違い、背が低く小太りであった。
しかし、尚樹と同じく高校を中退し、暴行罪で少年院に入っていたことがあった。そして、父親と二人暮らしであるところも似ていた。
すでに二十二歳になっていたが、定職に就かず、思い出したように建設現場の日雇いの仕事をしていた。父親と暮らしていたが、小さな町工場で働いている父親は息子と関わることを避けていた。父親は夜遅くに帰ってきて、朝早くに出て行き、家には睡眠を取るためだけに帰っていた。
幹生は父親からもらう小遣いと、時々行く日雇いの仕事、そして仲間と高校生相手に恐喝をして遊びまわる金を作っていた。
瀬川は調べるほどに、幹生は罰を受けるのに相応しい人物であるとしか思えなくなっていた。幹生は警察に捕まらなければ何をしても構わないと思っていることは明白で、人を傷つけることに何の躊躇もないように見えた。しかしながら同時に、弟と似ている男が悪人でないことを願っている自分がいた。
よく一緒にいる前歯のない痩せた男と幹生以上に太っていて背の低い色白の男も同類であった。幹生を入れた三人は派手に装飾した古い軽四自動車を乗り回していたが、子供や老人の乗っている自転車に故意に幅寄せするなどの危険な運転は日常的にやっていた。
幹生の車に仕掛けた特殊なボイスレコーダーを二、三日置きに回収し、会話を確認していた。そして、ある日の録音に瀬川は大きな怒りと落胆を感じていた。
怒りは何の罪もない人間の命を奪って平然と自慢していることに対してのもの。そして、落胆は弟と似ている男が悪人であることへのものであった。
幹生は半年前に高速道路で前を走っていた車、赤い車体の小型車、を十五分ほど後ろから煽り続け、事故を起こさせた。赤い小型車に乗っていたのは二十五歳の塾講師で、遅くまで仕事をした後の帰路でのことだった。幹生はその時のことをまるで自分の手柄のように話していた。
それを三人の若い男が馬鹿笑いをして聞いていた。
その音声を聞いていた瀬川は、吐き気がこみ上げてきた。
瀬川はその盗聴記録を要約し、組織に送った。それに「小笠原幹生は死を与えるのに十分な資格を有する」と意見を添えた。
幹生は、二日後にこの世から消えた。理由は不明だが真冬の川に落ち、その時に頭部を強打した。浅瀬のため溺れずに済んだが、気を失っている間に凍死した。
瀬川はその事実を知った時、自分の中で今までの価値観の一部が崩壊した。そして、新しい価値観がその失われた価値観の上に埋められた。
瀬川に支払われた報酬は少なかった。
後に知ったのだが、この組織は依頼者から多くの報酬は請求していなかった。瀬川に来た請求が偶々、少なかったということではなかったのである。
しかし、天誅団の団員に対して僅かしか報酬が支払われていないとしても、活動には経費が必要になる。今回に瀬川が使ったボイスレコーダーにしても、車体の下に貼り付け、特殊なマイクを設置することによって車内の音を録音できるというもので、かなり高額なものであると思われた。依頼者からの報酬が少ないのであれば、活動資金はどこから出ているのか不思議であったが、資金の出所を知ったのは、何年も後になってからであった。
瀬川はそれからも天誅団の仕事を行うようになった。そして、夕菜に初めて会う日が来た。
(こんなに若いの?)
夕菜に対しての第一印象はそれだった。待ち合わせのレストランで瀬川が席について五分後に現れたのは、小柄な女性だった。色の入ったレンズの眼鏡をかけ、長い髪が顔の輪郭を隠していたので表情の全てを見ることはできない。
身長は百五十センチほどしかない。そのせいかまだ十歳代後半に見えた。しかし、しばらくすると、その視線の落ち着きや話し方からはもっと上、二十歳代後半から三十歳代前半に感じられた。
「想像していた通りの人だわ。理知的だと人に言われたことがあるでしょう?」
夕菜は椅子に座ってすぐに瀬川の印象をこう口に出した。
瀬川は口を開こうとしたが「初めまして」という他に言葉が出てこなかった。
夕菜は一時間ほど政治や経済、そして芸能の話などをしては、瀬川に意見を求めた。
瀬川は夕菜に観察されているのを感じながら、無難な受け答えをした。二人でワインのボトルを一本空けたが、緊張のためか全く酔いが回ってこなかった。
デザートを食べ終わると、夕菜は瀬川を覗き込むように見ながら言葉を発した。
「これからは、もっと多くのことを頼むことになると思うわ」
瀬川はその言葉を聞いて、自分の中に嬉しさがこみ上げてくるのを、少し意外に感じていた。しかし、その戸惑いも夕菜から天誅団の実行役の者たちとの連絡及びバックアップの役目を任されると、消えていった。
瀬川が夕菜と長い時間一緒にいたのは、この時だけであった。連絡のほとんどはメールや電話で行われ、直接に会うことがあっても、物の受け渡しなどを行うだけであった。
そして月日が過ぎ、何人かの実行役と共に仕事をしていく中で、弟の尚樹を始末した者を突き止めた。
それなのに、瀬川は実行役のその男に対して、大きな憎しみを感じることができなかった。弟のことを考えると、その時だけは憎しみが大きく膨張するが、しばらくすると小さな炎となって意識の片隅に残っているだけであった。
逆にその男に対して、かなりの親しみさえも感じ始めていた。
その男はもちろん陸堂である。
数年という時間が過ぎ、瀬川が天誅団の一員としての誇りを持ち始めた頃、それは起こった。
いつもの通り、瀬川はターゲットの行動を確認し、陸堂が刑を執行する場所の候補を挙げる。
そのターゲットは楽な相手だった。毎朝、同じ時間の電車に乗り、同じ時間の電車で帰ってくる。家から最寄り駅までのルートは同じで、職場からその最寄り駅までのルートも同じである。
瀬川は実行場所の候補を陸堂に提示し、陸堂は二日後に実行場所と時間を決め、瀬川に連絡してきた。
陸堂が殺したのは、どこにでもいるような男だった。
その男は市役所の土木課の職員であった。以前にその男が発注した改修工事を終えた施設の壁が崩落し、子供が一人全治一ヶ月の怪我を負い、近くにいたその子の姉が死亡するという事故が起こった。
工事を行った業者には刑事罰が与えられた。コストを限界まで削減し、粗悪な工事を行ったために事故が起こったと裁判にて認定されたのである。
しかし、その職員には何の罰も与えられなかった。
だが天誅団によって、その男は発注先の業者が、粗悪な工事を行うと分かっていて工事の発注を行ったということでターゲットとして認定された。
当然ながら陸堂がそのようなターゲットを仕留め損ねることはなく。その男、安海は三十七歳で人生を終えた。
そのおよそ半年後、安海の上司が収賄罪で起訴された。そして、贈賄罪で起訴されたのは壁の崩落事故を起こした施設の工事を請け負った業者であった。
瀬川は何か気になって、調査してみた。すると、矛盾が浮かび上がってきた。
安海が問題の工事を発注したのは、建設二課に異動してきてから、二週間後だった。安海は病気で長期入院することになった職員の補充で、季節はずれの時期に部署を異動してきた。そして、上司が担当していた仕事の一部を引き継いだ。
その仕事の一つが、あの事故のあった施設の工事の発注であり、異動してきて二週間後に発注しているが、安海はすでに工事の内容や業者の選定が終わった段階で、最後の事務処理を行っただけだったことがわかった。
「そんな状況で、安海に業者が粗悪な工事を行うことが予見できたのかしら?」
そんな疑問が瀬川の中に浮かんだ。
瀬川は、さらに安海について調べた。