第二部
第二部
小太りの男は飲物とアイスクリームをいくつか籠の中に入れ、レジで支払いを済ませた。店を出る前に、トイレに入る。
陸堂も続く。小便器の前に立っている小太りの男の二つ隣に立って、放尿している格好だけした。
小太りの男がトイレから出て行くと、すぐに後を追う。しかし、男の姿がなかった。
陸堂は何度も周囲を見渡し、ふと気付いて駐車場に出た。
小太りの男が乗っていたワンボックスカーが見えるところまで来て足を止めた。駐車場の奥まった一画のその場所には、自分以外の人影はない。車内の様子を窺っていると。
「何か用か?」
急に背後から声をかけられた。
陸堂は弾かれるように振り向いた。
「店の中でも、俺を見ていただろう?何か用なのか?」
小太りの男は再び質問すると、陸堂を見下ろした。
陸堂は何度か唾を飲み込んでから、声を出した。
「二年前、青柳…女の子を川に突き落としただろう!」
幸い、声は震えていなかった。
小太りの男の表情が驚きを表し、次いで険しいものに変わった。
「見ていたのか?」
陸堂は睨むような視線を向けた。
「警察に言ってやる…車のナンバーも覚えたからな!」
小太りの男が陸堂に向って、一歩踏み出した。
陸堂は少し後退り、背後に走り出そうとしていた。
小太りの男と陸堂の間に、硬い空気が広がった。
「何かあったのか?」
気付かないうちに、陸堂の背後に誰かが立っていた。
陸堂は反射的に首を勢い良く捻って、背後を見た。
そこには、薄笑いを浮かべた痩せた男が立っていた。青柳 佳澄を川に蹴り落した男である。
陸堂の中に恐怖が沸きあがってきた。足が硬直し、次に微かな震えがきた。
「このガキが二年前のことを見ていたらしい」
太った男の言葉に、痩せた男は首を傾げた。
「二年前?何のことだ?」
陸堂の中に、怒りが爆発的に広がった。
(この男は、自分が何をしたのかさえ覚えていない)
「女の子が川に落ちて死んだ時のことだよ」
太った男の問いかけに、痩せた男は眉間に軽く皺を寄せた。
陸堂は太った男の言葉で、さらに怒りが強くなった。
(死んだ?お前たちが殺したんだ!)
痩せた男の表情が不意に変わり、何か思い出したようだった。
「ああ…勝手に川に落ちて死んだ女の子だな」
陸堂は両手を強く握り締めていた。
「お前が殺したんだ…」
陸堂の口から微かに震える小さな声が漏れ出てきた。
「このガキ、何か言ったか?」
痩せた男は小太りの男に視線を向けた。
「お前が殺したんだ!」
陸堂は自分の声が予想以上に大きく響いたことに少し動揺したが、痩せた男に反抗的な視線は向けたままだった。
「人聞きの悪いことを言うんじゃねえぞ」
痩せた男が陸堂の頭に素早く手を伸ばして、髪の毛を鷲づかみにしようとした。
空手部での練習の成果が出た。陸堂は痩せた男の手を払い、前蹴りを放った。
痩せた男は蹴られた腹を曲げたが、蹴りが浅かったようで、すぐに体勢を立て直した。
「このガキが!」
痩せた男の顔が赤く染まっていた。
無造作に突き出された拳を、陸堂は再び避けて、今度は痩せた男の顔面に右拳を繰り出した。
しかし、痩せた男は。どうにか首を大きく曲げてかわした。
空手の構えを見せて対峙している陸堂に、痩せた男は眉間に皺を寄せ、忌々しそうな視線を向けた。
陸堂の心に少し余裕めいたものができようとしていた。
しかし、陸堂は高校に入ってから空手部に入部して、三ヶ月しか経っていない。それに対して、喧嘩慣れしている痩せた男の方が、今の段階ではまだ何枚も上であった。
痩せた男は、強引に前に出た。
陸堂は前蹴りをその腹に向かって放ったが、逆にその足をつかまれた。
「放せ!」
陸堂の中に、必死で押さえつけたはずの恐怖が爆発的に広がった。
痩せた男はさらに腕を伸ばして、陸堂の髪の毛を鷲づかみにした。
陸堂は足を掴まれた不安定な姿勢のままで、拳を振り回したが自分よりもかなり背の高い男には届かなかった。
痩せた男はつかんでいた足を離すと同時に、陸堂の髪を下に一気に引いた。そして、目を細め、無言で陸堂の後頭部に拳を振り下ろした。
陸堂の視界が大きく揺れた。体が斜めに傾いていくのを、自分の意思では止められず、膝をアスファルトの上に打ちつけたが、痛みは遠くにしか感じられなかった。
「人に見られたらどうするつもりだ!」
小太りの男は、痩せた男に非難めいた視線を向け、声を殺して言った。
痩せた男は、その細い腕に似合わない強い力を発揮して、陸堂の襟首を掴んで強引に立たせた。そのまま、自分たちが乗ってきた車の方へと引き摺るように陸堂を連れて行く。
陸堂は何か叫ぼうとしたが、殴られたダメージのせいか、掠れたような呻き声しか出ない。
小太りの男は、自分たちの方を見ている者がいないかと、周囲を執拗に見回してから、運転席に座った。
ドアを閉める音が大きく車内に響き、陸堂の体が小さく痙攣した。
「車を出せ」
痩せた男は陸堂の襟首をシートに押し付けるようにしている。
「離せ…」
陸堂は体をねじるようにして暴れたが、痩せた男の力は強く体の自由は取り戻せなかった。
車のエンジンが回り始めた。車内に振動音が充満したと同時に、車は走り始めた。
「どこに行く?」
小太りの男の声には、不安そうな響きが含まれていた。
「どこか人のいないところに行け!」
痩せた男の声には苛立ちが濃くなってきていた。
車は市街地を離れ、北の方へと進んでいた。時間が過ぎ、車は人気のないところまできた。道幅が狭くなり、道の両側に山の斜面が近づいていた。
一台の小型バイクがすれ違った時に、陸堂は車の窓を叩いたが、ライダーは何の反応も示さずに通り過ぎた。
痩せた男が再び陸堂の頭をシートに強く押し付けながら、二発殴った。
しばらくすると、車の底から突き上げるような振動が伝わってきた。
(道が荒れているのか?)
陸堂は体を捻って、車窓から外を見た。樹々が車のすぐそばまで迫ってきている。かなり細い道を走っているようである。
タイヤが土の上を滑る音が時々、車のシートを通して伝わってきた。
「この辺りでいいんじゃないか?」
「ああ…そうだな」
痩せた男の言葉に、小太りの男が不安そうな声で返事をした。
車がゆっくりと止まった。
「来い!」
ドアが開けられると同時に、痩せた男が陸堂の服の背中部分を強く引いた。
痩せた男に引きずられ、陸堂が車外に出ると、予想通り地面は土で、周辺は木々が茂っていた。土の上に陸堂は突き飛ばされて、転んだ。
視界の端に、一匹の野犬がいた。黒毛の大型犬で、シェパードのような精悍な姿をしているが、耳は垂れ、鼻面が短いところを見ると、シェパードと他の犬の間にできた雑種であると思われた。
風が木々の間をすり抜けていく音が届いてきた。
小太りの男の不安そうな顔が、痩せた男の冷めた表情の向こうに見えた。
陸堂は立ち上がって走り出そうとした。その瞬間、背中に衝撃を覚えた。一瞬、息が吸えなくなって再び転んだ。
「殺すつもりじゃないよな?脅すだけだろう?」
小太りの男の声は微かに震えていた。
痩せた男は無言で陸堂に近づき、腹を蹴り上げた。その顔には抑えきれない喜悦の表情が浮かんでいる。
(こいつを食い殺してくれ!)
陸堂は救いを求める相手がない気持ちを野犬に向けた。
痩せた男は、さらに陸堂を蹴り上げた。
「もう止めとけ…」
さすがにやりすぎだと思ったようで、小太りの男が痩せた男の肩に手をかけて引き離そうとした。
しかし、痩せた男は肩にかけられた手を叩き落とすように振り払った。
「うるさい!お前も、殺すぞ」
さすがに小太りの男は不満そうな表情を見せたが、痩せた男の剣呑な視線に動きを止め、口も止まった。不満そうな表情をしながらも、何も言わず車のドアを開け、運転席に入り込んだ。
痩せた男が右足の踵を陸堂の背中の上に落とした。
陸堂は痛みで、うめき声を上げることしかできなかった。強く目を閉じた。恐怖が周囲から自分の体を激しく締め付けている。
(死にたくない。助けて…)
陸堂が目を開けると、野犬の姿が木々の向こうにあった。こちらを伺うように見ている。
痩せた男の足が背中に再び衝撃を与えた。
急に怒りが湧き上がってきた。
(すぐに助けろ!この馬鹿犬!)
陸堂はなぜか自分が犬に助けを求めていることに違和感を感じていなかった。
野良犬の体が、一瞬だけ硬直した。その後、ゆっくりと陸堂たちの方へと歩き出した。下草の間を野良犬は、自らの大きな体を隠しながら、ゆっくりと歩いて、近づいてくる。
陸堂の背中に痩せた男が、さらに蹴りを浴びせた。
その瞬間、野良犬はすばやく地を這うように走り、跳んだ。人では不可能な動きである。痩せた男の首にその牙を立てた。
痩せた男は、突如に襲ってきった衝撃と痛みに対応することはできなかった。何が起きたのか分からず、自分の背中に乗ってきた何かを必死で振りほどいた。
低いうなり声を上げながら自分に向かって戦闘体勢をとっている犬を、痩せた男の見開いた目が捉えた。
ゆっくりと首筋に右手を当て、その手の平にべっとりと着いた血を眺めた。
「血が…なんで…」
痩せた男の顔に悲しみのような感情が現れ、すぐに怒りへと変わった。
「このクソ犬が!」
痩せた男が放った蹴りを、黒毛の大型犬は簡単に避けた。そして、蹴りが空を切ってバランスを崩した痩せた男に、再び牙を突き立てた。
痩せた男は自分の右手の前腕に喰らいついた犬を、恐怖の表情で見た。犬を振りほどこうとするが、腕の筋肉深くまでしっかりと突き立っている牙が、簡単にはそれを許さない。
湧き上がってくる恐怖に突き動かされるように右腕を激しく動かして、ようやく犬が離れた。しかし、自分の腕に視線を向けると、大きな震えが襲ってきた。
服が裂けた間から、大きく開いた傷口がこちらを見ていた。その傷口から湧き出してきた血液が、服を染めた。
犬の唸り声が、痩せた男の耳に届いてきた。そして、その男の目には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。
「う、うわーーー」
今度は、黒毛の犬は痩せた男の左太腿に牙を立てた。
痩せた男は両腕の拳を握って、パニック的に犬に叩きつけた。幸いに、振り下ろした拳のいくつかは黒毛の犬の鼻に当たっていた。
犬がようやく離れると、痩せた男は怯えた目で、まだうなっている黒毛の犬を見た。あれだけ反撃をされても、犬は何かに強制されたように痩せた男への威嚇を止めようとはしない。
「早く乗れ!」
小太りの男が助手席側のドアを開けて叫んだ。
痩せた男は、足元に転がっていた一メートル弱の棒切れを黒毛の犬に向けた。
黒毛の犬は痩せた男に飛びかかれずに、対峙したまま睨み合った。
痩せた男は、車の方へにじり寄っていく。黒毛の犬から目を離すことができず、警戒しながらしか動けない。
「早く乗れ!」
小太りの男が苛立った声を出した。
「うるさい!分かっている」
痩せた男の声には緊張の色が濃い。その時、後頭部に衝撃を感じた。振り向こうとしたら、強烈な違和感と共に痛みが爆発的に広がった。
耳が垂れた灰色の毛の犬が、痩せた男の背後から首に喰らいついていた。
「ぐあーーー」
言葉にならない声を上げて、痩せた男は身を捩った。
灰色毛の犬は喰らいついたまま離さない。
陸堂は新たに現れた灰色毛の犬の動きを、睨みつけるように見ている。
痩せた男が灰色毛の犬を引き剥がすために背中から勢い良く倒れると、ようやく灰色毛の犬は牙を開放した。
男は後頭部を激しく地面に叩きつけながらも、立ち上がった。足元は泥酔した者のように無意味なステップを踏みながら、ようやく立っている状態である。
黒毛の犬が痩せた男の左足首に牙を立てた。
痩せた男は強引に足を振り動かして、黒毛の犬を自分の足から引き剥がした。右手を車のドアノブにぶつけるように伸ばし、ドアを開くと体を助手席に滑り込ませた。
ドアを閉める音が、耳の奥まで響いてきた。
「行け!」
小太りの男の右足が、アクセルを踏みつけた。
車のタイヤが空転し、土を削る。車体は左右にぶれながらも前に進んでいく。
小太りの男はバックミラーに視線を動かした。
「追いかけてきているぞ」
痩せた男は首を激しく回し、車のバックウィンドウから車の背後を睨みつけた。
「くそっ!まだ追いかけてくるのか…」
下から突き上げてくるような衝撃の後に、浮遊感が感じられた。
痩せた男が首をねじ切るような速度で回すと、フロントガラス越しにありえない光景が浮かんでいた。
小太りの男は、引きつったような悲鳴を上げ、ハンドルを回していたが、タイヤの下から地面が消え、その操作は無意味なものと化している。
痩せた男が自分たちの乗っている車が、道の横を通っている谷に落ちていることを理解する前に、車全体が衝撃に包まれた。その衝撃は、車内にいるシートベルトをしていない二人の男を肉塊に変えるだけの力を十分に持っていた。
陸堂は破壊音がした方へと、歩いて行き、谷底に横転している車が静かにライトだけを点けているのを確認すると、呟く。
「犬に襲われたからって、慌てて車で逃げる必要はなかったんじゃない?犬に車の窓を突き破るのは無理だよ。落ち着いて運転していれば、死ななくてもよかったのにね」
陸堂の口の端に、薄い笑みが浮かんでいた。それは、その年代の男子がするものとは思えない表情であった。
黒毛と灰色毛の二匹の犬は陸堂が視線を向けると、緊張から解き放たれたように、ゆっくりと山の奥へと去っていった。
取り上げられていた携帯電話が車と共に谷底へ落ちてしまった陸堂は、山中の道を五時間も歩いて、山の麓までようやく辿り着いた。
どうにか派出所を見つけて、警察官に事情を説明した。もちろん、犬を操って二人の男を襲わせたことは話さなかった。
二人の男の乗っていた車は、翌日に谷底から引き上げられ、車内から二つの遺体が発見された。後にネット上に広がった二人の噂によると、かなり評判の悪い人物で、暴力や脅迫をいつも周囲に置いているような奴らだったようである。
その日から、陸堂の日々は変化をしていった。自分の中にあった力を、使いこなすために手探りで訓練を続けた。
空手部の練習が終わってから、通学路の途中にある一級河川に架かる橋の下に通った。そこには、野良犬や野良猫、そしてカラスなどの姿があった。
入学した頃は、学校で上位にいた成績は徐々に下がり、三年生になる頃には、真ん中よりも下の順位まで下がっていたが、どうにか第二希望の大学に入ることができた。しかし、高校時代に得たものは大きかった。
動物を操るという自分の中にあった力を開花させることができた。また、空手を続けたことにより、肉体の強さは動物たちを操る精神の強さに関係することも発見できた。
陸堂の高校時代は自分の力を伸ばすために多くの時間が使われた。もちろん、その力を誰にも気づかれないようにすることは、片時も忘れなかった。
そして、年月が流れ、陸堂は自分の力を使う道を見出し、現在まで使い続けてきた。
これまでに、多くの人の命を奪い、それ以上の人の視力、下半身の自由、聴力、片腕などを奪ってきた。
これまでは、それらを奪ったことに対して後悔や後ろめたさを感じたことはなかった。奪われた者には、奪われるだけの理由があったと確信していたからである。
陸堂は隣で車を運転している瀬川という女に、微かに震える声で再び問いかけた。
「本当に俺が殺したのは、ターゲットの女ではなかったのか?」
瀬川はフロントガラスの向こうから、つかの間だけ視線を陸堂に向けて頷いた。
陸堂の中で、再び失望と後悔が暴れだした。
「夕菜はあなたの今までしてきたことを公開すると言っているわ」
瀬川の声は、さらに冷たさを増したように感じられた。
陸堂は喉の奥で不快なものが急に出現したように感じた。
「そんなことをすれば、夕菜もただでは済まないだろう?なぜ、そんなことを言う?」
瀬川は首を小さく振った。
「夕菜は自分の身を守ることなど考えていないわ。自分の信念に従うことだけが、あの人にとって大切なのよ」
「信念?夕菜の信念は、悪人を野放しにしないということではなかったのか?」
「そうよ。そして、あなたも夕菜にとっての悪人になったということね」
陸堂は自分の底から徐々に湧き上ってきた怒りを自覚し始めていた。
「悪人?俺が悪人だと言うのなら、夕菜は極悪人だろう?自分の手を汚さずに、何十人もの命を屠ってきたのだからな」
瀬川はそれに答えず、荒めのブレーキを踏んで車を止めた。
「ここからなら、あなたの家まで遠くはないでしょう?」
瀬川は運転席から助手席側の窓を指差した。
陸堂はドアをゆっくりと開け、立ち上がるときに助手席のシートの下に何かを放り込んだ。
車が走り去るのを見届けると、陸堂は自宅に向かって走りはじめた。
「お帰りなさい」
妻の声に適当に返事を返して、リビングの端に置いてあるノートパソコンを開いた。近づいてきた五歳になる娘に、テレビを見ているように言って、セキュリティアプリのサイトにアクセスする。
「まだ移動中だな」
ディスプレイに映し出された地図上を陸堂の携帯電話を示す点が移動している。瀬川の車のシートの下に放り込んだ携帯電話が瀬川の居場所を教えてくれた。
「携帯電話の追跡サービスというのは便利だな。こんな使い方は邪道だろうが…」
二十三分後、陸堂の携帯電話は動きを止めた。
翌朝、陸堂はいつもの出勤時間より一時間以上も前に家を出た。始発の次の電車は、いつもの通勤電車よりもかなり空いていた。
昨晩は何度か夜中に起きて、瀬川の車に置いた自分の携帯電話の位置を確認したが、変化はなかった。
「意外だな。普通の家のようだな」
陸堂が歩きながら視線の端に捉えている家の姿は、どこにでもある家にしか見えなかった。築年数は二十年ほどだろうか、古いというほどでもない。住宅街の一角にあるが、周りの家と比べて大きいというほどでもないし、特徴と言うほどのものもない。門柱には「前川」という表札がはめ込まれていて「瀬川」ではない。
しかし、車庫に止まっているのは、確かに瀬川が運転していた車だった。
玄関のドアがふいに開いた。
陸堂は反射的に視線を外して、足を速める。門を曲がる直前に、視線を家の方に向けた。
そこには、玄関ドアから出てきたばかりの五十歳代の女性がいた。手にはゴミ袋を持っている。
ごみステーションにゴミ袋を置いて、家に戻ると、その女性が玄関ドアを開けるよりも、一瞬早くドアが開いた。
ドアを開いて出てきたのは、瀬川だった。最初は分からなかった。醸し出す雰囲気があまりに違っていたからであった。いつもの冷ややかな印象と違い、柔らかな空気を自らの周囲に漂わせていた。しかし、その顔に浮かべている表情は違っても、確かに瀬川だった。
陸堂は瀬川が車に乗って行こうとしたら、どうやって追いかけるか考え始めた時、瀬川は赤い車の前を通り過ぎて、最寄り駅の方へと歩いて行くのが見えた。
陸堂は周囲に視線を向け、自分に注意を向けている者がいないことを確認してから瀬川の後をゆっくりと追い始めた。
瀬川は遅くも速くもない速度で、足を動かしていた。
陸堂は少し距離をおいて、瀬川の背中を追う。
「仕事にでも行くのか?」
瀬川が着ているのは、薄いグリーンのシャツに黒のパンツである。グレーのバッグには多くの荷物は入らないと思われた。
電車を途中で一回乗り継いだ後に、あまり馴染みのない名前の駅を降りると、瀬川はシャッターの閉まった店の前で足を止めた。取り出した鍵でシャッターを開けると、まだ開ききらないうちに店内に入った。
陸堂はそれから周辺の店で聞いたり、瀬川が入った店の様子を少し離れたところから数時間おきに何度か観察した。
それらのことを総合すると、瀬川はこの雑貨店を経営していて、店員を一人と、アルバイトを数人雇っている。店を開店したのは三年半ほど前だということであった。
「客はあまり多くはないと思うけど、ネットでの売り上げが多いのかな?経営状態は悪くはないようね」
そんなことを言ったのは、五軒隣の和菓子店の店員だった。店の経営者であるのに、意外なほど、近所には瀬川のことを知っている人は少なかった。
その日の午後二時頃、瀬川は店を出た。少し買い物に行くといった感じではなく、大き目のバッグを抱えていて、そのままどこかに出かけるという様子であった。
(夕菜のところに行くのか?)
陸堂は瀬川の後を追った。
電車を乗り継いだ後に改札を出た駅は、人口六十五万人の地方都市の中心駅だった。
陸堂は人ごみにまぎれることができることに少し安堵しながら瀬川を追う。
商店街の中にあるファーストフードの店舗に瀬川は入った。この小さなビルの三階まで客席があるようである。
陸堂が店の外からガラス越しに見ていると、瀬川はコーヒーだけを手に持って、階段の方に向かった。
陸堂は少し逡巡したが、店内へと足を踏み入れ、コーヒーを注文した。それを左手に持ち、階段を上った。
瀬川は二階の奥の席にいた。幸いにも、スマートフォンに視線を向けていたため、陸堂には気付かない。
陸堂はそのまま、瀬川からは死角になる席へと移動した。
二十三分が過ぎ、陸堂の前にあるコーヒーの入っていたカップが空になった頃、若い女性が現れた。二十歳代前半だろうか、身長は160センチぐらいと思われるが、かなり痩せた体型をしている。痩せていると言うより、痩せ過ぎているという表現の方が合っている。縁なしの眼鏡も、その痩せ過ぎを強調しているように思われる。
痩せた女は瀬川の前に座った。
その時、階段を主婦らしき女性三人が上がってきた。かなりのボリュームで互いに話しているため、他の客の話し声がかき消された。もちろん、瀬川と痩せすぎている女の会話も聞こえない。
陸堂は二人の女に近い席に移動しようかと考えたが、見つかると手がかりを失うことになると考えて、そのまま二人に意識だけを向けていた。
結局、十分ほど瀬川と痩せた女は話をして、席を立った。会話の内容は聞こえなかったが、二人の発していた雰囲気からして、友達同士の雑談ということではないようであった。
二人の女がファーストフード店を出て、別々の方向に歩き出したとき、陸堂は痩せた女を追った。瀬川のことはある程度は調べて分かっていたが、痩せた女のことは分かっていない。何か手がかりになるかも知れず、ここで見失えば二度と知ることはできないと思った。
なぜ知らなければならないかと考えたのか、それは勘としか言えなかった。
痩せた女は店を出て、すぐにJRの駅の方へ歩き、そのまま改札を入った。駅のホームに出ると、スマートフォンと電光掲示板を何度か見比べてから、五分ほどして到着した電車に乗り込んだ。
五駅先で降り、改札を出た。
その駅の南側は商業ビルが密集して建っているが、北側はビルがまばらである。
痩せた女は南側のバス乗り場に足を向け、発車待ちをしているバスの運転手に行き先を確認すると、乗り込んだ。
陸堂はタクシーを探したが、タイミングが悪く、タクシー乗り場には一台もいなかった。陸堂は睨むようにして少しの間バスを見ていたが、意を決して乗り込んだ。
幸い、痩せた女は陸堂に視線を向けることもしなかった。
バスの車内には、五人しか客はいない。痩せた女が陸堂のことを瀬川から教えられていれば、気付かれないはずはないが、その心配は無用のようである。
バスが十五分ほど走った後に、痩せた女は降車ボタンを押した。三分後に止まったバス停で降りたのは、その女だけであった。
陸堂は、痩せた女が降りたバス停で降りようかと迷ったが、怪しまれることを恐れて降りなかった。そのまま次のバス停まで乗り、痩せた女が降りたバス停まで走って戻った。
そのバス停から痩せた女が向かった方へ歩いて行くと、目に入ってきたのは乗馬クラブの看板だった。看板の矢印に従って道を進むと、白い平屋の建物が見えてきた。
駐車場を抜け、さらに建物に近づいていくと、柵があり、その向こうに馬の姿が見えた。
「見学者歓迎」
陸堂は看板の文字をつぶやいた。そして、建物に入らずに、回り込んで柵の前まできた。
少しの間、馬の姿を目で追っていたが、痩せた女がスタッフらしき男と話しながら馬場まで歩いてきたのが視界の端に映った。
スタッフが馬場や建物などを指差しながら、何かを熱心に話している。その様子からすると、痩せた女は乗馬クラブの見学に来ているようである。
陸堂は何か急に脱力感が襲ってくるのを自覚した。
「帰るか…」
痩せた女は、ただ単に瀬川の友人であっただけなのかと思い、足をバス停の方へと向けた。
バス停が見えるところまで戻ると、運悪くバスが発車するところだった。走っても間に合わないので諦めて、バス停まで歩いた。
時刻表を見ると、次のバスが来るまで、五十分も必要であった。喉の渇きを覚えて周囲を見回したが、店も自動販売機もない。仕方なく、乗馬クラブまで戻った。
クラブハウスの休憩スペースには、乗馬クラブの会員らしき人々が、丸テーブルとその周りに置いてある椅子を占拠していた。その部屋の端にある自動販売機でミネラルウォーターを買うと、すぐにボトルの半分ほどを喉の奥に流し込んだ。一息ついたので、窓の外を何気なく眺めた。
痩せた女が馬場を囲む柵の外側に立っていた。視線の先には乗馬中の女がいた。四十歳前後の小太りの女である。
小太りの女は、乗馬経験がかなりあるようで、リラックスした様子で乗馬を楽しんでいるようである。馬も落ち着いた様子で、小太りの女を乗せて歩いていた。
(こんな時間に乗馬をしているのだから、裕福な家庭の主婦なのか?)
小太りの女は笑みを浮かべながら、優雅に乗馬を楽しんでいる。
痩せた女は柵が手に届くほど近づいた。表情が硬い。口元が動いている。
誰も痩せた女の方に視線を向けていないところを見ると、大きな声は出していないようである。
突然、陸堂は自分の中に緊張がはしるのを感じた。
赤毛の馬が唐突に前足を浮かせて、立ち上がった。
その背に乗っていた小太りの中年女は手綱を引いたが、体勢を立て直すことはできずに、背中から馬場に落ちた。
乗馬クラブのスタッフが駆け寄る間もなく、馬は落ちてから動けずにいる小太りの女の上に前足を叩き下ろした。馬の足は二度、女の胸の上に落ち、女の肋骨を砕いた。そして砕かれた肋骨は女の肺を突き刺し、女の人生の終了を確定させた。
馬は興奮している様子で、馬場の中を無秩序に飛び跳ねている。
「俺と同じ力なのか?」
陸堂は痩せた女が馬を操ったと確信していた。証拠があるわけではない。しかし、自分が持っている力と同種の力が働いたことを感じ取っていた。
乗馬クラブ内が騒然とした空気に満たされ始めていた。
口から大量の血を吐き出した小太りの女のところにスタッフの男が駆け寄り、別のスタッフが興奮して馬場内を駆けている馬をどうにかなだめることに成功していた。
陸堂は痩せた女の姿が消えていることに気付いた。視線を忙しく動かしたが、やはり見当たらない。クラブハウスから出て、馬場の方に歩いて行く。
何人ものスタッフが小走りで、走っている。
「どこに行った?」
陸堂は呟いて、さらに探したが見当たらない。
ふと、クラブハウスの壁面に取り付けてある時計が目に入った。もう少しで、バスが来る時間である。
陸堂はもう一度、周囲を見回してから、バス停に向かった。無意識に走り出した。
(あの女はバスに乗って、ここから去ろうとするつもりかも知れない)
バス停が見えてきた。バス停には二つの人影が見える。そのうちの一つは痩せた女のものである。
陸堂は息が切れてきたので、足を緩めた。
救急車のサイレン音が聞こえてきた。音のする方へと、視線を向ける。
視線を戻した時には、バス停にバスが止まり、ドアが開いていた。
陸堂は再び走り始めたが、バス停まで三百メートル以上はある。走り始めてすぐに、バスのドアは閉じられた。バスを呼び止めるには、遠かった
バスは走り始め、陸堂が追いかけても無意味であった。
「俺と同じ力なのか?」
息切れしながら、陸堂は再び同じ問いを発した。その視線に先には、バスの車窓越しに見える痩せた女の姿があった。
サイレンを鳴らした救急車が、目の前を通り過ぎていった。
陸堂は足を止めて、救急車を目で追った。
(俺の代わりを見つけたから、夕菜は俺のやってきたことを公表するというのか?しかし、俺が警察に捕まることになれば夕菜自身も無事では済まないことは分かっている)
バス停の方へと、足を向けた。
陸堂の思考は続いている。
(それに、そもそもなぜ瀬川は夕菜が公表しようとしていると俺に告げたのか?単なる脅しだったのか?それなら、なぜ俺を脅す必要がある?俺との縁を切りたいのなら、そう告げるだけで十分なはずだ。俺が恨みに思って夕菜たちを攻撃するとでも思ったのか?いや、それは本末転倒だな。恨みに思われたくないのならば、公表すると告げる方が危険であることぐらいは分かるだろう)
二十分近くの時が過ぎ、バス停にバスが到着した。バスの中には、乗客の姿は少なかった。
陸堂は自分の中に膨れ上がってくる不安を感じながら、車窓の向こうに視線を泳がせていた。