桑島謙信
「あー、今日は遂に手術かー。緊張するなー」
今日も黒田さんは、朝から僕の病室にいきなり押しかけ、能天気にくつろぎ始めた。他に患者がいないからって、好き勝手し過ぎじゃないだろうか。というかこの人に限って、緊張なんてしないと思うんだけど。
「人面瘡の手術ってどんな感じなんですか?」
「えっとねー。泣きわめく人面瘡に、無理やりハサミを突き立てて、抉り千切るの」
……。思ったよりハードなんですね。
「あと無麻酔」
「緊張しないとか思ってごめんなさい」
僕は心の底から謝罪した。
「ははは、智紀は純情だねえ。冗談だよ」
とかなんとか。本題に入る前の馬鹿話も、日課のようになってしまった。実は楽しいと感じていることが、少し悔しい。まあ、悪い気持ちではないけれど。これでは、端から見れば、黒田さんに懐いているみたいだ。
「さて、本題に入ろう。最後の一話だね。今日は――」
「智紀」
入り口の方から声がして、僕は振り返った。聞き慣れた甘い声。同じ中一とは思えない、モデルのようなスタイル。無駄に整った容姿。僕を置いてすっかり大人っぽくなってしまった幼馴染――桑島謙信の姿が、そこにはあった。
「今、大丈夫?」
短い言葉で、だけど確かな温かさを滲ませて、謙信は言った。ああ、なんだか心地よい。久しぶりに聞く親友の声だ。ちょっと迷って、黒田さんを見た。彼女は穏やかに微笑んでいる。
「いいよ。私のことは構わないで」
謙信は、いかにも緊張しています、という様子で歩いてきた。僕も、少しだけ気まずくて、俯く。あんなことがあって以来だから。
謙信は、紙袋をどさっとテーブルに置いた。
「これ、おじさんから。心配していたよ?」
果物や漫画、それから生活用品が入っていた。心配していた? ふん、嘘つけ。目を合わせてもくれないくせに。
「賢い君のことだから、言われなくとも分かってるはずだ。おじさんも君だけにかまっている訳にはいかないんだ。今はおばさんも不安定だから。誰かさんのせいで、ショックを受けたんだろう」
「……」
「3階から飛び降りるとか、君って意外と根性あるんだね。さすがに俺も真似できないよ」
奴が僕の硬い口をこじ開けようとしているのは、理解していた。わざと僕の腹が立つ言葉を選んでいる。こいつはいつもそうだ。誕生日が3か月ばかり先だったからって、兄貴ぶって……いや、それは関係ないか。
謙信がもともと備えた性質だ。クラスではいつも人気者。女子にだってモテモテだもんな。
分かっているさ、本当は。こんなのはガキのすることだって。大人は黙っていじけたりしないで、ちゃんとけじめをつけるものだって。
黒田さんを盗み見る。穏やかな眼差しだ。背中を押してくれているような気がした。
言葉は、勝手に口から溢れた。
「連絡、どれだけ一方的に送るんだ。ストーカーかよ」
勝手な言い草も、奴を動揺させるには不十分だった。僕の扱いをよく分かっていやがる。
「気にしていないよ。いつものことじゃん」
「僕はそこまで薄情じゃない。普段は」
ふっ、と謙信は笑った。
「うん、そうだね。むしろ君は情に厚い人間だよ」
視界がにじむ。頬を涙が伝う。僕は、思ったよりも不安だったみたいだ。
嫌だな。ガキっぽくて。だけどあの事件から初めて、僕は謙信の前で笑うことができた。
謙信は用事があるとかで、すぐに帰った。詳しくもない漫画を父さんがどうチョイスしたかを想像すると少しおかしかったけれど、素直にありがたいと思った。
「お、フルバじゃーん。お姉さん、子供の頃から読んでたよ」
「そんな昔からあったんだ」
「そこまで昔じゃないよ?」
それよりも、と。黒田さんは急に距離を縮めてきた。な、なんですか。
「さっきの良かったよー。お姉さん感動しちゃった」
う。そうだ。この人、しれっと居座っていたんだった。
「うふふ、仲がいいんだね。気になるなー。本当にただの友達?」
何が言いたいんだ、この人は。
「いやね、お姉さんくらいの婦女子になると、ビビッと感じちゃうわけよ。色々と」
「……何を期待しているか知りませんけど、謙信はただの幼馴染ですよ」
「クラスも一緒なんでしょ? 桑島だから、一つ後ろの席? いいなあ、青春だなあ」
「もう何回も席替えしてるから……じゃなくて。今日は最後の話をしてくれるんでしょ」
強引に会話を切りあげた。黒田さんは、にっ、と女優でも顔負けと思われるような爽やかな笑みを向けてきた。普通にしていれば綺麗な人なのに。
「そうだった。約束だもんね」
約束。僕は今日、ついに人面瘡を見せてもらえる。
黒田さんは、最後の怪談を語り始めた。
「今日は色恋沙汰の話。ちょっと智紀には早かったかな?」