蟹リズム
「今も、女の顔は受け継がれているかも知れないね……もしかしたら、智紀にも」
不覚にも、背中がぞわっとするのを感じてしまった。今日は、素直に怖いと思う。現実の事件と結びつけてきたところも上手い。年月日も最近のものだし。というかちょっとグロテスクで、食欲が引っ込んだ。
「ひどいですよ、黒田さん……」
「はは、ごめんって」
黒田さんは笑って、立ち上がった。僕の後ろに回り、髪をかき上げて、背中を確認してくれた。
「大丈夫。なんともないよ」
そんなあからさまな子供扱いをされても、腹は立たなかった。それどころか、嬉しい気持ちさえした。一人きりの入院生活で、人恋しくなっていたのかもしれない。もともと神経の細い母さんは、僕の入院ですっかり参ってしまった。父さんはたまに差し入れを持ってきてくれるけど、目も合わせてくれない。連絡をくれる友人は謙信だけ。
「そういえば、人面瘡」
僕は暗くなりかけた気分を振り払いたくて、黒田さんを振り返って言った。
「黒田さんの人面瘡はどこにあるんですか?」
「えー、まだ見せる約束じゃないでしょ」
「場所だけでいいですから」
頼むと、渋々といった調子で、だけど少し楽しそうに、おいでおいでをした。僕は片足立ちで、黒田さんの座るベッドに移動する。隣に腰掛けると、いい匂いがした。鼓動が早まるのを感じる。
黒田さんは浴衣のような入院着の裾を、大胆にめくった。綺麗な左の太ももに、包帯が巻かれている。
「ここにあるの」
指さしながら言った。厚く巻かれているわけではなさそうだが、何か出っ張っているものがあるという感じはしない。
「本当にあるんですか?」
本当だよ。
どこからか声がした。黒田さんが言ったのとは違った気がした。え?
包帯が、内側から、ずもり、と動いて――。
「クロダサン! もうゴハンですよ」
病室にリーさんが入ってきた。昼食を持ってきてくれたのだ。
「あ、はーい。すぐ戻りますから」
裾を直して立ち上がる。その時、黒田さんは、僕にそっと耳打ちをしてきた。長い黒髪越しに、彼女の甘い声音は、僕の耳朶を震わせた。
「……蟹リズム」
「は?」
僕にはそう聞こえた。どんなリズムなんだ?
黒田さんはニヤリと笑った後、リーさんの横をすり抜けて病室を出て行った。蟹歩きじゃないからか、ちゃんと足音は鳴った。
一人で食事を取っていると、色々と考えてしまう。あまり考えたくないことであっても。僕はさっきの話を反芻していた。
蜘蛛の背中に女の顔。カラスに移り、男に移った。そしておそらく熊にも。
しかし、だ。そもそも、どうして蜘蛛の背中に現れた? 平家蟹。蜘蛛の異名は細蟹だからか……? そんな馬鹿な。
いや。箸を止める。蜘蛛の背中にもどこかから移ってきたとしたら。蜘蛛は何を食ったのか。
蜘蛛は人を食べない。食べるとしたら蚊だ。蚊も、死体に針を突き立てたりはしない。締め切った室内で蚊が吸ったのは、男の血だろう。
……食べると、受け継がれる。翌日には移動する。
男は何を食ったのか。
今度こそ僕は、全身が総毛立つのを感じた。なんてこった。彼女は、ただ殺されただけではなかった。あまりに惨い……。
そして、それだけではない。彼女は、ただでは殺されなかった。同じ方法で、男を殺した。僕には、女の執念に思えて仕方が無かった。
カニリズム。
ちくしょう、黒田さん。食事前になんて話をしてくれたんだ。
結局その日は昼も夜も、お腹が痛くて肉類は残してしまった。