平家蟹
気分が優れなくて、病室でぼんやりとニュースを見ていた。4人部屋だけど、僕以外に患者は居ないから、イヤホンは繋げずにテレビをつけている。足の骨を折った身。もう慣れたとはいえ、あまり歩き回れないから、雑誌やニュースくらいが僕の娯楽だ。
話し相手になってくれそうな友人は、いるにはいる。
ブー。携帯が振動した。画面には、そいつの名前が表示されていた。
『桑島謙信』
幼馴染みで、いわゆる爽やかイケメンの、クラスメート。たいそうな名前に劣らず文武両道で、クラスの人気者だ。こんな僕に普段通りメッセージを送ってくれているのは、奴くらいのものだというのに。僕はまだ一度も、謙信に返事をできていなかった。
締め付けられるみたいに頭が痛んで、僕は逃げるように、テレビに意識を切り替えた。
それは、悲惨な事件だった。熊に襲われたという。しかも遺体は……やめよう。さっきから、空腹を喚起するいい匂いが漂ってきている。食事前に考えることではないのだ。
「食べられるなんて、嫌な死に方よねえ」
「うわ!」
びっくりした。いつの間に入って来たのか、黒田さんは僕のすぐ背後に張り付いていた。彼女とはある約束を交わしている。黒田さんに人面瘡を見せてもらう代わりに、僕は彼女の怪談話を聞くという、奇妙なものだ。
昨日も気付いたらそばにいた。猫みたいな人だな。
「どっちかっていうと蟹だよ。今も横歩きで静かに入ってきたんだから」
黒田さんは僕の身体の前で両手をチョキの形にした。見た目は傾国の美女だけど、実はお馬鹿さんなのではないだろうか、この人。
「今日は、ある男の手記を紹介するわ」
やっと僕から離れて、どさっと隣の空きベッドに腰を下ろした彼女は、おもむろに手帳を取り出した。
「題して、『平家蟹』ってとこかな」
2009年7月8日
――驚いた。これは天啓か。
順序立てて書くとしよう。
自宅で最愛の恋人を看取った私は、その後数日間、世間との交渉を絶った。誰も部屋に入れなかった。風呂にも入らないでいると、小さな羽虫が飛び交うようになった。蚊が腕に止まっても、指先を動かす気力さえ起こらなかった。本棚に蜘蛛が、我が物顔で巣を張った。
ある時、何の気なしに蜘蛛を眺めていた時だった。背部に、人の顔らしき模様があるのが気になった。よく見ると、女の顔だ。私はさらに近付いた。
それは彼女の顔だった。ああ、愛しい人。君はそこにいたんだね。
私は昔聞いた話を思い出した。平家蟹のことを。そう、君が教えてくれたんだった。君はオカルトの類いが好きだった。
源平合戦に敗れた平家の怨念が乗り移ったとされる蟹。その甲羅は、無念の表情を浮かべた武者の相を示す。しかし、我が家の蜘蛛に現れた君の顔は、怨嗟とは無縁の、安らかな顔だった。亡くなった時そのままに。
蜘蛛は大切に飼うことにする。餌は蚊でいいか。心が上向きになった気がする。小さな生き物を育てることは、いい方向へ作用するかもしれない。
そうだ。久しぶりに窓を開けて、空気を入れ替えよう。
7月9日
ああ、なんてことだ。己の短慮を悔いるばかり。開け放った窓から、カラスが飛び込んできて、蜘蛛を啄んだ。むごいことを。彼女は二度も殺されたのだ。
むろん捉えた。羽を骨ごと千切った。息も絶え絶え。今日明日の命だろう。
それまで、どうしてくれようか。ただでは殺さぬ。
なに、たっぷり時間はある。
7月10日
奇跡は、再び起きた。一晩カラスの処遇を考え、明けた朝のことだ。
カラスの背中に君の顔が浮かび上がっていた! 私は確信した。彼女はまだ生きていたのだ。
ある興味深い仮説が、私の頭を支配した。血肉を摂取すると、受け継がれるのだ。捕食者の背中に移動するのだ。蜘蛛の背にいた彼女は、新たな宿主へ移っただけだった。
私は、数日ぶりに世間との関わりを持った。同僚だったコックに、電話をかけたのだ。カラスの調理方法について意見を聞いた。
胸中には、自由を奪われた黒い鳥のことだけがあった。今も、鍋が煮える音に心躍らせている。
7月11日
おかえり。
再び、私のもとへ戻ってきてくれたんだね。君がいないこの数日間は、ひどくさみしい思いをしたんだ。
鏡越しに見る君の顔も、美しい。安らかで、まるで眠っているようだ。それだけで満足だった。
7月14日
彼女と一心同体になれたのも、束の間だった。いつか終わりは訪れる。
警吏の魔の手から、私は逃げなければならない。だが、同様に、逃げ続けることもできない。捕まれば、私の体は失われる。そうなれば彼女はまた死を迎え、当て処もなく現世を彷徨うことになるだろう。そんなことは耐えられない。たとえ私の肉体が失われようとも、彼女が、この世で、変わらぬ姿を保ち続けられるのなら……。
私は喜んで、その身を差し出す。
「――そこで、恋人を惨殺した殺人鬼の手記は終わっていたわ」
黒田さんは、パタンと手帳を閉じ、男の末路を付け加えた。
「彼は、山で遺体となって発見された。体中を熊に食い荒らされた姿で。
背中の損傷は特に酷くて、手記の内容の真偽は確認できなかったそうよ」