エピローグ
2019年。夏。
あれから十年が過ぎ、私はかつての黒田さんと同じくらいの年齢になった。見た目はますます彼女に近付いていった。女の年月を重ねていった。
私があの日決断したのは、女性として生きる、ということだった。「私」という一人称を使うようにしたし、言葉遣いも改めた。
性自認が変わったわけではない。自分が男だという気持ちは続いていたけれど、期限付きなら、せめて親元を離れるまでは、女として振る舞ってみてもいいと思ったのだ。
それは私なりの、生き方を探る旅だった。強制されたのでも、我慢したのでもない。自分の中に黒田さんのような人格があったと知って、私は前ほど頑なではなくなっていた。そういう道もあるのかもしれないと。社会にとっての「自然」に生きるのもありだと思った。
親という現実的な壁もあった。あれだけ迷惑をかけたのだ。私が歩み寄らなければ、家庭が崩壊する。
女として過ごすようになって、周囲の反応は変わった。小学校時代と違い、クラスの人間とはギクシャクしなくなった。謙信以外にも友達はできた。
親との関係は良好になった。家には笑顔があふれるようになった。表面上は、私は良い娘であり続けた。親も私を大切に育ててくれた。本当に良い家族だと思う。
恋愛の面でも。私は中学を卒業するに当たって、謙信と付き合うことになった。高校は別だったけれど、週末には二人で会った。中学生の頃のような潔癖さも、自然となくなっていた。成り行きで、そういうことになったりもした。
高校は共学だった。そこでも私は女子として振る舞ったけれど、困ることもあった。着替えの時などは、特に。さすがに他の女子と一緒というわけにもいかなくなって、一人トイレで着替えたりした。まあだけど、それくらいだ。陰湿ないじめなんかはなかったし、今でも続く親友も得られた。彼女たちは私の個性を受け入れてくれている。
常に頭の中に思い描いていたのは、黒田さんの姿だった。彼女のように振る舞え。笑い、煙に巻け。私は彼女を行動の指針にした。上手くやってこれたと思う。もう彼女が現れることはなかったけれど、周りの助けもあり、私は生きてこれた。
こういう暮らしも悪くはないと思えた。一方で、再確認できたことがある。私は、逃れられなかった。生まれ持っての自我からは。やはり私はどうしようもなく、男だったのだ。
たとえ、家族と決別しても。
偏見に晒されようとも。
尊厳を踏みにじられようとも。
自分が何者であるか。誤魔化すのは気が引けた。私にとっては「不自然」だった。私にとっての「自然」でありたいと思った。知って欲しいと願った。
旅の決算をする時だった。高校卒業を機に、私は両親に考えを打ち明けた。怖かった。当然だ。また拒絶されるのではないか。かろうじて独り立ちできたとして、これから先、苦難が待ち受けているであろう人生を思うと、気が遠くなりそうだった。
それでも、私はこの道を選んだ。あの幼い頃の少年はいない。松葉杖もない。あの人もいない。
今度こそ、僕は自分の足で立つんだ。
二人は僕の決心を尊重してくれた。それどころか、ずっと勉強していたのだ。性同一性障害。FtMのこと。同性愛との違いを正確に理解していて、驚かされた。
僕の「病気」が治ったなどと楽観的に思っていたわけではなかった。むしろ、母さんも父さんも、僕が男であることを理解しようとしてくれていたのだ。歩み寄ってくれていたのだ。気付けなかった。親の前では、やはり僕はどこまでも子供に過ぎなかった。
謙信とは別れた。さすがに気まずいという思いはある。数年はまともに顔も合わせられなかった。かつてのような親友には、もう戻れないかも知れない。
けれど、僕は思う。そもそも不変の関係性なんてないのだ。人が生き、成長を続ける限り、人同士の繋がりも変わり続ける。形が変化した関係を、新たに結んだ友情を、僕たちは大事にしていくだけだ。
大学では看護学科に進んだ。今の自分があるのは、あの病院でのことがあったから。あの人に出会うことができたから。
今では思う。
『ねえ、少年』
そう言って、黒田さんは僕を救いに来てくれたんだ。
春から病院で、看護師として働いている。すべてをさらけ出しての就職活動は簡単なものではなかったけれど、最終的には一つの病院が採用してくれた。何の因果か、それはあのN市立総合病院だった。彼女と出会ったこの場所で、だから僕は、第一歩を踏み出そうと思った。
そして数ヶ月が過ぎ、基本の雑用くらいには慣れてきた今日この頃。僕は、病院の中にある理髪店に来ている。今まで髪を切らなかったのは、単に惰性と、それから、もしかしたら黒田さんが話しかけてくれるかもしれないという、淡い期待からだ。
だけどそれも、もう終わりにしなければならない。
「玄田さん!」
懐かしい声がして、僕は物思いから引き戻された。鏡に映る店の入り口に、あの人の顔が見える。
「リーさん」
彼女はチェアの側までやってきてくれた。夜勤明けで、今から帰りだろうか。当時と変わらず、忙しい日々の中でもパワフルな人だ。病棟は違うけれど、よく目をかけてくれる、良い先輩でもある。そしてこの十年で、格段に日本語が上達していた。
「今日は散髪ですか?」
「はい。バッサリ切ろうと思って。もう暑くなりますから」
悪戯っぽく笑いかけると、リーさんはすべてを納得した顔になった。当然、彼女は僕のアイデンティティのことも理解している。
「大丈夫ですよ、玄田さん。ここはみんな優しい、良いところです」
そう言って、さりげなく、喉元を撫でた。あ。僕は目を見開いた。僅かな膨らみ。彼女は悪戯っぽく笑って、去って行った。
今までどうして気付かなかったんだろう。そうか。そうだったのか。
思わず、笑みがこぼれる。やられた。灯台もと暗しというやつか。思わぬところに先達がいたなんて。これからも、色々なアドバイスをもらうことになるだろう。
世界は、僕が思っているよりも寛大なのかも知れなかった。今では分かる。13歳の僕には大きすぎた問題も、心を分裂させることでしか生き残れなかった危機も、案外なんとかなるものなのだ。
こんな風に楽観視できるようになったのも、周りの人たちのおかげだ。僕には、黒田さんが居てくれた。家族が、友が居てくれた。救いとなる光があった。今度は僕も、誰かにとっての、そんな人になれたら。どんなに素敵だろうか。
「お願いします」
僕は、店員さんに声をかけた。黒田さんは最後まで、僕の前には現れてくれなかった。寂しい気持ちはある。だけど、黒田さんはずっと側に居てくれたと思うことにした。十分、彼女は見守ってくれていた。僕が一人で立てるまで。
僕はもう大丈夫。だから、これでお別れです。
さよなら。黒田さん。
最後に、鏡の中で彼女が、静かに微笑んでくれたような気がした。
完