最後の一話
「ねえ智紀。分かってるんでしょ。自分が何をするべきか。大人になりなさいよ」
また、黒田さんは僕の隣に座っていた。分かっているさ。怪談話はもう聞いた。人面瘡を見ることもできた。あとは手術だ。
「怪談は、すべて僕を意識した話だったんだね」
黒田さんは、黙って微笑み返してきた。
人面犬。三年というのは、僕が16歳になるまでの年数。結婚できるようになる年齢だ。母さんや、周囲のクラスメートは、明るい期待を胸に将来を語った。僕は言外の圧力がたまらなく嫌だった。押しつけられるイメージを、僕は嫌悪した。
自分の歪な状態の、タイムリミットのような気がして。結局、その時は三年早く訪れた。
平家蟹の話。あれは酷い。クラスの女子数人が、謙信のことを指して「食べちゃおうよ」と話していたのだ。もちろん、そういう意味で、だ。僕は許せなかった。自分の親友を性的な目で見られたことが。だけど一番嫌だったのは、自分自身が彼女たちと同じ身体を持っていること。
「智紀は潔癖だよねえ」
黒田さんはニヤニヤと笑った。うるさい。でも、どうしようもないんだ。気持ち悪くて仕方がないんだよ。
「人面瘡の解釈は、ずばり智紀のことを想定して話したのよ」
4日目の話。それは僕に気付かせるためのものだった。黒田さんもいい加減待ちくたびれていたのかも知れない。僕だって、このままでいいとは思わない。自分の心と身体が、矛盾した状態。捻れた状態。心が壊れたって、無理はない。
「ね。智紀。だから最後はどうなるか、分かるでしょ。まだ触れていないお話」
黒田さんの入院着は大きくはだけて、太ももがあらわになっている。あのおぞましい顔も。人面瘡も。
しきりに口を開け閉めする、恐怖と憎悪の入り交じった、醜い顔をした僕自身。だけど、不思議なことに、音は全く聞こえなかった。黒田さんの声だけが、艶めかしく僕の鼓膜を撫で上げた。
「さあ、今から人面瘡の手術だ。メスを持って――」
黒田さんは、メス、いや、果物ナイフを僕の手に握らせた。僕は強く握りしめた。
「顔に突き刺すんだ。それですべて終わる。なあに、チクッとするだけさ」
僕は魅入られたように、ナイフから目が離せない。人面瘡にめがけて、徐々に近付けていく。
黒田さんの狙いはこれだったのか。ああ。僕は黒田さんのちょっとした嘘に気が付いた。僕が人面瘡だと思っていたものは、そうではなかった。
これは僕自身なのだ。
「気付いた?」
黒田さんは、感動したように唇を歪めた。
「そう。智紀が飛び降りた瞬間に生まれた、女としての自我。それが私。あなたの人面瘡。
君の心は男性だ。だけど、瘡は徐々に広がっていった。治癒することなく、君を覆い、やがて瘡は綺麗な皮膚に置き換わり、女の身体になっていった。いつしか傷の部分が、元々の智紀を凌駕してしまった。
逆なんだ。この私の身体こそが人面瘡。太ももにある君の顔は、君本来の、残された自我だったのよ。自分は男だという――」
その瞬間、僕は人面瘡になっていた。震える手でナイフを持った少女が、僕を見下ろす……彼女は、いや、私自身が、喉の奥に、とがった切っ先を差し入れてきた。
「さあ、一突きだ。そして最後には……」
最後の物語のピースが、嵌まった。誰かが走ってくる音を、私は遠くに聞いた気がした。リーさんか。謙信か。それとも父さん……母さんかも知れない。
だけどもう、黒田さんには逆らえない。
「『血だまりの少女』さ」
私は喉を突いた。




