おともだち
怪談では、よくある話だ。
病院で出会った女の子。友達になって遊ぶ。だけどしばらくして、そんな子は入院していないと看護師に告げられる。あの子はいったい。
黒田さんも、そういう存在だっていうのか? 馬鹿な。幽霊なんて、いるわけがない。
そうだ。病室に帰ったに違いない。721号室に。また例の猫のような隠密行動で、いや、彼女に言わせれば蟹だっけ……。
謙信が帰った後、僕は病室を飛び出し、そして721号室の前までやってきた。
『黒田美月』
ネームプレートには確かに、彼女の名前が記されている。
もう、黒田さんたら。人が悪いな。人面瘡を見せてくれる約束じゃないか。
そんな言葉まで用意していた。だけど、内側から開いたドアによって、僕は不意を突かれた。
女の子が、立っていた。5歳くらいの。
「あー!」
その子は、歓声をあげた。僕も、彼女には見覚えがあった。黒田さんが髪飾りをもらった子だ。
どうして、君が、黒田さんの部屋に?
いや。
僕は、恐る恐る、尋ねた。打消しの言葉を心の底から期待しながら。
「もしかして……黒田美月ちゃん?」
「うん!」
頭を殴られたような衝撃を感じる。思わずよろめきかけて、とっさに空いている方の手でドアを掴む。変に力のかかった足が悲鳴を上げた。
「美月、どうしたの? ――あら」
女の子の背後には母親らしき女性が立っていた。もちろん、黒田さんとは似ても似つかない、ショートカットの奥さんだ。かろうじて残存していた社交性をフル動員して、僕は笑みを浮かべる。
「えっと、初めまして。玄田智紀です」
「まあ、そう。同じ名字なのね」
舌を少し湿らす。よく間違えられるから、この手の訂正は慣れたものだ。少し落ち着きを取り戻し始めていた。
「はは。実はクロの字が珍しくて。玄人の玄に、田畑の田で玄田なんです」
「そうなの」
僕は勘違いをしていたんだ。
「娘と仲良くしてやってくださいね」
こちらも軽く頭を下げると、ちょうどリーさんが通りかかった。
「おや、おソロいですね、クロダサン!」
『クロダサン!』
あの時も。人面犬の怪談の後、片言のリーさんは、なんと言ったか。彼女は721号室のクロダを探していた。用事があったのは、この幼女だけだった。
体温計はついでだった。黒田さんに声をかけられたから、リーさんは彼女に体温計を渡したのだ。
いや……記憶に齟齬が生じ始める。体温計を受け取ったのは、この僕?
記憶が修正されていく。黒田さんなんていう大人の女性はいなかった。僕が、自分の手で体温計を受けとったのだ。
『リーさん、部屋じゃなくて「721号室」って言うと自然だよ』
そう言ったのも、僕だった。いや。あの時の僕は、「黒田さん」だった。
僕は、夢見心地で黒田美月の頭を撫で、その場から立ち去った。
黒田さんは、僕や黒田美月に向けられた言葉に反応することで、自分が存在するように見せかけた。僕は自分を騙した。黒田さんを生み出したのは……。
病室に戻ると、黒田さんがいた。手鏡を見ながら、長い黒髪を櫛で梳いている。
「おかえり、智紀。急に出ていくから驚いたよ。人面瘡を見るんでしょ?」
ベッドに腰かけた黒田さんの入院着の隙間から、太ももに巻かれた包帯が見えている。その下に、人面瘡はある。
「黒田さん、あなたは」
乾いた口から、言葉を絞り出す。
「僕が作り上げた、もう一つの人格なんだね」
「うふふ。やっと気付いた」
黒田さんは、いたずらが見つかった子どものような笑みを浮かべた。とうてい幻覚とは思えないような、素敵な笑顔だった。
「君は目の前の出来事から逃げるために、私を生み出した。教室の窓から飛び降りた時、私が生まれたんだ。名前が付いたのは、入院してからだけどね」
無意識のうちに視界に入っていた、721号室のネームプレート。黒田美月。僕は自分と同じ読みの名字の患者から名前を拝借し、別人格に与えた。黒田さんに。
「ねえ智紀。問題は全く解決していないの。保留状態は続いている。君はまだ宙ぶらりんの存在。飛び降りた時からずっと、君は落ち続けているんだ」
智紀はどうしたい? 彼女は小首を傾げた。
僕は。
人面瘡が見たかった。そうだ。見たかったんだ。
「見せて。黒田さんの傷」
「いいよ」
僕を焦らすように、包帯を解いた。はらり、と包帯は床に落ちた。
黒田さんの太ももには、確かに人の顔があった。僕の顔だった。




