人面瘡
謙信が持ってきてくれた梨を器用に剥きながら、黒田さんは尋ねてきた。
「ところでさ。桑島君って辰年?」
「はい?」
急に突拍子もないことを言い出した黒田さんに、僕は眉をひそめる。
「だって謙信じゃん? 越後の龍っていうじゃない」
上杉謙信のことか。またこの人は、くだらないことを……。謙信も僕も、ねずみ年だ。
「違いますよ」
「そっか、残念。はい、あーん」
「むぐ」
おいしい。黒田さんも、頬に手を当てて、幸せそうに有りの実を味わっている。
「黒田さんは何年なんですか?」
「ねずみだよー」
あっさり年バレを許す黒田さんであった。結構年いってるんですね。
黒田さんは脳天気な調子でしゃべり続けた。
「上杉謙信といえばさ、こんな話もあるよね。実は女だったっていう説。諸国に知られるとまずいから、性別を隠して男で通したとか……証拠なんてないから分からないけど。時の流れというのは、真実を塗り潰してしまうものさ。特に、当人が隠す気でいるならなおさら」
「何が言いたいんですか」
話の流れがどこへ行くのか読めなくて、僕は焦る。謙信の話を考えていたせいもあった。僕は謙信とのことを誰にも話していない。なのに、この人はどうして……?
「あの話もそう。何百年も前のことだから、真実は闇の中だけど……彼女は、自分の女性的な部分を切り落としたのかもしれないね」
「は?」
今なんと言った。彼女?
「ええ。雪之進はお雪さんだったのよ。智紀なら説明しなくても分かるでしょ? 性同一性障害。もちろんその時代にこんな言葉はない。彼女……いいえ、彼と言うべきかしら。彼は、生まれ持った女の身体を受け入れられなかった」
はあ? 何を言ってるんだこの人は。頭が追いつかない僕を無視するかのように、黒田さんは言葉を続けた。
「化粧をすれば女、じゃなくてさ。女に見られないように化粧をしていたんじゃないかしら。最後に村人が別人のように思ったのは、遺体を清めたときに、化粧が落ちたから」
がんがんがん。血管の脈動に合わせて、頭が割れるように痛む。まさか。そんなこと。僕の脳裏に、謙信と話した、あの放課後のシーンが鮮烈に蘇る。
『智紀のことが好きなんだ』
「女を殺したということだったけど、たぶんそれは、お雪が自分の肉体的な性を隠し、新天地に旅立ったことの暗喩だね。しかしそうしたところで、嫌でも女の部分は目に入る」
黒田さんは細い指先で、果物ナイフの表面を撫でた。人面瘡ができたのは、最初に右胸。次に左胸……。
「周りの理解があれば。彼を本当の意味で受け入れてくれる居場所さえあれば。お雪が心を病むことは無かったかも知れない。私は、それが人面瘡の真実だと思う」
嘘だ。僕は否定したかった。たかが怪談だろう。あなたの作り話だろう。
僕はムキになっていた。黒田さんが、明らかにこの話を僕たちと重ねていたからだ。それで僕は。僕は、謙信の想いを拒絶した罪悪感から、彼女の仮説を否定したがっているのだ。
やめてくれ。考えたくない。だって仕方ないじゃないか。謙信は男だぞ。どうしても無理なんだよ――。
頭痛が襲ってくる。今回のは酷い。割れるように痛む。朦朧とし始める意識を、僕は鞭を打って奮い立たせる。
「黒田さん……」
あの放課後は僕と謙信だけの秘密だった。誰にも話していない。それなのに、あなたは。
黒田さん。いったい、何者なんですか。
「智紀」
男の声がした。その瞬間、霧が晴れたように思考がクリアになった。は、と振り返る。入り口のところに謙信が立っていた。
「大丈夫かい?」
「ああ。平気だ」
僕は笑おうとしたけれど、引きつっていたかも知れない。何の用だ?
「やっぱりさ。智紀には謝らなきゃと思って。もしかしたら、俺があんなことを――」
「違うよ、謙信」
頭をゆるゆると振って、彼の考えを否定した。謙信が自分を責める必要なんて、全くないのだ。
「それは思い上がりってものさ。あのことと謙信は無関係。僕は、勝手に飛び降りて、怪我しただけだよ」
「……悪かった。もう言わないよ」
謙信は素直に頭を下げた。そして、もう一度目が合った時、奴はどこか悲しそうな表情を浮かべていた。
「それと、智紀。さっきも思ったんだけど」
いつになく真剣な目だ。まだ何かあるのか。
「君、誰と話をしていたの?」
え。
後ろを振り返る。脳がその言葉の意味を拒んでいるのか、いつまでも耳の辺りで反響している気がした。
黒田さんの姿は、病室のどこにも見当たらなかった。




