第0話 命の代償
目を覚ました。
真っ先に感じたのは腹の中心にある燃えるような痛みだ。マグマの迫り上がるような感覚が、どろりどろりと意識を支配する。
(熱い、熱い、熱いーーーー!!!)
空を見上げるようにして気が付いた青年、柱間ヒビキは、自分が崖から足を滑らせてここに落ちたことを思い出した。
町へ降りて薪を売った帰りに、怪しくなる空模様と白くなる息に慌てて足を滑らせたのだ。
5メートル程度の崖だ。ただ落ちただけなら、骨の数本折れたとて命の終わりを感じる程の重苦を味わうことはなかっただろう。しかし、不運なことに柱間青年の落ちた先には、先日の嵐で倒れた太い木の破片が聳え立っており、抉るようにして柱間青年の腹を突き破っていた。
下半身の感覚はなく、それでも、腹だけは煮え湯で刺されるように熱かった。体から痛みを吐き出したくて胸を掻きむしりたい衝動に駆られる。どうせなら体の感覚がすべて麻痺してくれていれば、穏やかに死ねただろうに。
大口を開けて足りない酸素を回そうとするがヒッヒッと頼りのない呼吸しかできない。胃のあたりから異物のせり上がってくる感覚があったのと同時に、口からはボタボタと血塊が溢れた。
「ぐ、がは…っ!!」
このままでは死んでしまうであろうことは明白だった。せめて患部の止血をと思ったが、体は指一本動いてはくれない。それどころか腹に刺さった太い枝が身体を貫通しても尚、重力でズブズブと体内を抉る。
絶望と恐怖で意識が朦朧とするなか、ふと柔らかい雪が柱間青年の頬を撫でた。
「見ぃつけた」
白い鈴蘭の花のような声だった。
血の流しすぎで目が霞んでよく見えないが、それでも、視界の端で人影と思われる姿をとらえた。
その人影がしんしんと柱間青年に近づいて膝をつく。
目の前で大怪我をしている青年を見ても、その人は動揺するそぶりもなく口の端をわずかに上げて笑った。
10代半ばの少女のように見えた。肌も髪も、身につけている服でさえその少女は白に覆われていたけれど、覗き込まれた瞳だけは豪炎を思わせる赤で揺らめいていた。
頬に当てられた手が無機物のように冷たくて、わずかに柱間青年の瞼が震える。
(懐かしい、色だ。俺は、この瞳の色をどこかで…)
じっとこちらを見つめる瞳の色に想いを馳せ、痛みが和らいでいくような気がした。けれど、懐かしい色の理由を思い出そうにも、脳へ回るはずだった血液が腹からどばどば流れ落ちていくため思考もままならない。
「た、すけ…ぁさい」
ただ生きたい…その一心で縋った。
それ以外は何もない。
声とともにまた血塊が吐き出される。
こくり、少女は迷うそぶりもなく頷いた。
「ええ、もちろんよ。嗚呼でも、あなたは私を恨むのでしょうね」
少女は瞳の炎を揺らして微笑む。
そしてその炎がだんだんと大きくなり、唇に冷んやりとした感触があるのと同時にふっと消えた。代わりに白く長い睫毛がか細く震えているのを見て、接吻されているのだと他人事のように理解する。
降る雪が何度も何度も青年を撫でた。
柱間青年が雪を見たのはこの日がはじめてだった。幼い頃から母や父に、雪の降る寒い日に外に出ることを禁じられていたからだ。雪はとても恐ろしいものだと、教えられてきたからだ。
はて、それは何故だったか。
(そうだ、雪は鬼を連れてくる。災いを呼ぶ氷の鬼をーーーーー)
息を飲む。
瞬間、心臓が止まった。
「あ、あ…ああっ」
すぐに再開された鼓動は痛いほど血管を膨らませて身体中に響く。目玉が茹だり溢れ出そうなのに、瞼を閉じることもできなかった。
先程の比でない熱が脳みそを沸騰させる。腹の傷はもう忘れてしまった。
唇に青年の血で紅を塗り、氷の鬼は妖しく笑って告げた。
「ねえ愛しいあなた、約束よ。いつか私を殺してね」
ーーーーー吹雪に吹かれて意識が飛ぶ。
そして青年、柱間ヒビキは、何の覚悟もないまま人間としての生を終えた。