一月六日
二日前、母を殺しました。
母は今クローゼットの中に入っています。
今日、朝起きた時に開けてみるとやっぱりそこで母は死んでいました。
夢かと思い何度も確認してしまいます。
家の外には恐くて出ていません。食事は冷蔵庫にある残り物ですませています。
母の死体が臭ってきたので、家にあるありったけの消臭剤をクローゼットに入れました。
それでも、臭いは消えません。
本当は消えているのかもしれないけど、死臭の空気が鼻孔の奥にずっと張り付いてるような気がするのです。
脳で異臭を感じてるのかもしれません。
警察に行こうか、死のうか、迷っています。
迷っているうちに二日経ちました。
どのみち僕の人生は終わりました。
逃げようかと考えた時もあります。いえ、今でも時折考えます。
母を憎んでいたんでしょうか。哀れんでいたのでしょうか。
分かりません。自分の感情すら今は全くわからないです。
考えること全てに答えがなくて混乱しています。
僕はただ、ずっと言い訳をしている。
人を殺したやつが自分を正当化しようとずっと言い訳しているのです。
半年くらい前までは僕らは普通の家族でした。多分、普通以上に仲の良い。
そう思うと不思議です。
人間の絆が壊れるのなんて一瞬なんですね。
当たり前の幸せなんて無いのですね。
7月の話。
父の誕生日に、僕らは始めて家族で居酒屋に行きました。
両親は僕が一緒に飲めるようになったことをとても喜んでいました。
話は弾んで、僕らは酔っぱらって、普段は聞けないような父と母の馴れ初めの話を僕は聞きました。
当時、父と母の若い頃だからおそらくバブルの頃でしょう。
父はそんな時も、周り浮かれた雰囲気が嫌いだったから、
誰と遊ぶでもなく、ただひたすら喫茶店で図面を書いていたそうです。
その喫茶店に父と同じく通っていたのが母で、母も当時は洋服のデザインの仕事をしていたため、
その作業をよくその喫茶店でやってたみたいです。
二人の間に会話こそ無かったものの、お互いずっと同じ空間にいることが多かったので、
なんとなく互いに気になってはいたみたいで、特に父は母が可愛かったから、本当はいつもいつも話しかけたかったんだと言っていました。
そんなある日、父と母がいつものようにその店で黙々と作業していると、
急に酔っぱらったスーツ姿のオヤジが母に声をかけて嫌がる母を無理矢理外に連れていこうとしたらしいのです。
焦った父はすぐに立ち上がって気付いたらその男を殴っていました。
そしてそのまま、驚いて口を開けている母の手をとって父は逃げ出したらしいです。
「結局、オヤジにされてることと同じじゃない」と僕が言うと、
「話したこともない父だったけど、いつも真面目に図面を書いている姿をみて、このひとなら信用できると思った」と母は頬を赤くしながら言いました。
奥手の父は、母を駅まで届けると、「さよなら」も言わずに去ってしまったそう。
だけど次の日、喫茶店行くとにやっぱりそこに父がいて、父が店のマスターに昨日のことを詫びていたから、母もそこに行って、一緒にマスターに謝ったのだそうです。マスターは優しくて二人にコーヒーをおごってくれたらしいです。
それから、二人は仲良くなって、バブルが弾けて不況になった時、「これから辛い時代かもしれないけど互いに助け合って生きていこう」と結婚し、僕を生んだみたいです。
普段真面目な両親からそういう話は聞かなかったので、僕はすごく以外でした。
そして、自分の話でもないのになんだか無性に照れ臭さかったの覚えています。
あの瞬間、あの空気は幸福でした。そこにいて、実感できるほど。
でも、その幸福な空気が僕らを壊したのかもしれません。
馬鹿みたいな話です今思えば。
くだらなくて、笑えます。
なんででしょう、こんな、こんなにくだらなくて、こんなにありきたりなことで人生が狂うのは。
家族が壊れた発端。この日、上機嫌になった父がその勢いで母に自分の浮気を告白したのです。
「浮気していたが、もう別れた」と。
父は馬鹿だから、たとえ自分がどんなことをしようと母が笑って許してくれるものだと思っていたのだと思います。
或いは、罪の意識に追い詰められ話してしまった部分も少しはあったのかもしれませんが。
しかし、どうだろうともう変わりません。どのみち、僕らはこうなってしまったのですから。
先ほど、父を馬鹿だと書きましたが、本当は僕も大馬鹿者です。
僕自身、母は結局父を許すだろうと思っていたのです。
だって、傲慢で我が儘な父を母はずっと支えて来たから。いくつもの大切な思い出を、父と母はずっと共有してきたのだから。
だからそんな二人が、たかが一度の過ちで別れるはずがないと僕は思っていたのです。
馬鹿な僕は父が浮気の話をしている時も、横で笑って聞いていたのです。
軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで。
辛い、
辛い
この涙は誰に向けた涙でしょう。
嘘偽りの塊です。僕は一人になってなお、偽善の塊です
辛い
恐い、辛い辛い寒い辛い
今どうですか。温かいのですか寒いのですかここはどこですか嘘ですか本当ですか嘘ならやめてください本当なら消えてください嘘ならやめてください夢なら覚めてください本当なら消してくださいどうか、消してください
続きを書きます。すいません、続きを書きます。書かせてください。
浮気発覚の次の日、母は父に別居を申し入れました。
母は我が儘な父も、傲慢な父も愛していましたが、自分を裏切る行為だけは決して許せなかったのでしょう。
現実的にいうと父は油断したのです。
全て許しあえる関係、離れるわけのない家族。そんなものは幻想だったのです。
そして、僕もその幻想を信じていた。なんの根拠も無しに、その時まで。母が父を切り離す時まで。
人が持つ、人への理解なんてものは全て幻想です。
僕は一番身近な人すら、全く知れていなかった。
父は毎夜酔い潰れて帰ってくるようになりました。
酔っぱらいでもしないと、弱い父は母とちゃんと話すことが出来なかったから。
父は酔い潰れて母に泣いて許しを請います。しかし、母が話を聞いてくれないから、キレて泣いて、
「もう死ぬ」っといって家を出ていこうとしたりして。
その頃、父はまるで多重人格者かのようで一瞬で人間がコロコロと変わってしまうようでした。
泣き出したかと、すぐにキレて。謝っているのかと思うと罵倒して。
冷静に見れば、理不尽で何かのコントように滑稽でした。
僕は時折、この二人の騒動を酷く冷めた目で見ました。父が「死ぬ死ぬ」と毎晩のように騒ぐのを、馬鹿じゃないのと笑いながら、苛つきながら。
父は母を罵ります。
「おまえは冷たいやつだ。お前は綺麗ごとばかりいうけど本当は俺を追い出したいだけだ。お前は汚い。お前はずるい」
母は何も言いません。
他人からみると、馬鹿な話でしょう。
自分が過ちを犯したくせに、人を罵倒し、自分は悲劇の英雄を気取る。
実際、おかしな話です。
でも、父はこうなりました。父は弱い人間ですが、常識のある普通の者です。
そんな、父が事実としてこうなりました。
人の性格なんて、人格なんて、環境が壊れればすぐ崩れてしまうものですね。
この頃の父は少し近寄りがたい、雰囲気がありました。
正直、僕は父が家に帰ってくるのが恐ろしかったです。
でも、帰ってくるとそれを悟られぬよう無理に明るく振る舞って。
父もその演技を感じとっていたのでしょう。そして、辛かったのでしょう。
今思えばお互い、心の奥が見えなくて、お互い怯えていたのだと思います。
父は人の全てを疑っていました。人の些細な仕種も恐れていました。
ある日、父は僕と話してる時にわずかな沈黙ができただけで「お前は俺のことが嫌いなんだろ」と泣き出しました。
「そんなことない」と言ったら「偽善者」と怒鳴られ、僕は蹴飛ばされました。
なるほど、偽善者。
その通りでした。
父さん、実際僕はこの時期、何度も貴方を殺そうかと考えたのです。
貴方は母を傷つけ、自分を傷つけ、生きていてももう可哀相なだけだと思ったから。
でも、それと同時に僕は父に同情してました。
僕が父に同情したのはなんでだろうか。
自分でもわかりません。
父は母を傷つけた。もちろん残酷でした。
でも、僕にとっては、父の前では何も言わず、僕の前でだけ父をおとしめる母のほうも残酷でした。
父に同情したのはそのせいかもしれない。
だから、僕はどちらが悪い、どちらが良いだなんてことを言いたくなかった。
昼は母から遠回しに父を追い出す計画を聞かされる。
夜は父から母への思いと懴悔。母の残酷さを聞かされる
でも、そんな時、僕はどちらを励ますことも、どちらの味方になることもできなかった。
その時、僕は自分がひどく冷たい人間だと知りました。
こんなに身近な人が苦しんでいるのに、僕の感情はひどく平坦で、めんどくささしか感じなかったのです。
僕は脳みそでしか動きませんでした。
父のために涙を流すことも、母のために涙を流すこともしなかった。
疲れました。
考えれば考えるほど分からなくなる。
昔を思い出すと苦しくなる。
頭が痛い。
今日はもう書けない。眠りたい、寝かしてくれ、寝かしてくれ
何も出てくるな
もう何も出てくるな
お願いだから
お願いだから
出てくるな
寝かしてくれ
全部消えろ
寝かしてくれ
寒い、臭い
髪と指先に臭いがついて、はなれない
僕の人生はなんだったんだろう。
母を殺すために、生まれて来たのか。
これまでの人生は
良いことも悪いことも
ただ、母を殺すためのものだったんでしょうか。
それとも、全てが無意味なだけですか
ただ、一人の人間がとち狂って死ぬ、それだけでしょうか
寝かせてください。お願いします
僕はただの罪人なんですか
どうしてですか。なぜですか。
足音