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血雨  作者: Mayu
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Ⅳ 彼女について

あれから、お弁当の礼が言いたかっただけなのに、なぜだか気まずい空気になってしまった。洗濯物を取り込み、それから夕食までは二人とも最低限の会話しかしなかった。

食器を洗ってから二人とも卓袱台を前に座り、やがて仁美が口を開いた。


「私の母は去年他界して、実家には父親と、飼い犬のコロしかいません」



―――


二九年前。

緑の多い田舎に生まれた仁美は、特に病弱というわけでもなく、すくすくと清く育っていった。母親は育ちのいいお嬢様で、農家に生まれた父親とは貧富の差があった。当然結婚時は猛反対を受け、結局二人は駆け落ちして入籍してしまった。ただ、新年のあいさつやお盆には必ず帰るので、そんなとき、父親は母親の両親から冷遇を受け、あまり会話をしなかった。その嫌な空気は仁美もなんとなく感じていたが、母方の実家に帰っている間、父親とずっと遊ぶことで、彼はとても幸せそうに笑ってくれた。


「お父さん!遊びに行こう!」

「…ありがとう、仁美。」


精神があまり強くなかった父親は、仁美が毎回実家から連れ出すと笑顔になった。母親も父の事は大切にしていたし、家族仲が悪かったわけではなかった。


それが狂い始めたのは、仁美が大学受験に失敗してからだ。母は少なからず建前を気にする人だったので、それからは全く応援してくれなくなった。二回目からは受験料を自分で払いながらバイトも始め、仁美にとっては大変な下積み時代が幕を開けた。

あんなに大好きだった父親は何も言ってくれない。母親に逆らえないからだ。それで、家が嫌になった。

もう仁美は諦めていた。二十二で家を出て、無事東京の一般企業から内定をもらうことが出来た。二十歳の頃から資格の勉強は色々していたので、就職すること自体はそう難しい事ではなかった。

その職場で出会った男性と、恋に落ちた。

まるで、失われた高校三年生を取り戻すかのように、仁美は彼に夢中だった。

だが、まだ、身体の関係を持つ勇気はなかった。そのためには時間が必要だった。けれど男の方はそうではなく、避妊もまともにしない半ば流れで無理矢理、身体は犯された。


―――


そこまで話すと、仁美は黙ってしまった。

仁美はその時、嫌がっただろう。真面目そうで頑固な仁美の事だ、きっとゆっくり時間が欲しかったのだ。愛を積み重ね、二人の同意の下でしたかった行為を、男の方は一方的な性欲で無理矢理彼女を襲った。ほとんどレイプと同じだ。その末に


「その時出来たのが、純です。」


妊娠させた。

しかし子供に罪はない。罪を問うとしたらその男だ。仁美は出来る限りの愛を注ぎ、純には父親は生まれる前に亡くなってしまったのだと伝えた。


「言えないですよね。父親は、もう他の方と結婚してるなんて。」


しかも男は仁美を捨て、他の女性と結婚した。同じ男として許せなかった。晃一の場合、互いに身体を求め合うのは自信がなくて出来ないだけなのだが、もし仮にそういう状況になったとして、心の底から愛していればそんな酷いことはしない。


つまりそういうことだ。


その男は仁美を愛していなかった。それは彼女自身が一番理解している。


怖かっただろう。動物的に求められて。


「初めての…恋人だったんですけど」

「……ありがとう。話してくれて。辛い、でしょ。」

「良いです別に。死んでるんで。」


彼女の物言いは、ぶっきらぼうになっていた。晃一は不貞腐れた妹をなだめる兄のように、彼女の頭に手を伸ばしていた。圭一によくこうしていたのだ。


「思い出し泣き、とかしても良いよ。」

「……ずるいです、晃一さん」


大きな手に安心して、仁美は思わず堪えていた涙を流してしまっていた。彼女は涙も冷たくて、拭うとその拭った指から自分の体温が逃げていく。


「冷たい。」

「死んでますから…」

「意外と仁美さんって、幼いんだな。」

「え?どういう…」

「あ、いや悪い意味じゃなくて。凄くしっかり者で、真面目だから年相応のちゃんとした人なんだなって思ってたけど…」


一度そこで区切り、また仁美の頭を撫でる。涙がこぼれる顔を上げた彼女は、やはり幼く見えた。


「こうしてみるとやっぱり俺より年下で少し幼くて、仁美ちゃんって感じで。可愛く見える、」


何言ってるんだ俺は!?

自分で自分をびんたしたくなるほど変なことと言うか大胆なことを言ってしまった。仮にも妙齢の女性に、可愛いだなんて。

恐らく今の自分の顔は、目の前にいる仁美よりも真っ赤だろう。


「晃一さん…照れないで下さい」

「仁美さんこそ…」

「ちゃん、じゃないんですか?」

「え?」

「仁美ちゃんって感じがするって、言ったじゃないですか。」

「…え…あ…」


女性をちゃんづけで呼ぶのは久しぶりで、少し緊張する。


「…仁美……ちゃん」

「はい」


何なのだろう、この甘酸っぱい空気は。仕事で疲れているはずの身体は、空気が入り込んだようにふわふわとしていた。


ただの同居人で、赤の他人のはずなのに。



この暖かい気持ちの名前は、何なのだろう。

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