Ⅱ 変わる毎日
翌朝目を覚ますと、見慣れた天井が飛び込んで来る。また仰向けで眠ってしまったようだ。仰向けで寝ると鼾をかくというが、かいていなかっただろうか。まるで他人を気にするかのような考え方だ。普段一人暮らしをしている晃一は、なぜか誰かを気にかけていた。頭がよく回っていないまま上体を起こし、右側の綺麗に畳まれた布団を見て思い出した。キッチンの方からは、水が蛇口から溢れる音や、まな板を包丁が叩く軽快な音が聞こえる。
脳が起きろと命令してくるので、晃一は渋々布団からでて、誘惑の塊であるそいつらを押し入れにしまい込んだ。
「おはよう。」
「あ、すいません、起こしちゃいましたか?」
申し訳なさそうに「おはようございます」と言った彼女の肌は、太陽の光を反射して消えそうなほど白く見えた。触れたら壊れてしまいそうな脆さをチラつかせながら、彼女は再び流し場に向き直る。
「起こしてないよ。いつもこの時間に目が覚めるから。何してるの?」
「あ、えっと…私晃一さんの手伝いがしたくて、朝ごはん作ってるんですけど…。余計でしたか?」
「え、良いの?すごく助かる。」
「寝床まで用意して貰って、私がいる間にお金かかったら返せませんから…。」
「そんなの良いよ。俺の判断なんだから。」
「駄目です!そんなに甘えられません。」
意外と頑固な仁美は「お願い」というような目で見つめて来るので、晃一は困ったように微笑んだ。
「分かった。ご飯の用意で、貸すかもしれないお金はチャラってことで。ただし、仁美さんの分も作らなきゃ駄目。用意するときは二人分で。」
「え?私のもですか?」
「俺が一緒に食べたいから。」
悪いが、彼女が我を通すつもりなら、こちらも要求はさせてもらう。誰かとご飯を共にするということは、晃一にとって何よりの幸福のような気がするからだ。晃一が強く出ると、仁美は少し照れ臭そうに笑ってから答えた。
「分かりました。」
「よし、約束。これでフィフティフィフティでしょ?」
そう言うと仁美はそれは腑に落ちなかったのか、ちょっとだけ首をかしげてから頷いた。
約束通り朝ごはんは共に食べスーツに着替えて会社に向かおうとすると、仁美に呼び止められる。
「晃一さん、あの、これ…お弁当作りました…」
「え」
渡されたのは、確かに毎日使っている晃一の弁当箱だった。持つとずっしりしていて、そこで初めて作ってくれたんだと実感する。作ったと本人が言っているのだから当然と言えば当然なのだが、忘れかけていた優しさを感じた。
「私、誰かのためにお弁当作るの初めてで…。でも、きっと大丈夫です、食べて下さい。」
「…嬉しい。やばい、めちゃくちゃ嬉しい。」
「大袈裟ですよ、」
癖で俯かせていた顔を上げると、晃一は今にも泣きそうな顔を隠すように口を覆っていた。
「こ、晃一さん!?大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、本当に嬉しいだけだから。ありがとう。おいしく頂きます。それじゃ、行ってきます。」
「はい、いってらっしゃい…」
いつもよりなんだか足が軽い。それは気のせいなんだろうがそれでも構わない。電車に乗る時も、弁当箱は確かに鞄に入れているはずなのに、なぜかそこだけ温かくなっている感覚がある。
いつも通り社員証で中に入り、自分の部署に入る。晃一が務めている会社は保険会社だ。営業マンである晃一は毎日のように各家庭を回り、保険の勧誘をする。契約が取れた時はうれしいので、それなりに責任感と充実感を持って仕事をしている。
「川本くん」
「はい。」
今月の営業成績はそこそこ。先月はかなり良かったのだが、最近は伸びが弱い。課長に呼ばれてデスクに向かうと、今日の担当地域について説明され、すぐに外に出た。
近くの公園には桜が咲き乱れ、それを少しの間眺めてから契約者の元へと向かう。
新規契約者との話は弾み、アフターフォローも欠かさない。良い時間になって来たので一度会社に戻り、データをまとめてから昼食にすることにした。
「お疲れ様です、川本さん。」
明るい声色で話しかけてきた彼は橋田透。晃一の五つ下で、一昨年入った社員である。一度透のミスをフォローしたりなんなりしていただけなのだが、それ以来こんな風に懐いてしまったのだ。元気でハキハキと社交的な彼は、晃一の霊感の数少ない理解者の一人でもある。
「お疲れ。昼飯食べたか?」
「いえ、まだです。一緒に食べていいっすか?」
「あぁ。食べるか。」
鞄から弁当箱を取り出し、蓋を取る。中身はとても色彩鮮やかで栄養バランスも良い、女子力の高い弁当だった。
「いつ見ても川本さんの弁当ちゃんとしてますよね。俺なんて毎日のように買い弁ですよ。」
「いや、これは俺が作ったんじゃなくて…。」
「え!?彼女さんですか!?」
「いや、違う。」
透の事は信頼しているので、昨日あった出来事について説明したいのだが、少しここは人目が多い。透の性格上、秘密話を人気の多いところですることは憚られるので、晃一は透の腕を引いて会社を出た。
「ちょっと公園出よう。」
「なんすか!?告白っすか?」
「馬鹿か」
テンションが高い。だが悔しいことにコミュニケーション能力は会社でも一、二を争うほどで、彼のそういうところは尊敬している。誰からも好かれるのは彼の中身故だろう。
公園に出て、ベンチに座り込むと、晃一は真剣そうな顔で会話を切り出した。
「じつは――」
事の経緯を説明し終えてから、透が思いっきり息を吸い込んだところで彼の口を両手で塞ぐ。案の定その後叫んだ透は、確かに「幽霊が居候!?」と叫びやがったので溜息をつく。
「何のために人の少ないところ来たのか分からないだろ…。叫ぶなっつの」
「あ、すいません…。でも川本さん、幽霊自体は見えないんじゃなかったでしたっけ。」
「うん、そうなんだけど…。彼女は見えたんだ。」
「へぇ…。何でですかね。」
「さぁな。」
「で、そのお弁当は、その仁美さんが作ったと。」
「そう。」
「包丁とか大丈夫なんすか?」
なるほど。
何か聞きづらいところを聞く時は、大丈夫か、と聞くのが良いのか、と五つも年下の男から学ぶ。包丁持てるんですか?とかストレートに聞くのではなく、大丈夫か?と聞くだけで随分オブラートに包んだ言い方になる。
「うん、大丈夫みたい。」
「へぇ、なんか素敵っすね。新婚さんっぽい。」
「やめろそういう恥ずかしい言い方。」
そう突っ込むと彼は無邪気な顔で笑い、買っていたオレンジジュースのパックの口を開いて飲んだ。そのままラッパ飲みしてしまうあたり透らしい。晃一は零れてYシャツにシミがつくのが怖くて、どうしてもストローを貰ってしまう。
「あ、そういえば今日の飲み会。一緒に行きましょうよ。」
「忘れてた。」
「え~!?出ました、いつもそれですよ川本さん。」
「いや、今回は本当に忘れてた…。仁美さんとご飯食べたいからなぁ。」
「ラブラブですか。」
「違う。料理を作って待ってくれてるのが嬉しいだけ。今日はやめておく。墓参りも行きたいしな。また今度。」
「ちゃんと前日に俺が連絡しますから、その時は来てくださいね。一緒に飲みたいっすもん俺。」
「別に社の飲み会じゃなくても、二人で行けばいいだろ。」
そういうと、透が間抜け面をこちらに向けて見つめてきた。横目に視界に入って来るのだが、やがて晃一の方がしびれを切らして口を開いた。
「なんだ、」
「良いんですか二人呑み!!」
「いや…別に嫌だなんて言ってないだろ。」
「うわぁ、もう川本さん好き!!」
「気持ち悪い、黙って食え!」
上司二人で飲むことが、そんなに嬉しい事なのだろうか。自分も尊敬する上司はいたが、ここまでではなかった。二人だけとなるとさすがに緊張するし気を遣う。それだけ好かれていると思うと、もちろんうれしい。しかし抱き着いてきたのでひっぺがす。
晃一が死に敏感になっている原因も知っていて、、なんだかんだ気の置けない関係ではあると思っている。親友、というか良友とはこういうことなのだろうか。
晃一は卵焼きを一つ食べ、噛むと出汁のいい匂いがした。